第4話 「新しい命を迎える日」
ユラが熱を出してから、しばらくの時が過ぎた。
あれほど心配した高熱はすっかり治まり、ユラは少しずつ普段の生活を取り戻していた。ただし、以前とまったく同じというわけにはいかなかった。身体の中には新しい命が宿っている。ヒルダから無理をしないようにと念を押されたこともあり、ユラは以前よりも自分の身体を気遣うようになった。
カレスもまた、以前とは違っていた。
ユラが倒れたあの日、彼は何もできなかった。
濡らした布を額に当てることも、ヒルダを呼びに走ることもできた。しかし、それ以上のことは何一つ分からなかった。
熱を下げる薬も、身体を回復させる薬草も手元にはない。王都で探索者として活動していた頃なら、仲間の怪我や体調不良に備えて薬草を用意し、必要ならば自ら採取に出ることもあった。
だが、村に戻ってからのカレスは、そうした備えをすっかり後回しにしていた。
平穏な暮らしが始まったことに安堵し、農作業を手伝い、家の修繕をし、村人たちとの関係を築くことに気を取られていた。探索者だった頃の知識や経験は、もう必要のないものだと、どこかで考えていたのかもしれない。
その考えが、ユラの命を危険にさらしかねなかった。
幸いにもユラは回復し、宿っていた命にも大きな問題はなかった。しかし、もし次に同じことが起きたらどうなるのか。
考えるだけで、胸の奥が冷たくなった。
ユラのために。
これから生まれてくる子供のために。
そして、同じように病や怪我に苦しむ村人たちのために。
この村にも、薬草を備えておく必要がある。
そう考えるようになったのは、ユラが回復して間もない頃だった。
*
ある朝、カレスは家の裏で身体を動かしていた。
まずは軽い準備運動から始め、腕立て伏せや腹筋、脚の筋力を鍛える運動を繰り返す。身体が温まると、今度は木の棒を手に取り、探索者だった頃に身につけた動きを確かめた。
剣を振るう感覚。
足場を確かめながら進む感覚。
周囲の気配に意識を向け、いつでも動けるように身体を整える感覚。
頭では覚えていても、身体は思うようには動かなかった。
以前なら無意識にできていた動作にも、わずかな遅れがある。長く使っていなかった筋肉は衰え、持久力も落ちていた。息が上がるのも早く、木の棒を振るう腕にはすぐに疲労がたまった。
「……思った以上に鈍っているな」
カレスは額の汗を拭い、苦笑した。
かつては迷宮を探索し、魔獣や魔物と戦っていた。あと一歩でAランクに届くのではないかと期待されたこともある。そんな自分が、今では木の棒を振るうだけで息を切らしている。
しかし、過去を懐かしんでいる場合ではなかった。
彼はもう一度、棒を構えた。
今さら以前と同じ探索者に戻る必要はない。ただ、必要なときにユラを守れること。生まれてくる子供を守れること。そして、薬草を採りに行けるだけの力を取り戻すこと。それができれば十分だった。
数日後、カレスは村人たちに薬草採取の計画を話した。
場所は、カーン大森林の手前に広がる一帯だった。
大森林の中には、薬効のある草木が数多く自生している。だが、そこには魔獣が棲みついており、十分な備えもない村人が気軽に足を踏み入れられる場所ではない。
村人たちが警戒するのも当然だった。
「大森林へ行くつもりなのか?」
「森の中へ入るわけじゃない。手前に生えている薬草を採るだけだ」
「森の手前だろうと、何が出てくるか分からんぞ」
「昔のように動けると思っているのか? 今のお前は、もう探索者ではないんだぞ」
厳しい言葉がいくつも飛んだ。
カレスは反論しなかった。村人たちが自分を心配していることも、危険を軽く見ているわけではないことも分かっていたからだ。
「だから、まずは身体を鍛え直している。森の中には入らない。採取する場所も、魔獣の気配があればすぐに引き返せる範囲に限るつもりだ」
「それでも危険なことに変わりはない」
「分かっている。無理をして命を落とせば、ユラにも、生まれてくる子供にも顔向けできない。危険を承知で踏み込むつもりはないよ」
カレスの言葉に、村人たちはすぐには納得しなかった。
そこで助けになったのが、ユラの世話をしてくれていたヒルダだった。
「この人は、ユラが熱を出したとき、何もできなかったことをずっと悔やんでいるんだよ」
ヒルダは集まった村人たちを見回しながら言った。
