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蝶の首輪  作者: ツキジ
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蝶の首輪 後編

 客は夕霧の言うとおりやってきた。白髪を不自然に染めた五十代の男と、スーツの肩幅が少しばかり合っていない若い男の二人組だった。五十代の男は屋敷を時折訪ねるもので、特に選挙前になると夕霧の目を頼みにくる。冷房が効いている室内だというのに、額の汗を拭っている。二人の様子とそれを迎える夕霧とその父と母を、わたしは部屋の片隅で置物のように見ていた。

 隣室で控えるよう言われたのだが、夕霧のふとした気まぐれでこの場にいることになったのだ。滅多に入ることのない応接間は、この屋敷のどの部屋よりも小さく思える。畳が十枚並べばいいほうではないか。また手狭に感じるのは、この部屋だけが珍しくも洋間だからかもしれない。


 古めかしい柄と色合いのぶ厚い絨毯、去年の暮れに購入したソファの皮はまだ匂っており、けやきのテーブルを挟んで対になっている。天井にはシーリングファンが緩やかに回転しており、花を模した電灯から弱弱しい光が落ちる。ジャカード織のカーテンも数々の皿が煌びやかに並んだ飾り棚も、ここ数十年のあいだ配置をかえていないようだ。ソファとカーテン以外は祖父の代から受け継いだ物なので、さらに暗く古びた印象を受ける。

 わたしに言わせれば古くさい部屋だ。

 ただ夕霧はこれを重厚といって好んだため、夕暮れになれば文字がかすんで読めない部屋だというのに、橙色のライトを現代風の明るいものと変える事はできなかった。


「事前に連絡も取らず突然の訪問であいすみません。妙な事に見舞われましてなぁ、ぜひ、ご助言を頂たいのですが」


 頭を下げなれない男はいつみても不恰好に首を上下させる。上座の夕霧はひとつ頷いた。


「泡を吹いて死んだのですか、可哀想に。息子さんが十のときに買い与えた犬でしたね」

「やや、夕霧様は言わなくてもようわかりますな。犬っころが庭で死んだのですわ。脅迫状も届いたのですよ、けしからん、実にけしからんことですわ」


 泡を吹いて倒れたとなると毒を盛られたのかもしれない。あからさまな悪意に男は顔を顰めた。夕霧は男の話を聞いて一言二言、見えたことを話す。部屋の暗がりから聞く会話は楽しいといえず、こんなことなら隣室で控えていたほうが暇も潰せるというものだ。


「あら、夕霧さん、身体が冷えていますわ」


 母親の光江が身体をわずかにずらすと、光沢のあるワンピースが腰にからみつき、その線を露にした。足首を隠す丈だが胸の切れ込みは深く、豊かな乳房の形までもわかる。その姿を若い男が見ており、光江はその視線に気がつくと困ったように笑った。


「すみません、夕霧さんの気分が優れないようで。誰かに温かいものを持ってこさせましょう」


 若い母の言葉に夕霧は首をふって、肩におかれた彼女の手を厭うようにどかした。


「橘」


 変声期前の少年の声に応えて暗がりから抜け出し、ソファの背にもたれる夕霧の後ろにたって身をかがめる。


「どうした? 休むのか?」

「いいえ、生姜湯を入れてきなさい」

「わかった、準備しよう」


 わたしが立っていたことに気づかなかったのか、二人の客は驚いたようだった。さらに、首にかけられた縄を見て表情が強張る。歩くたびに揺れる縄の端を掴まれて、ぐっと引き寄せられる。そんなことをしなくても、言えば寄るというのに。夕霧は時折、糸で括った蝶のようにわたしを扱うのだった。しかし、それに不満はない。

 夕霧が頼ってくる客に垣間見た未来を通告するように、夕霧にも通告が訪れるからだ。


「橘、若いほうをごらんなさい。どうやら、明日の夜にでもやって来るようですよ。汚らしいでしょう?」


 耳に唇をあて、空気だけで喋った夕霧は青い顔で微笑を浮かべて離れた。その表情は男を誘う光江と似ており、本人も自覚しているようだった。


「美しくないものばかりです。ちょうど湯が沸いたところですよ、ゆきなさい」


 頷いて応接間を出て炊事場へいくと、みやだがお茶をいれていたところだった。姿を見せると可哀想なくらいに身を固くするみやだを一瞥し、湯を貰うためにやかんに手を伸ばせば呼び止められた。怖いのなら声をかけなければいいのに。わたしは使用人の非礼を咎めることはできないし、夕霧以外の者には興味もない。かといって、夕霧に強く執着しているわけでもない。


