削られる音
「ちょっと、削らせて」
その言葉と同時に、空気が歪んだ。
店主の手が伸びる。
指は五本あるはずなのに、
その形を認識しようとすると、頭が拒否する。
見てはいけない形。
理解してはいけない何か。
「……っ!」
体がやっと動いた。
後ろへ飛び退く。
足がもつれそうになる。
「逃げるの?」
店主が首を傾ける。
その動きは人間と同じなのに、
どこか“遅れている”。
いや——違う。
周りの世界の方が、遅れているみたいだった。
「無駄だよ」
一歩。
音もなく近づいてくる。
「もう見えてる時点で」
また一歩。
距離が一瞬で詰まる。
「君は、こっち側なんだから」
「動いて」
横から、声。
魔女だった。
さっきと同じ場所にいたはずなのに、
気づけば僕のすぐ隣にいる。
「考えなくていいから、走って」
低い声。
でもその中に、わずかな緊張が混ざっていた。
「で、でも——」
「いいから!」
初めて強い声が出た。
反射的に、体が動く。
走る。
とにかく前へ。
路地を抜けて、曲がって、また走る。
後ろを見る余裕なんてない。
「無駄だって言ってるのに」
——耳元で声がした。
「っ!?」
振り向く。
いない。
でも次の瞬間。
前にいた。
「っ……!!」
急停止する。
店主が、目の前に立っていた。
ありえない。
さっきまで後ろにいたのに。
「距離なんて意味ないよ」
店主が、ゆっくりと手を上げる。
「認識できる範囲にいれば」
その手が、僕の顔に触れようとした——
「それ以上、近づかないで」
低く、静かな声。
魔女だった。
いつの間にか、僕の前に立っている。
店主と、僕の間に。
「……ああ」
店主が、小さく笑う。
「まだ残ってたんだ」
「しつこいね」
魔女は一歩も動かない。
「もう“向こう側”のはずでしょ」
「そうだよ」
店主はあっさり答えた。
「だから、バランスを取りに来た」
その言葉に、魔女の目がわずかに細くなる。
「この子、ズレてる」
店主は僕を指差した。
「ちゃんと削らないと」
空気が、さらに重くなる。
「世界が歪む」
「歪んでるのは、あんたたちでしょ」
魔女の声が、ほんの少しだけ冷たくなる。
「……ああ、そうか」
店主は、どこか納得したように言った。
「君、まだ“拒否してる”んだ」
「当たり前でしょ」
「面白いね」
店主が、ゆっくりと一歩踏み出す。
その瞬間。
音が消えた。
風も、人の声も、全部。
まるでこの場所だけ、切り取られたみたいに。
「じゃあ、壊してから削ろうか」
その瞬間だった。
魔女の足元から、何かが“広がった”。
影。
いや、違う。
影の形をした、何か。
それは地面を這うように広がり、
店主の足元へと伸びていく。
「……それ」
店主が、初めてわずかに反応を見せた。
「まだ使えるんだ」
「使ってるわけじゃない」
魔女は静かに言う。
「“残ってる”だけ」
影が、店主の足に触れる。
その瞬間。
「——っ」
店主の体が、わずかに歪んだ。
「やめてよ」
低い声。
さっきまでの余裕が消えている。
「それ、ルール違反だよ」
「ルール?」
魔女が、少しだけ笑う。
「そんなの、まだ信じてるんだ」
影が、さらに絡みつく。
店主の輪郭が、崩れ始める。
「っ……!」
店主は後ろに下がる。
初めて、“距離を取った”。
「……今回はいいよ」
声が、少しノイズ混じりになる。
「でもその子——」
僕を見た。
いや、“見ている気がした”。
「すぐ壊れる」
ぞくりとする。
「そしたら、ちゃんと来るから」
その言葉を残して——
店主の姿が、消えた。
音が戻る。
風が吹く。
遠くで人の声がする。
何もなかったみたいに。
「……はぁ」
魔女が、小さく息を吐いた。
初めて、人間らしい動きだった。
「ギリギリだったね」
振り返る。
「……今の、なんなんだよ」
声が震える。
魔女は少しだけ考えてから、言った。
「さっき言ったでしょ」
「削るって」
「うん」
僕を見る。
まっすぐに。
「今のは、その“回収係”みたいなもの」
「……回収?」
嫌な予感しかしない。
「削られきった人間はね」
少しだけ、間を置いて。
「放っておくと、消えるの」
「……それの何が問題なんだよ」
「消えるだけじゃないから」
魔女の目が、少しだけ暗くなる。
「“穴”になる」
「……は?」
「この世界に」
理解が追いつかない。
でも——
嫌なことだけはわかる。
「そして君は」
魔女が、僕の影を見る。
「その“穴”に一番近い」
背筋が凍る。
「だから狙われる」
静かに、確実に。
「壊されて、削られて」
「最終的には——」
言葉が止まる。
でも、続きは言わなくてもわかった。
「……どうすればいい」
やっと、それだけ言えた。
魔女は少しだけ笑った。
「いい質問」
そして、ゆっくりと言った。
「生き残りたいなら」
一歩、近づく。
「“見ないこと”を覚えな」
「……は?」
「全部見てたら、壊れるから」
その言葉の意味を考える前に——
魔女は続けた。
「それか」
少しだけ、楽しそうに。
「逆に“壊す側”になるか」