「薬草があれば助けられる命があるかもしれない。それはユラだけの話じゃない。ここにいる誰かが病気になったときだって同じだろう? もちろん、無茶をさせていいと言っているわけじゃないよ。森の中に入らないこと、危険を感じたらすぐに戻ること。その約束を守るなら、私はカレスに任せてみてもいいと思う」
「しかし……」
「カレスが探索者だったことは知っているだろう。今は昔ほどの力がないとしても、魔獣の危険を知らない人間ではないよ」
ヒルダの言葉には、村人たちも耳を傾けた。
彼らの中には、カレスが村の暮らしに馴染みきれていないと感じている者もいた。考え方の違いから意見がぶつかることもあり、村を離れて長く暮らしていた彼を、完全には信用できない者もいた。
だが、彼がユラを大切にしていることは誰の目にも明らかだった。
それに、薬草を採取できるようになれば、村にとっても利益がある。
病気や怪我に備えて薬草を蓄えられる。使い道のある薬草を余分に採取できれば、近隣の町で必要な品と交換することも考えられる。さらに、採取の途中で危険のない範囲から魔獣の素材を持ち帰ることができれば、村の生活を助けることにもつながるだろう。
やがて、いくつかの条件を設けたうえで、カレスが森の手前まで薬草採取に出ることが認められた。
大森林の中には入らないこと。
採取場所をあらかじめ決め、少しでも危険を感じたら引き返すこと。
身体が十分に回復していない間は、無理をしないこと。
カレスはそれらの条件を受け入れた。
「ありがとう。無理はしないと約束する」
そう答えた彼の表情には、久しぶりに探索者としての決意が戻っていた。
*
身体を鍛え直す日々は、思っていた以上に地道なものだった。
最初のうちは、少し走っただけでも息が切れた。以前なら気にも留めなかった疲労が翌日まで残ることもあった。焦る気持ちを抑え、カレスは毎日少しずつ運動量を増やしていった。
同時に、薬草や魔獣、魔物に関する知識を改めて整理し、忘れていたことを思い出すとともに、知識が足りない部分については、いずれ必要になるかもしれないと考えて持ち帰っていた書物を読み漁り、学び直した。
身体が少しずつ動くようになると、カレスは村人たちの手伝いをしながら、薬草採取に必要な道具を整えた。
そして、村人たちの了承を得た範囲で、初めての採取に出かけた。
向かったのは、大森林そのものではない。村から離れすぎず、森の奥へ踏み込む必要もない場所だった。
カレスは周囲を警戒しながら、薬草を一つずつ確かめていった。似たような見た目でも薬効が異なる草は多い。間違ったものを持ち帰っても意味がないため、葉の形や茎の特徴を確かめ、知識と照らし合わせながら採取していく。
探索者だった頃の感覚が、少しずつ戻ってくる。
足元に注意を払い、風の向きを確かめ、周囲の物音に耳を澄ませる。魔獣の痕跡がないか、進む先に危険がないかを確かめる。
それは、農作業や家の修繕とは異なる集中力を必要とする仕事だった。
その日の採取は、無事に終わった。
持ち帰った薬草を見た村人たちは、思っていた以上の量と種類に驚いた。
「これだけ採れたのか」
「この草は、以前に使ったことがあるな。確か、傷の手当に役立つものだった」
「こちらは乾燥させておけば、いざというときに使えるはずだ」
カレスは一つひとつ説明しながら、薬草を分類していった。使い方の分からないものは無理に利用せず、まずは確実に知っているものから備蓄する。採取したものをすべて使えると思い込まず、必要なものを必要な分だけ確保することも、探索者時代に身につけた心得だった。
やがて、村人たちのカレスを見る目にも変化が現れ始めた。
以前は、王都から戻ってきた元探索者というだけの存在だった。村のやり方に口を出す、少し扱いにくい男だと思っていた者もいる。
しかし、薬草を採取して持ち帰るようになってからは、困ったときに頼れる人間として認識されるようになった。
農作業の手伝いをしていた頃とは違う形で、村の役に立てるようになったのである。
もちろん、すべての村人が急に親しくなったわけではない。意見が合わないこともあれば、昔からの習慣を巡って小さな衝突が起きることもあった。
それでも、カレスが持ち帰った薬草は村の備えとなり、採取の際に得られた魔獣の素材も、村の暮らしを支える品になっていった。
少しずつではあるが、カレスはこの村に自分の居場所を築き始めていた。
*
一方、ユラは穏やかな日々を過ごしていた。
身体の調子は回復し、お腹の中の子供も、順調に育っているようだった。産婆から教えられたことを守り、以前ほど無理をせず、疲れを感じたら休むようにしていた。
