韓信居巣へ向かう
サブタイトルというのは難しいものです…
酒家の離れで休んでいると、トントンと扉を叩く音がした。
どうやら桃花が来たらしい。
「入っていいよ。」
と扉に向かって声をかけると、きぃ、と扉が開いてそこには桃花がいた。
久しぶりに見る桃花は前に見たときよりも大人びて見える。
性徴期の少女は成長が著しいと言っていたのは誰だったか、子供だとはもう言えなくなってきた。
ん??桃花が胸に抱いているのは酒か?小さな身体を使って抱きかかえるようにして甕を持っている。
「桃花久しぶりだな、元気にしていたか??」
こく、とうなずく桃花。
まず目に付いたのは薄い桃色の服、帯は赤でまとめられている。
今まで茶色や灰系統の服しか(というより庶民が鮮やかな色の服を着る事は基本的にない。)目にしたことがないせいか、とてもまぶしく見える。
どうやら酒家の主人が気を利かせて桃花を着飾ってくれたらしい。
顔にもおしろいが薄くのり、唇に少し紅が差してある。
だが白いはずの顔が少し赤い。どうやら久しぶりに会って恥らっているのかな??
「うん!見違えたぞ桃花!!」
照れて、はにかんでいる姿も可愛らしい。
韓信が幸せな気持ちを味わっていると、桃花が袖の下から竹の札を出してきて韓信に渡す。
見ると竹には酒家の主人からの言伝が書いてあった。
どうやら長老と会う約束が取り付けられたらしい。
後で鐘離眜に話そうと韓信は袂にしまった。
桃花は小さな杯を手渡してくれた。どうやら酌をしてくれるみたいだ。
…何か知らないうちに、こういう方面に気が利くようになったな…。
少し複雑な気分だ。何だろう、このもやっとした気持ちは??
韓信は自分の心の内ながら説明できない状態に困惑する。
だが、その夜は久しぶりに二人水入らずで楽しい時間を過ごしたのだった。
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数日後の朝、会稽の門に韓信達三人と馬一頭の姿があった。
桃花も加わって本格的に落ち延びた王族の足取りを追うのだ。
結局、会稽の長老からは王族の生き残りについて有力な情報は得られなかった。
貴族の生き残り達が難を逃れてあちこちに住んでいるらしい、という位だった。
「それで鐘離眜、ここからどこに向かって行くんだ?」
「ああ、それについては大体見当がついてる。居巣だ。」
「居巣??」
「そう、居巣は彭城からほぼ真南に七百五十里(約300キロ)下りたところにある。范増老人が住んでいたところだ。」
「范増老人??ああ、項梁さまに楚の王族を捜せと言った老人か??」
「そうだ。よくよく色々な情報をまとめてみると、どうもあの辺りが有力なんだよな…。あと、これは予想なのだが范増老人はひょっとして何か知っていたのかもしれん。」
「そうなのか??それなら、素直に教えてくれればよいものを!」
韓信は特に深く考えずにその言葉を口にしたが、鐘離眜は首を振った。
「それが確実という保障はない。それに、それ以上に秦の世の中では滅びた国の王族の生き残りなんて情報は危険すぎる。范増老人も項梁さまが楚の王族を邪魔だと思う可能性も考えていたのだろう。だからまず、王族を捜す気があるのかどうなのか?そして王位に就ける気があるのかどうなのかを見極めたかった、と考えている。」
「なるほど…言われてみればもっともだな。だから最初から長老に聞けと言ったのか。」
この旅にそんな深い理由があったとは…。確かに王族の生き残りを見つけて連れて行ってもすぐ殺されてしまう可能性はあったわけだ。
だが、どうやら項梁も本気で王族に王位を就かせる気らしい。
「俺はその范増という老人を知らないが、相当な切れ者みたいだな。」
「ああ、これで無名だったというのだから恐れ入る。」
七十を過ぎているという話だが、秦の始皇帝が天下を統一したのが十年ほど前、それでも五十過ぎ、今の劉邦ぐらいか。働き盛りの二十代三十代は戦国時代の真っ最中だ。そんな時に范増は何をしていたのだろう??
