眠らない魔女
「君、もう“選ばれてる”から」
その言葉が、頭から離れなかった。
「……何にだよ」
やっとのことで、それだけ返す。
目の前の女は、少し首をかしげた。
「さあね」
あっさりしている。
「でも一つだけ確かなのは——」
女は、僕の“影”を指差した。
「それ、もう普通じゃないよ」
反射的に足元を見る。
影は、ちゃんとある。
太陽の位置に合わせて伸びている。
……ように見える。
「どこがだよ」
「よく見て」
言われて、もう一度見る。
じっと。
じっと、見つめる。
——その瞬間。
影が、動いた。
僕が動いていないのに、
ほんの一瞬、遅れて。
「……っ!」
息が詰まる。
「ね?」
女は楽しそうに笑う。
「ズレてるでしょ」
「……なんなんだよ、これ……」
「だから言ってるじゃん」
女は一歩近づく。
距離が近すぎる。
なのに、なぜか逃げられない。
「“選ばれた”って」
風が吹いた。
でも、女の髪は揺れない。
そのことに気づいて、背筋が冷たくなる。
「……お前、誰だよ」
女は少し考えるように目を細めてから、言った。
「名前なんて、もう意味ないけど」
少し間を置いて、
「昔は、“魔女”って呼ばれてた」
「……昔は?」
「うん」
あっさり頷く。
「今は違う」
その言い方が、妙に引っかかった。
「じゃあ今は何なんだよ」
女は答えない。
代わりに、ゆっくりと空を見上げた。
昼なのに、どこか暗く感じる空。
「ねえ」
唐突に、女が言う。
「この町で、違和感感じたことない?」
「……さっきのパン屋だろ」
「それだけ?」
そう聞かれて、言葉に詰まる。
違和感。
ある。
でも、言葉にできない。
「例えばさ」
女は指を一本立てる。
「昨日の夕飯、思い出せる?」
「……は?」
急な話題に戸惑う。
でも、言われてみて——
考える。
昨日の夜。
家で。
何を食べた?
パン?
スープ?
いや、違う。
思い出せない。
「……なんでだよ」
「それ」
女は静かに言う。
「削られてるから」
心臓がドクンと鳴る。
「魔法、見たことあるでしょ?」
「……ある」
この町では普通のことだ。
誰でも使える。
星に触れれば。
「じゃあ、それを使った人の“その後”は?」
「その後って……」
言いかけて、止まる。
考えたことがなかった。
使えるのが当たり前で、
便利で、すごくて。
それ以上、何も。
「考えないようにされてるんだよ」
女は淡々と言った。
「使うたびに削れてく」
「何が……」
「人間が」
空気が、重くなる。
「記憶とか、感情とか、存在そのもの」
女の目は、どこか遠くを見ている。
「最後はね」
少しだけ、声が低くなった。
「“見えなくなる”」
「……は?」
「正確には、認識できなくなる」
パン屋の顔が、頭をよぎる。
「さっきの人、あれだよ」
「……っ!」
「もうほとんど残ってない」
信じたくない。
でも、あれを見た後じゃ——
否定できない。
「じゃあ、なんでみんな……普通に……」
「簡単」
女は即答した。
「気づけないから」
「なんでだよ!」
思わず声が大きくなる。
通りの人が一瞬こっちを見る。
でもすぐに、何事もなかったみたいに歩き出す。
「ルールだから」
女は静かに言った。
「この世界の」
「……ふざけんなよ」
吐き出すように言う。
「じゃあなんで僕は見えるんだよ!」
その問いに、女は少しだけ笑った。
「だから珍しいって言ったじゃん」
一歩、近づく。
そして、また僕の影を見る。
「普通はね」
ゆっくりとした声で。
「壊れてから、見えるようになるの」
「壊れるって……」
「人間じゃなくなるってこと」
ゾッとする。
「でも君は違う」
女は断言した。
「まだ“こっち側”なのに見えてる」
「……それがなんなんだよ」
女は少しだけ考えてから、
「二つに一つかな」
と、言った。
「一つは、すごく運が悪い」
「……もう一つは」
女の口元が、わずかに歪む。
「もっと悪い」
背中に冷たい汗が流れる。
沈黙。
風の音だけがする。
そのとき。
「……ねえ」
女が、ぽつりと呟いた。
「後ろ、見ないほうがいいよ」
「……は?」
意味がわからない。
でも。
言われた瞬間。
背後に“気配”を感じた。
ゆっくりと、振り向く。
そこには——
さっきのパン屋の店主が立っていた。
いつの間にか、すぐ後ろに。
音もなく。
「……あ」
店主が、口を開く。
「思い出した」
ゾッとする。
何を?
「君」
一歩、近づく。
「さっき、“いらない”って言ったよね」
逃げなきゃ。
でも足が動かない。
「それ、困るんだよ」
声が、少し変わっている。
「“選ばれた側”に拒否されると」
空気が、歪む。
「バランスが崩れる」
「……っ、なんの……」
店主は——
ゆっくりと、手を伸ばした。
その手は、人間の形をしていなかった。
「だから」
低い声。
「ちょっと、削らせて」




