陳余からの手紙
函谷関――
中国では、要害の代名詞的存在である函谷関。
余談だが、その名は遠く日本にも轟き、童謡にも登場する。
滝廉太郎作曲の「箱根八里」という唱歌である。
♪箱根の山は天下の嶮 函谷関もものならず
萬丈の山 千仞の谷
前にそびえ 後方にささふ
雲は山を巡り、霧は谷を閉ざす
昼猶闇き杉の並木♪
~以下略
意訳 :
箱根は有名な険しい山です あの、函谷関も相手にならないほど険しいでしょう
山の高さは万丈 谷の深さは千尋(山も谷もめちゃ高いしめちゃ深い)
前は障害があり、思わず後ろに退いてしまいそうだ
~以下略
実際に、箱根は関東への侵入を防いでくれる天然の要害で東海道を大きく妨害する存在であった。
日本では古来より箱根から以東を関東と呼び、中国も函谷関で関東と関中(関の東、関の中)を分けるのである。
さて、その険しい函谷関では地形的な要素に油断せず、昼夜を問わず常に警戒を続けていた。
すでに夜更けと言っていい時刻である。
警邏の雑兵が馬のひづめの音を聴いた。
「ん?待て!
止まれ!」
戟を前方に突き出すように構え、暗闇に向かって叫んだ。
「副将の司馬欣である!今戻った!
章邯将軍へ目通りを!」
松明を掲げる兵が出てきて、夜闇へ目をこらす。
やがて、馬に乗る司馬欣を目視で確認できた。
「おお、司馬欣将軍!
さ、こちらでございます」
門番の案内で、すぐに章邯へと通された。
章邯は立ち上がって司馬欣を迎えた。
「司馬欣、援軍はどうであったか?」
しかし、章邯の前に出た司馬欣は、まるで張りつめてた糸が切れたように立ちくずれ、泣き始めたのだった。
「おおお……
章邯将軍、もう、もう、秦は駄目でございます。
我らの一族は全て趙高によって捕らえられました。
私も、あなた様も董嬰の一族も、全てです。
趙高が我らに敗戦の罪を着せ、罪人として全員処刑されるでしょう。
もはや勝っても、負けても地獄でございます。
趙高めが…趙高が……
おおおお……!!!」
「なんだと!?
どういう事だ!?詳しく話せ!」
章邯は問いただす。
やがて、全てを聞いた章邯は
「そうか、ご苦労だった……下がって休むがよい……」
力なく、そう告げるので精一杯だった。
□□□□□□
これより前後するが、章邯の元にある人物より文が届いていた。
「陳余とはあの”刎頚の交わり”で有名な陳余か……」
文にはこう記してあった。
『秦は、失政を重ね、天の命運を失い、国を亡くすところまで来てしまいました。
平定したはずの地は民が立ち上がり、反秦の声が大地を埋め尽くしています。
皇帝は政治を行わず、酒と色にふけり、奸臣がはびこって権勢を争い、そのために国の命運が尽きようとしています。
あなたは文官でありながら、馬を駆り、剣を奮い、兵を指揮すること数十戦、功績を立ててきましたがその大きさな功績ゆえに趙高は危険視しています。
今あなたの手元には二十万の大軍が控え、さらに咸陽から遠く、目の届かない場所にいる。
趙高は気が気ではないでしょう。
かといって、あなたが皇帝に直訴して政道を正すことも叶わず、さりとて趙高に邪魔をされれば勝てる戦も勝てない。
その趙高は、自身の失政で皇帝より罪を問われることを恐れ、あなたに罪を被せ誅するつもりでしょう。
つまり、何か落ち度があれば直ぐに誅され、功を立てても罪を着せられ誅される。
まさに、進退窮まった状態です。
あなたは国を憂い、立ち上がった誠の忠義の士であり、そのことは天下万民が広く知るところです。
ですが、その崇高な志をあざ笑い、己の欲望を満たすために利用する輩がいたことが不幸です。
私はあなたの境遇に同情を禁じえません。
このままだと援軍はおろ、物資の供給も受けられなくなり、前にも後ろにも進めなくなります。
ただ一人、孤軍奮闘し、中原の一粒の砂と消えてしまう、それはとても哀しいことです。
私はあなたの名を、才を、その忠義ある心を惜しむ者。
秦は、天の命運を失ったからこそ、今の現状であると認識すべきです。
なぜ、あなたも私たちと共に、民を苦しめる秦を倒さないのですか?
私はあなたが望むのであれば千戸候、万戸候はおろか、王にまでなれるのではないか、と思っています。
それとも亡国の為に命を削り、無実の罪で誅殺される方を選びますか?』
読み終えた文を机に置き、息をゆっくりと吐く。
その顔には苦慮の影が浮かび上がっている。
「私は一体どうすればよいのだ……?」
暗闇に問いかけても、ただ静寂が答えるのみだった。
千戸候、万戸候:
それぞれ一千戸(約七千人~一万人ほどか)、一万戸(約七万~十万人ほど)を治める領地を持った諸侯、貴族的な意味合い。