「もしや、夕霧様に生姜湯を持っていかれるのですか?」

「そうだ。なんだ、それは生姜湯か?」

「はい、きちんとすりおろし、蜂蜜で甘くしたものですが、こちらでよろしいですか?」


 目もあわせず生姜湯を差し出すみやだから受け取った湯飲みを覗くと、いつも作るような色をしていた。俯いたまま微動だにしないみやだは、恐怖を突きつけられたように震えている。そんな女をみて不思議に思うほど鈍くはない。受け取った生姜湯をわきにおいて、怯えるみやだの肩を掴み、その頬に手を滑らせた。滑らかな肌だった。小さい声が上がるのを聞き流して、目元に指をあててぐいっとその目玉をのぞいて改める。


「普通の目だな」

「やめて、くださいませ、どうか手を」

「怖いか?」


 答えるようにまぶたがひとつ閉じた。


「なぜ?」

「橘様は、人を殺すからです」


 乾いたのだろう、目玉がぎょろりと動いて涙の膜に覆われる。指を離すと瞬きを繰り返す様は幼子のようにあどけなかった。


「まだ殺したことはないぞ。しかし、そうか。わたしは人を殺すのか。なら恐いだろうな」


 納得して生姜湯を取って背を向けると小さくすすり泣くのが聞こえたが、わたしは無粋なので、女はおろか子どもを宥める言葉を持たない。みやだよりも、手の湯飲みから湯気が立つうちに応接間に戻らねば。

 夕霧の元へ戻れば話はだいぶ済んだようで、テーブルの上には小切手が一枚おいてあった。黙って夕霧の前に生姜湯を置くと、彼はゆっくり一口含んでもういいとテーブルに戻した。


「それにしても似ていますな。何故、首に縄を」

「橘は双子の弟なのですよ」


 不躾な質問をした客に夕霧はすまして応え、しばらくくだらない歓談のあとに客は帰っていった。見送りにでた光江が若い男に何やら話しかけていたけれど、いつものことだと夕霧の父は妻を放る。彼には妻よりも寄付している孤児院のことで頭がいっぱいのようだ。どうやら、女の子を引き取ろうとしているらしい。


「奥へ連れていきなさい。今日は疲れました」


 夕霧に命じられるまま、背中と膝に腕をまわして抱き上げる。やはり同い年のわたしと比べて軽い。特に今夏は暑さに参って普段よりも食事をおろそかにしているので、仕方のないことかもしれない。夕霧を抱えたまま薄暗い廊下をひたひたと歩く。すっかり日は暮れてわずかに差し込む陽光もないため、襖の隙間や天井の四隅から闇が滲んでくる錯覚を覚える。部屋をひとつふたつみっつと通りすぎ、誰ともすれ違うことなく夕霧の部屋へとついた。ここは夕霧が使っている間で、中に入れば蒲団が敷かれていた。客と話したあとは体調を崩すのが常であったため、小間使いが気を遣ったのだろう。蒲団に夕霧を横たえると、彼は帯を緩めて白い腕で目元を覆った。


「なんだ、して欲しいことでもあるか」

「少し休んだらお前を風呂にいれましょう。そして、明日は蝶を採ってきなさい。あげは蝶が杜にいるでしょうから」


 眠るのでここに居なさい。そういって腕をおろした夕霧のまぶたは閉じられており、皮膚の薄いそこは丸い目玉の形にそって緩やかな丘をつくっている。具合が本当に悪かったのだろう。すぐに眠ってしまったようで、手持ち無沙汰になったわたしは四冊ほど積まれた文庫本の一番上のものを手に取る。カバーはなく薄赤いろの表紙がむき出しになっており、何度も読まれたのか頁はやわらかく指に沿う。背表紙は誰もが聞いたことがあるだろう有名な作品名が印字されて、冒頭ではやはり有名な書き出しが連なっていた。わたしが読むには小難しい内容で、夕霧が読むには意外だった。


 ふと眼下の夕霧を見やるとまぶたがぴくりと震えている。僅かに開いた唇は乾いているようだった。寝汗が酷い。立ち上がって箪笥から手ぬぐいを出して汗を拭ってやる。ついでに扇風機をまわすと楽になったようで、色をなくした頬に人間味が戻った。


