幕間十一 腐れ儒者二
投稿、間が開きまして申し訳ありません。
9月20日加筆しました。
沛公の陣へ訪れた酈食其は、兵士に取次ぎを頼む。
兵士は、目の前に立つ身窄らしい老人を見て、顔をしかめたが高陽の太守の推挙、と言われれば通すしかない。
報告を受けた劉邦は、すぐに会おうとしたが、相手が嫌いな儒者だったと思い出し、少し悪戯を仕掛けてやろうと考えた。
酈食其が通されると、劉邦は足を投げ出して二人の妾に洗わせている最中だった。
しかもこちらを、チラっとも見ようとせず
「こらこら、もう少し力を込めんか。くすぐったいだけではないか。
そうそう、上手いぞ」
うふふ、きゃっきゃとふざけて騒いでいたのだった。
その姿は冠どころか、衣服は寝るときのままというありさま。
酈食其は、その光景の非常識さにカッと頭に血が昇りそうだったが、相手は儒者嫌いの劉邦であることを思い出し、これは何らかの性質の悪い悪戯だと看過した。
そこで、本来であればひざまづいて挨拶をするところであったのだが、立礼で軽く、頭を下げただけでいきなりこう陳べるのであった。
「ふむ、どうやら沛公におかれては、秦を倒すというより、むしろ手下となってお味方である楚軍を攻撃するお積りのようだ」
今度は劉邦がカッとなり怒鳴った。
「なんだとこの腐れ儒者め!
いきなりやって来て、何を言うかと思えば、俺が秦の為にお味方を攻撃するだと!
気でも狂ったか!
天下の民は秦の暴政に苦しめられてきた。
我が軍は、懐王より関中を征するために遣わされた事を知らんのか!」
酈食其は、劉邦の怒りを平然と受け流しながら
「さればです。
義の軍を興し、非道の秦を倒すと言っている将軍が、体を投げ出してふんぞり返り、足を美姫に洗わせたまま、年長者に会っても良いとおっしゃるので?
それで、天下の民は将軍について来ますかのぅ?」
劉邦は言われてハッとし、もはや悪戯を仕掛けて、大嫌いな儒者を笑ってやろうと考えていたことなど頭の中から綺麗さっぱり消えてしまった。
「こ、これ下がっていなさい」
と、バツが悪そうに妾達に命ずると
「これは大変失礼なことを致しました!この劉邦、先生に謝罪致します。
非礼をどうかお許しください……」
と、逆に酈食其の前にひざまづき、頭を垂れるのであった。
「すぐに、すぐに衣服を改めまして席を用意させますゆえ、先生はそのままお待ちくださいませ
おい!誰か!
先生に机とお飲み物をご用意しろ!」
酈食其は、これまでに沢山の役人や、反乱軍の首領などに会って来たが、誰も言う事に耳を貸そうとしないばかりか、酈食其の身なりが貧しいからと追い払われる始末。
「沛公、尊大にふんぞり返り、人を見下しすぎるのも良くないが、あまり卑屈になりすぎるのもよろしくありません」
と、あまりの変わり身の落差に注意を入れる。
だが他の、少し機会に恵まれたからといって小さな反乱軍の首領などになり、それを笠に着て、威張ってばかりだった者たちと比べると、劉邦ははるかにマシな態度である。
「は、ははっ!」
そして今、目の前の男は恐縮しきりである。
(ふむ、これは想像以上に素直なところがあるようだ……
高陽の太守どのの言うとおり、酔いから醒めてみるのも悪くないか)
改めて、酒席を用意させた劉邦は、酈食其を上座に座らせ、自分はへりくだって下座につき、真剣に話を聞く態度を取った。
(おう、これが噂の竹冠(※)か……。
確かに見たことはない素材、造り……しきたりにとらわれていないが、形だろうか?作り方か?仕上げにも美意識が感じられる。
この男、単なる粗野な物知らずとは違うらしい……)
酈食其の劉邦への評価が目まぐるしく上下する。
劉邦は、話が一段落したのを見計らって
「我が軍は懐王より命を受けて、関中入りを目指していますが、どうですか?
関中へ一番乗りできるでしょうか?」
劉邦は率直に聞いた。
「思うたまま、述べてもよろしいですか?」
「それはもちろんです、気づいたことをおっしゃってください」
「沛公におかれては、無頼者の中から身を興し、今や秦を打ち倒す可能性を秘めた、将軍の一人に上り詰めました。
だが、秦は未だ強大であり、章邯率いる本隊も残っております。
さらに、関中へ先を争う項将軍の存在もあります。
そこで、沛公軍の陣容を見るに、やはり寄せ集めの感はぬぐえません。
対する項将軍が頼みとする旗本は、彼と縁深い会稽を中心とする江南の若武者、八千騎が結束を固め、戦の強さで言えば秦を凌駕しましょう。
これに対抗するには、ある程度取捨選択が必要となってきます。
関中へ向かう進路で、沛公はどの道を進み、どの街を落とし、どの街を捨てるのか考えてますか?
目の前にあるから、近いからと言って策もなく攻めたりしていませんか?
進軍に合わせて途中の街を楚側へと平定する事も大事ですが、一番大切なことは秦を倒す事。
それにはやはり関中へ入ることです。
途中の街を攻めずに素通り、もしくは迂回などで進み、割り切ることも大事なのです」
劉邦は、目から鱗が落ちる思いだった。
酈食其が言った事は、全てあてはまっており、行き当たりばったりで進軍していたことに今更ながらに気づいた。
張良が離れてから、冷静に大局を見れる人物がいなかったのだ。
それだけに張良と早く合流したかったし、張良が傍にいない場合にも代わりになりうる人物は、喉から手が出る思いで欲しがっていた。
劉邦は瞬きをするのも忘れ、酈食其の言葉を一字一句たりとも聞き逃さないと真剣に聞いている。
「そこで……、捨ててはならない肝となる場所が陳留です。
陳留は、天下の要衝で四通八達(交通の要)の地です。
しかもかの地にはかなりの穀物の備蓄があるとか。
こここそ、落とさねばなりません」
「陳留……陳留か」
劉邦は、目の前が少し開けたのを感じた。
闇雲に関中へ、ただ関中へと気持ちが焦っていたのが、確かな道しるべとなるものが見えた気がしたからだ。
酈食其は続けて言う。
「陳留の長官とはよく知る仲なので、これから出向いて行き、沛公の軍門へ降るように説いてまいります。
沛公は私が出立したら、静かに陳留を取り囲んでいただきたい。
長官が説得に応じれば良し、応じない場合は、陳留におります私の弟や知人と蜂起いたしますので呼応して攻めて頂きたい」
劉邦は大いに感心し、喜んで酈食其を送り出した。
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結果として、酈食其の説得は失敗したが、すぐに弟と共に叛旗を翻し外から劉邦が攻め立てて陳留は落ちた。
陳留が貯蔵してあった食糧と、物資は劉邦が手に入れ、大いに助かることになる。
劉邦は、酈食其に感謝し「広野君」の称号と俸禄を与え、そして劉邦の幕下に加わることになった。
酈食其はこれ以降、劉邦の使者や参謀として活躍していくことになる。
※竹冠……竹の皮を使って自作した劉邦オリジナルの冠。それまでにないものだったらしく、当時かなり珍しかったようで様々な文献で記述が見られる。