カレスが身体を鍛え始めたことには、最初、少し驚いた。
朝早くから家の裏で汗を流し、木の棒を振るう姿は、村に戻ってからはあまり見かけなかったものだ。
「また探索者に戻るつもりなの?」
ある日、ユラはそう尋ねた。
カレスは手にしていた木の棒を置き、首を横に振った。
「戻るつもりはないよ。今の暮らしを捨てるつもりもない。ただ、身体が鈍りきっているのは困るからね」
「それならいいけれど……」
ユラは少しだけ眉を下げた。
彼が自分のために身体を鍛えていることは分かっていた。発熱したとき、何もできなかったことを後悔しているのも知っていた。
だからこそ、無理をしてほしくはなかった。
「森の近くへ行くんでしょう?」
「ああ。でも、大森林の中には入らない。村の人たちとも約束したんだ。危険を感じたら、すぐに引き返すよ」
「本当に?」
「本当だ」
カレスはまっすぐに答えた。
ユラはその顔を見つめ、やがて小さく息をついた。
「あなたは昔から、一度決めたら頑固なんだから」
「そうかな」
「そうよ」
二人は顔を見合わせて笑った。
心配がなくなったわけではない。それでも、カレスが自分と子供のために考え、備えようとしていることは、ユラにとって嬉しいことでもあった。
「でも、無茶はしないでね。私も、この子も、あなたが帰ってくるのを待っているんだから」
「分かっている。必ず帰ってくるよ」
その言葉を聞いて、ユラは安心したように微笑んだ。
カレスが採取に出かける日には、ユラは帰りを気にしながら過ごした。予定の時刻を過ぎれば落ち着かなくなることもあったが、彼は約束どおり、無理をせずに戻ってきた。
持ち帰った薬草を並べ、使い方や保管方法を説明するカレスの姿を見ていると、ユラは彼が再び自分の得意なことを見つけたのだと感じた。
村の中でも、彼に薬草について尋ねる人が増えていた。
カレスが薬草を採りに出かけることは、いつしか特別な出来事ではなくなった。村人たちは、必要な薬草があれば相談し、カレスも可能な範囲で応じるようになっていた。
ユラはそんな日々を、穏やかな気持ちで見守っていた。
*
季節はゆっくりと移り変わり、お腹の中の子供も、確かな成長を見せるようになった。
ある日の夕暮れ、ユラは椅子に腰かけ、両手をそっとお腹に添えていた。
そのとき、不意に内側から小さな動きを感じた。
「……あら?」
最初は気のせいかと思った。
けれど、しばらくすると、もう一度、かすかな動きが伝わってきた。
ユラは目を見開き、それから嬉しそうに笑った。
「動いた……!」
ちょうど帰ってきたカレスが、その声を聞いて駆け寄ってきた。
「どうした?」
「今、この子が動いたの!」
「本当か?」
カレスは驚きながら、ユラの隣に腰を下ろした。
彼はそっと手を伸ばしかけたが、触れてもよいものか分からず、途中で止めた。
その様子がおかしくて、ユラは笑ってしまった。
「大丈夫よ。ほら、ここに手を置いてみて」
言われたとおりに手を添え、カレスはじっと待った。
しばらくして、掌の下で小さな動きがあった。
「……今のか?」
「ええ、そうよ」
カレスは言葉を失った。
これまで、子供はユラのお腹の中で育っているのだと頭では理解していた。しかし、こうして自分の手で動きを感じると、そこに確かな命があることを、改めて実感した。
まだ顔も知らない。
どんな声で泣くのかも、どんな表情をするのかも分からない。
それでも、この小さな命は、確かに二人のもとへやってこようとしている。
「元気に生まれてくるんだぞ」
カレスはお腹に向かって、少し照れくさそうに声をかけた。
「お父さんとお母さんは、楽しみに待っているからな」
「ふふっ。まだ聞こえているかどうかも分からないわよ」
「それでもいいさ」
カレスはそう言って、ユラの手を握った。
ユラもまた、お腹を優しく撫でながら語りかけた。
「元気に生まれてきてね。あなたに会える日を、楽しみにしているから」
その日から、二人は子供の誕生をより身近に感じるようになった。
必要なものを少しずつ用意し、家の中を整え、産婆にも定期的に様子を見てもらった。カレスは薬草の備蓄を続けながら、出産の日に備えて家の仕事を前倒しで済ませるようになった。
ユラは時折、カレスが準備に熱中するあまり、必要以上に心配しているのではないかと思うこともあった。
だが、彼の不器用な気遣いは、ユラにとって心強いものだった。
毎日は穏やかに過ぎていった。
