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見えてはいけないもの

朝は、いつもと同じだった。

パンの焼ける匂い。

通りを歩く人の声。

窓から差し込む光。

何も変わっていないはずなのに——

「……いない」

僕は、小さくつぶやいた。

パン屋の前に立つ。

いつも通り、店主はそこにいる。

白いエプロンをつけて、笑っている。

「おはよう、坊や」

声も同じ。仕草も同じ。

だけど。

「……誰だよ、それ」

気づいてしまった。

顔が、わからない。

目も、鼻も、口もあるはずなのに、

頭の中で形にならない。

ぼやけているわけじゃない。

最初から“認識できない”みたいに。

周りの人たちは普通に話している。

「いつものパンちょうだい」

「今日は天気いいねぇ」

誰も疑っていない。

まるでそれが当たり前みたいに。

「……なんで、気づかないんだよ」

喉が乾く。

心臓が、嫌な音を立てる。

——昨日までは、こんなことなかった。

昨日の夜までは。

あの森に行くまでは。

夜。

空が裂けた。

あの音は、今でも耳に残っている。

普通の星は、光を引きながら落ちてくる。

みんな願い事をする。笑う。

でもあれは違った。

光っていなかった。

黒いまま、音だけを残して、森に落ちた。

気づいたら、僕は走っていた。

どうしてかはわからない。

ただ、“行かなきゃいけない”気がした。

森の奥。

木々の間に、ぽっかりと空いた場所。

そこに——あった。

黒い塊。

星、のはずなのに。

触れた。

その瞬間。

何も起こらなかった。

光も、音も、力も。

何も。

ただ——

自分の影が、少し遅れて動いた気がした。

「……ねえ、聞いてる?」

現実に引き戻される。

パン屋の前。

顔のない店主が、こちらを見ている。

いや、“見ている気がする”。

「今日は買わないのかい?」

その声に、背筋が凍る。

普通だ。

全部、普通なのに。

何かが決定的に違う。

「……いらない」

僕は一歩下がった。

店主は、ほんの一瞬だけ——

動きを止めた。

まるで、考えているみたいに。

そして。

「そうかい」

また、笑った。

逃げるようにその場を離れる。

足が勝手に速くなる。

頭の中がぐちゃぐちゃだ。

なんだよ、これ。

なんで僕だけ——

そのとき。

視界の端で、何かが動いた。

振り向く。

路地の奥。

誰かが立っている。

長い髪。

白い服。

じっと、こちらを見ている。

いや。

瞬きひとつせずに。

「……っ」

目が合った。

その瞬間。

その女は、口を開いた。

距離があるはずなのに、声はすぐそばで聞こえた。

「見えてるんだね」

冷たい声だった。

「それ」

足が止まる。

逃げなきゃいけないのに、動けない。

女はゆっくりと近づいてくる。

足音はしない。

「安心していいよ」

そう言って、微笑んだ。

でもその目は、全く笑っていなかった。

「君だけじゃないから」

目の前まで来た女は、僕の影を見て——

少しだけ、楽しそうに言った。

「でも、珍しいね」

そして、顔を上げる。

「普通は壊れてから見えるのに」

一瞬の沈黙。

「君はまだ、“人間のまま”なのに見えてる」

心臓が跳ねる。

「……なんなんだよ」

声が震える。

女は、ゆっくりと答えた。

「簡単だよ」

そして——

僕の耳元でささやいた。

「君、もう“選ばれてる”から」

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