「難儀だな。お前もいずれ目は落ち窪み、肌の白さは失われるんだぞ。わたしも例外なくだ。朝霧だけはまたお前のような子どもを見つけては取り付き、少女のままで杜に居座るんだ」


 おそらく、夕霧は見えない先を恐がっている。なぜならば、彼のように先を覗くことが出来た祖父の死が惨めったらしいものだったからだ。夕霧よりも未来を見る力を持った祖父は、孫の夕霧が力を持って生まれたことに大変喜んだと聞く。しかし、晩年には両目がつぶれ、目やにだらけになり、やせ衰えて死んだが。

 夕霧の父は盲いて威厳と力を失った自分の父をぼろきれのように扱った。この屋敷では力のなくなったものはただの厄介者に過ぎず、夕霧も、夕霧の祖父も高級なただの消耗品だ。白く濁った目やにだらけの老人の最後は、家族と顔をあわせるでもなく、声をかけられるでもなく、使用人に看取られることになった。


 翌日、裏口から出て細い小径を辿って境内の参道へ出た。まだ朝早いからか、水分を含んだ空気はしっとりと冷たい。日が頂上に昇るにつれて暑さが増す前に屋敷に戻りたい。首にまいていた縄は夕霧の手元にあり、屋敷にいる間中は首から下がっているものがないのは何故か居心地が悪い。喉仏に手をやってこすりながら、蝶を探すが一匹とも見つからなかった。水場にも蜜のでる樹にもいやしない。さんざん歩き回って額に汗が浮かび背中に服が張り付く頃、鳥居の前に戻ってきたら少女が立っていた。

 恐らく、わたしを待っていたのだろう。

 少女の肩から腕を止まり木にして、大小さまざまな蝶が羽を休ませている。夕霧の所望したあげは蝶も優雅に羽を震わせて少女の指先に止まっている。


「先に集めてしまえばとれぬじゃろう。よい考えを思いついたものじゃ」


 にっこり微笑んだ少女は上機嫌なようで、黒々とした瞳を楽しそうに細めてみせた。


「二、三匹くれないか? 夕霧が欲しがっていてな」

「もう駄目じゃ」

「何故? 夕霧はお前のより代となるんだ。融通を利かせてくれたじゃないか」

「我はのう、見つけたのじゃ。今のより代よりも良い目を持つものをな。夕霧はもう不要でな」


 見せ付けるように幼い指であげは蝶を捕まえ、少女は口を大きく開けて真っ赤な口内に蝶をおさめた。黒いあげは蝶が羽ばたきひとつせず、ゆっくり喉奥へと運ばれる。


「蝶は愛でるだけのものではないからの。ふふ、橘。お前に命令じゃ。宮田香ほを連れてくるのじゃ」

「みやだ、あの女か」

「夕霧よりもよく見ておる。少々力は弱いが我慢できぬことはない」

「夕霧はどうする?」

「我の目の一部を返してもらおう。俗人に落ちるが……そもそもお前らは我を祀る凡庸な人間じゃ。元におさまるだけのことに文句などありはしなかろう?」


 そういって少女は蝶を肩に止まらせたまま神殿へ姿を隠した。空の虫籠を下げて参道を戻る。細いわき道にそれて、古い屋敷群を見下ろした。時代に取り残された景色はこれからも変わることなどないように思える。井の字の真ん中に座る大きな日本家屋の座敷で涼んでいるだろう夕霧は、切り捨てられる未来を見通せたのだろうか。

 これは本人に聞かなければわからないが、わたしには彼も知らないのではと思う。屋敷をながめてもしょうがないので、石段をおりていくつか道を折れて裏口から帰った。まずは炊事場へ回るとみやだが唇をかみ締めて立っていた。声をかけるまでもなく、炊事場へわたしがくることをわかっていたように、こちらを向いている。腫れぼったい一重は泣いたあとのようで、この女は知っていたのだと悟る。


「宮田香ほ、朝霧がお前を望んでいる。顔見せにいくから支度をせねばならん。夕霧は?」

「いつもの座敷に」


 か細い声で何かを言いかけるみやだを待ってやる暇もなく、使用人を呼びつけてみやだの面倒を見るようにいいつける。禊と白装束を着させろと暗にいうと、使用人は慌てて光江のもとへ走っていった。しょうがないので、袂をにぎって拳を白くさせているみやだを促し、屋敷の風呂場へと押し込めた。その際、何か言いたそうにしていたみやだが口にしたのは、夕霧のことだった。


