項羽の「背水の陣」 その一
黥布の活躍により楚軍は全て黄河の渡河を終えた。
ここより鋸鹿までは後ほんの少しである。
黥布をねぎらった後、項羽は全軍を集めこう命令した。
「まもなく秦軍に接近する!
我らが楚の仇敵、秦を倒す事こそが悲願!その為に我らはここまで来た!
今は亡き武信君も天から見ているであろう。
よいか!!これより全軍食料を各自三日分だけ残し、船は全て壊せ!!
帰り道は最早存在しない!生きたければ勝て!
勝って秦軍の兵糧を奪い、食うよりそれ以外の道はない!
この戦、三日以内にケリを付けねば我らは死あるのみ!
全軍取り掛かれっ!!!」
応っ!!と楚全軍から勇ましい声が響き渡る。
それぞれ黄河に物資を投げ込む者、集めて燃やす者もいる。
めいめいに兵糧を処理しているようだ。
「ああ……、何てもったいない……」
韓信は聞いていない振りをしていたが、同僚がもらした呟きには大いに共感できる。
そもそもこの時代、余程裕福な者でなければ腹いっぱいの飯など毎日は食えぬのだ。
反乱軍に参加する若者は軍に入れば食い扶持を保障してもらえる、という理由で入ったものも多い。
生きる事に必死の庶民にとって国がどうとか、主義主張などよりも目の前の食料なのだ。
韓信も気は進まなかったが、三日分と少しだけ残して郎中頭に渡した。
韓信は警護を続けながら先ほどの項羽の演説を思い返していた。
項羽の話は韓信にとってこれまでにない程の衝撃を受けた内容だったからだ。
今まで単細胞の脳荕武力将軍だと思っていた項羽が常識を覆す策戦を実行に移す。
それはおぼろげながら自分がやろうとしていた方向性と似ていたというか、いや韓信にはまだそこまでの明確な形などなかったのだが、少なくとも常識に囚われない発想からの産物である事は分かった。
(古の越の范蠡のような奇策の部類だ……。)
范蠡とは韓信達の時代から遡る事二百五十年程前の人物だ。
当時の事は春秋時代と言われている時代区分だが、今以上に細かく国や勢力が別れていて互いに覇を競い合っていた。
その范蠡は南方の越という国の政治家、武将だった。
ある時隣国の呉から攻められた越は范蠡の奇策により撃退する事に成功する。
その策とは、囚人だけの部隊を作り、呉と正面から対面し戦闘が始まるといきなり自害をする、というものだった。
しかも隊列が次々と前に出て一列ごとに自分で自分の首を掻き切って行くのだ。
あまりの事にあっけに取られる呉軍。
そして次の列がまた前に出て自らの首に刃物を当てる。
そのまま首を切ると思いきやそこからいきなり呉軍に襲い掛かったのだ。
呉の部隊は大混乱を起こしその隙を突いて越は徹底的に攻撃を仕掛けた。
結果は越が大勝利を収め、呉は王が大怪我をするなど散々であった。
(これは……何という発想だ……!
項羽は短期決戦を選び、しかも自らを兵法で言う『死地』へと追い込み退路を断った。
これで楚軍の攻撃が激しくなる事は間違いない。
この戦……後世に残る戦闘になるぞ……)
韓信は少し気になった事があり、確かめる為にまだ準備で忙しい楚陣の中を「ある人物」目指して探し歩く。
その人物は程なく見つかった。
「范増様」
「ん?お主は」
「郎中(警護役)の韓信と申します」
「そうか、お主は定陶の時の……
ふむ、何か用か?」
「此度の策は范増様で?」
「何故そう思うのだ?
項将軍が自ら考えたのかもしれんぞ?」
「項羽様は武芸に秀でてはおいでですが、こういったその、『兵法通りでない』奇策は得意ではなく。
范増様の献策では、と思いまして」
「そうか」
と言い韓信に背を向け范増は歩いていく。
着いて来い、という意味だと分かった韓信は後を追う。
戦の準備で活気付く陣を離れ、人がいない所で范増は止まった。
「定陶の時は世話になった。
あれはわしの中でも忘れられん苦い出来事じゃ。
しばらくは自身の無力感に苛まれておった。
確かに此度はわしが策を進言した」
「やはりそうでしたか」
「お主には世話になった。
定陶での礼を兼ねて教えておこう。
だが、お主はどうも只の郎中ではないようだな」
范増の目が鋭い光を放っている。
「私の望みは将となり、戦を自分の思うがままに料理してみたいのです。
此度の秦への反乱は自分の力を試す為に身を投じました。
ですが、項羽様のお側付きになったものの全く相手にもされず、目を合わせてももらえません。まるで空気の様な扱いです。
私はお世辞にも武の方はからきしでございまして、願わくば范増様の様に知恵を磨く機会を得たいと日々悶々としているところでございます。」
范増は韓信の全身をくまなく見る。
なるほど。
確かにあの御仁からは相手にされぬであろう、何と言うか武人にはとても見えない。
項羽の好みは見るからに強そうな屈強な男か、正反対の印象であるが技巧派の鐘離眜の様な武将。
もしくは戦場という舞台で人目を引く華がある男だ。
韓信は背は高いがひょろっとしており覇気も感じられない。
線が細く筋肉も付いていない。これでは項羽に相手にされないだろう。
だが、范増は韓信を只者ではないと見た。
「一度、お主を項将軍に推挙してみよう。
だが、一度だけだ。
将軍の性格では一度ダメであれば評価が覆る事はない。
それから、重く用いない場合はお主を殺すように言っておく」
さらっととんでもない言葉が混じっており、せっかく推挙されるという事よりもそちらが気になる。
「!!私は殺されるのですか!?」
「仮に、この程度の事で死ぬような男であれば、戦を思いのままに料理するなどという事は到底出来んよ。
そうであろう?
まぁ他の主を探したほうがいいかもしれんの」
と言って韓信に背を向けて歩いていく。
背を向けたまま范増が言う。
「お主が只の大法螺吹きなのか、歴史に名を残す武将になるのかそれで少しは分かるというものだ。
ついでにこれも教えておいてやろう。
此度の策がわしの物だと気付いた褒美だ。
実はな、多くはないがあらかじめ兵糧は隠させてもらった。
一番いいのは三日以内に勝負を決する事だ。
だが、もしもの事を考えて手を打っておくのが軍師という者だ。」
韓信はその場を動けずにただ范増の去っていく背中を見送るだけであった。