世に出たいという野望があるなら、とっくに名前が知れ渡っていてもおかしくはない。七十年近くじっとしていたのだろう。今も反乱の混乱期ではあるが、戦国末期もそうとうな激動だった時代だと思うが…
韓信は范増という人物に興味が出てきた。その智謀もそうだが、それより今まで何を考えて生きてきたのか?何故今急に出てきたのか?いろいろ聞いてみたい。
韓信は世に出たかったが、戦のない時代に生まれた、だから出れなかった。そう思って生きてきた。范増は出ようと思えば出れたはずだ。戦国時代に生きてきたのだから。だがそれはしなかった、ということは世に出ることが目的ではない、という事になる。
韓信はそこまで考えて、詳しくは本人に聞くしかない、と結論付けた。
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韓信達が彭城を出発してから少し経った時、項梁陣営で小さな変化があった。
張良が項梁に韓の再興を進言したのである。
「今、この彭城を中心とした勢力は楚という国にまとまろうとしております。」
張良は項梁に面会を求め、項梁に話し始めた。張良のたたずまいは穏やかで知性と品を感じさせ、後世にまるで婦女子のようだと表現された整った顔。元韓の公族の血筋か、血なまぐさい戦場には一見すると似つかわしくない。
だが、項梁は目の前の張良が見かけどおりの男ではないことを知っている。
始皇帝暗殺事件。
行列に鉄槌をぶちかまして始皇帝を殺す一歩手前まで行った男。それは余りにも有名な事件であった。
張良自身はその事を誰にも話さなかったが、噂は広まるものである。それに加え、項梁陣営には項伯という張良の友人であり項梁の弟がいた。項梁は項伯から張良の事は聞いていた。だからある種の敬意を根底に持って張良の話を聞いていた。
張良は続ける。
「鐘離眜どのが捜している旧楚の王族が見つかれば、楚は国として復興しこの辺りはまとまるでしょう。
ですが、楚だけでは秦の力が衰えたとはいえ侮れないのは事実です。そこで楚の味方を増やすために秦に滅ぼされた戦国の六国を復興させ、その力を結集し秦を叩くのです。味方が増えればその分秦の力を削ぐ事になります。
私は旧韓の宰相の家の出身でした。韓が滅ぼされた時に私と弟は年少だったためにまだ仕官しておらず、うまく逃げることが出来ましたが、韓の再興が私の生きる全てとなりました。
私はこれより旧韓の地へ向かい韓再興のために働きたいと思います。
項梁さまには是非そのお手伝いをしていただきたいのと、韓王が立つ事を承認していただきたいと思います。」
項梁は張良の話を聞いてその通りだ、と思ったが側に控えていた范増に聞いてみようと思った。
「余はもっともな話だと思ったが范老人はどうか??」
「それがしも乗るべきだと考えます。」
范増は簡単に答えた。
張良はよい返事を貰えた事に満足し、礼を述べて退出した。
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項梁の方は穏やかに話は進んだが、そうでない人がいた。
劉邦である。
「張良先生!!先生はこの劉邦をお見捨てになるのですか!!?」
劉邦はもう泣かんばかりに動揺している。劉邦は良くも悪くも喜怒哀楽が激しい男であった。笑う時は大きな口を開けて笑い、泣く時は人目を気にせずに泣く。
指導者としてはおそらく失格なのだろうが、劉邦の場合はこれが長所となるのである。
「沛公、見捨てるなどととんでもございません。しばらく別行動を取るだけでございます。韓の復興が成り立ち、ある程度国が落ち着きましたら戻ってまいります。それまでご辛抱願えませんか??」
「しかし…。」
「沛公のお側には武では樊噲どの、知では蕭何どのを筆頭に綺羅星の如く人材がいらっしゃいます。張良一人がいなくなっても問題はありますまい。」
これは劉邦が余りにも「張良先生、張良先生」と騒いでいるので取り巻き達が面白くないだろう、という張良からのサインである。
が、
「先生と配下達を同列にはできません。わしは先生がいないと心細そうて、夜も眠れなくなってしまう!」
「沛公、大将がそのような弱気を人前で言ってはなりません。隙を見せることになります。」