「橘様、夕霧さまを救ってやってください。どうぞ、どうぞ、夕霧さまを」

「もちろん、そうするつもりだ。お前は夕霧のことを考えなくていい」


 戸を閉めて相変わらず暗い廊下を進んで夕霧が涼んでいるだろう奥座敷に向かう。真夏だというのにひやりとした奥の空気は、まだ夜の匂いを引きずっていた。首筋の汗がひいていく。立てられて大分建つ屋敷の廊下はきしりきしりと鳴ってその音がいやに耳に付く。朝霧は神殿の中でみやだが来るのを楽しみにしているのだろう。少女に見える容貌でみやだにまとわりつくに違いない。


 奥座敷の襖をあけると扇風機の前で姿勢を崩している夕霧がいた。糊のきいた麻の単はうすく、裾が捲れて白い足が浮かんでいる。畳間の向こうには庭前が広がっており、お天道様が白々と目に焼け付く。手入れされた樹木のどこかで蝉がうるさく鳴いていた。

 畳の縁をふみつけて夕霧の元へ寄れば、彼は文庫に目を落としながら気だるそうに口を開く。


「蝶はどうしたのですか?」

「朝霧が食べた」

「朝霧様が?」


 顔をあげた夕霧の脇に膝をついて頷くと、驚きを滲ませた彼はゆるゆると笑みをたたえて、わたしの首から下がる縄を引っ張る。引き寄せられて上体を傾げれば、夕霧はもっと近づくようにと縄の結び目に細い指をかけた。他者が見れば唇を交わしているように見えるだろう。そんなこと、一度もしたことはないが。


「朝霧様は何と仰ったのですか?」

「宮田香ほを連れて来いと。お前は、不要なのだそうだ」

「そうですか。朝霧様も酷なお方ですね」


 喉を震わせて笑う夕霧を慰めようとしなやかな首筋に手を伸ばす。そっとまだ発達していない喉仏をなぞり、首の形を確かめるように掌でこすりあげた。湿った肌が掌に吸い付き、半端に伸びた襟足がさわさわと揺れる。夕霧は首筋をなでるわたしの手を撫でながら、どこか恍惚とした表情を浮かべて目を閉じた。喉仏を指の腹が擦るたびに、閉じたまぶたと細かなまつげがぴくりと動く。薄い唇が喘ぐように開かれ、不似合いな赤い舌がちらりとのぞいた。


「橘、その手で息を止めなさい」

「ああ、わかっているよ」


 脈を探して指に力を込める。夕霧の整った顔が苦悶に満ちるのを見ながら、彼の人生の幸いを初めて願った。望んだものを全て差し出された夕霧は何一つ満たされることなく、この屋敷の道具となり神社の少女に飼われ、両目が潰れたら捨てられるのだ。私が首輪をかけられて人でないのと同じく、夕霧も産まれてから人ではなかった。移ることなく切り取られたように古い時が滞留しているこの屋敷は、鬱々として歪み軋んでいる。

 頭で反響するように鳴いていた蝉の声がぴたりとやんで、凪のように不気味な静けさが夕霧とわたしを包んだ。


 やがて、夕霧の全身から力が抜ける。そっと強張る指をほぐして首に痕が残る夕霧の顔と単を調えてやる。額の汗が目元を伝って酷い色をした夕霧の頬に落ちた。夕霧が観賞を好んだ庭に目をやれば、一頭のあげは蝶が縁側で羽を休めていた。黄と黒の模様が美しい羽を閉じてじっとしており、まるで誘われるように歩み寄って指を伸ばす。蝶は不思議と逃げることなくあっさり中指と親指に納まった。


 美しい蝶だった。

 ただの虫であるそれにどうしようもなく惹かれたわたしは、床の間の裁縫箱から糸を切り出して蝶の胴に慎重に括りつけた。蝶はぱたぱたと羽ばたくが空へ帰ることはできない。指先についた燐ぷんをなめ、夕霧のために回る扇風機を止めて奥座敷をあとにする。

 みやだを神社につれていかねばならない。これがわたしの最後の仕事である。彼女の言うとおり人殺しとなったわたしは時代錯誤の屋敷から連れだされるのだろうか。首に巻きついた縄に手を触れると、引き連れていた蝶が縄先で羽を休めた。もう二度と解かれることのない首の縄に、わたしは白い指と見たことのない先を偲ぶ。

ちょうちょ好きです。触るのはあれですが標本と図鑑なら!

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