と言ったものの、こうまであけっぴろげに慕われては無下にできない。この劉邦という男は本当に不思議でよく人前で弱音を吐くのである。
「わしは逃げる!」
「わしにはできん!」
「おそろしい!」
「無理じゃ!」
なんとか、かんとか…
その度に周りが、配下が劉邦を助けようと全力を発揮するのである。こんな指導者は他に、歴史上にすらいないだろう。
そして張良は、これは劉邦にしかできない、特性みたいなものである、とわかっている。
他の指導者が同じように弱音を吐き、わめき、無理じゃ無理じゃと言っていたら周りに人がいなくなってしまう。
まさしく、天の采配で人をまとめるために生まれてきたようなお人である、と張良は改めて感じるのである。
後ろ髪に引かれる思いはあるのだが、韓の国の再興は張良としても後回しに出来ないことだった。
劉邦との出会いのときにもそれは言ってあったのだが、当の劉邦はすっかり動転して忘れてしまっているらしい。
張良は苦笑しながら
「沛公、天のお導きで私が沛公と出会った時のことを覚えてらっしゃいますか??あの時沛公は韓の再興を、私の希望を手伝う、とおっしゃって下さいました。」
劉邦がはっとした顔をして動きが止まった。
どうやら、『今』思い出したらしい。
ああ……とまるで絶望した時のような顔して劉邦は張良に言った。
「そう、でしたな…。わしは先生の手助けをする、と確かに約束をしました。そうか…今先生の望みを叶える時なのですね??」
「そうです。韓の国を再興させるには今この時しかないのです。またすぐに沛公の下へ戻ってまいりますよ。」
「わかりました。それではわしのところより兵を出しましょう。いくらでも希望の数をおっしゃってください。あと兵站も蕭何に言って出させましょう!!」
と言いながら既に泣いている。
「ありがとうございます。しばしお別れとなりますが、すぐ戻ってまいります。それと私の方でこれは、と思う人物を沛公の元に遣わしますので、よろしければ幕下に加えてください。」
「先生、今夜は先生のために宴を開きたく思います。どうかわしの杯を受けてくだされ。」
とまるで今生の別れのような事を言ってくる。
張良は気持ちが嬉しかったので、ありがとうございます、と礼を言って受けるのだった。
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数日後、沛公は張良を彭城の外まで見送った。
張良は劉邦より兵二千を借りている。少ないのではないか?と劉邦も心配したのだが、張良は
「私が率いるのに限界の兵数がこの位なのです。これ以上は私では指揮出来なくなり手に余ります。
それと、今すぐではないのですが、沛公の配下に必要な人材が元帥となるべき将です。沛公の代わりとして戦闘に関する全ての指揮権を持ち、軍略に明るく、臨機応変に勝ちを治める大将軍たる人物。
ですがまぁ、今は心の片隅にでも留め置きください。」
張良は固く劉邦と手を結び、馬に跨った。
「それでは、また!すぐに戻ってまいります!!」
馬上から手を振る。
こうして劉邦の下から張良が離れ別行動を取ることになった。
後に残され、見るからに元気のなくなった劉邦を心配して御者の夏候嬰が励ます。
「兄貴、元気出してください!なにすぐ帰ってきますよ!それまであっしらで頑張りましょうや!!」
「夏候嬰、わしは今になってわかる…。先生の凄さが…。いなくなってどれほど先生に頼っていたかが。出会ってそれほど時間は経っていないはずなんだが、それだけわしは全面的に信頼していたのだ。」
「兄貴…。」
「先生は学のないわしに色々教えてくれた。わしが飲み込みが早いと誉めてもくれた。だが、わしは先生から教われば教わるほど先生の智謀の底が見えなくなった。その神算、古の太公望と話しているようだった。」
ただ心配なのは、見た目の線の細さが物語っている通り、張良は体が丈夫ではない。
道中の無事を祈りつつ、
「どうか早く…先生が帰ってきますように…。」
普段は全く信仰心のない劉邦だが、困った今だけ神に祈るのであった。
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