もちろん、身体が重くなれば疲れることもあったし、先のことを考えて不安になる夜もあった。それでも、ヒルダからは順調だと言われており、ユラ自身も大きな問題を感じてはいなかった。
そして、とうとう出産の日が訪れた。
*
その朝、ユラはいつもと違う腹部の痛みに目を覚ました。
最初は、しばらく様子を見ればよいと思っていた。しかし、痛みが繰り返すようになり、間隔も少しずつ短くなっていった。
「……カレス」
隣で眠っていた夫を呼ぶ。
「どうした?」
目を覚ましたカレスは、ユラの表情を見るなり、すぐに身体を起こした。
「もしかしたら……そろそろなのかもしれないわ」
一瞬、カレスは固まった。
それから、慌てて立ち上がった。
「そ、そうか。分かった。ヒルダを呼んでくる!」
勢いよく戸口へ向かったものの、数歩進んだところで振り返る。
「いや、待て。水も必要か? 布は用意してあるか? ほかに何か……」
「カレス、落ち着いて」
「落ち着いている!」
そう言いながらも、彼の声は明らかに上ずっていた。
ユラは痛みの合間に、思わず笑ってしまった。
「あなたがそんなに慌ててどうするの」
「だって、子供が生まれるんだぞ!」
「ええ、分かっているわ」
「いや、分かっているが……!」
カレスは言葉を詰まらせた。
迷宮で魔獣と対峙したときも、危険な依頼を受けたときも、ここまでどうしてよいか分からなくなったことはなかった。
戦いなら、状況を見極め、できることを判断すればよい。危険があれば対処し、退くべきときには退く。それが探索者としての仕事だった。
だが、今は違う。
目の前で苦しんでいるのは、自分が何よりも大切にしている妻だ。そして、これから生まれてくる子供の命がかかっている。
自分にできることが何なのか、分からなかった。
「いいから、早くヒルダさんを呼んできてちょうだい」
ユラの落ち着いた声に、カレスはようやく我に返った。
「ああ、そうだった!」
彼は外へ飛び出し、ヒルダの家へ向かって駆け出した。
道ですれ違った村人が何事かと声をかけてきても、まともに返事をする余裕はなかった。
「ヒルダを! すぐに来てくれ!」
息を切らしてヒルダの家にたどり着くと、カレスは事情を説明するよりも先に助けを求めた。
ヒルダは慌てることなく必要な道具を用意し、カレスとともに家へ向かった。
その間も、カレスは落ち着かなかった。
「大丈夫なのか?」
「初めての出産なんだから、不安なのは分かるよ。けれど、今のところ順調に進んでいるようだ。私がついているから、あんたはできることをしておいで」
「できることって……」
「水を用意する。清潔な布を準備する。頼まれたものを持ってくる。それで十分だよ」
ヒルダに言われ、カレスは何度も頷いた。
そして家に着くなり、言われたことを一つずつこなそうとした。
水を運び、布を並べ、必要なものが足りているか確かめる。ところが、緊張のあまり同じ場所を何度も行き来し、ヒルダに「さっきもそこを確認しただろう」と注意される始末だった。
ユラは痛みに耐えながらも、夫の慌てぶりを見て苦笑した。
「カレス……そんなに走り回らなくても大丈夫よ」
「しかし……!」
「私は大丈夫。だから、少し落ち着いて」
その言葉に、カレスはようやくユラの手を握った。
「……すまない。何をすればいいのか分からなくて」
「いいのよ。ここにいてくれるだけで、心強いわ」
ユラはそう言って微笑んだ。
カレスは彼女の手を握り返し、そばを離れないようにした。
やがて、出産は進んでいった。
痛みはあったものの、ヒルダの見立てでは大きな問題はなかった。ユラも懸命に耐え、指示に従って力を込めた。
その間、カレスは何度も祈るような気持ちで妻を見つめていた。
どうか無事でいてくれ。
ユラも、この子も。
その願い以外、頭には何も浮かばなかった。
そして、ついに産声が響いた。
小さく、けれど力強い泣き声だった。
「……生まれたよ」
ヒルダの声に、カレスは息を止めた。
「元気な男の子だ」
その言葉を聞いた瞬間、カレスの身体から力が抜けた。
「……そうか。生まれたのか」
何度も繰り返すように呟き、彼は顔を覆った。
泣いているのか、笑っているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、胸の奥に張り詰めていたものが、一度にほどけていくようだった。
ヒルダが赤子を整え、ユラのもとへ連れていく。
ユラは疲れ切った顔をしながらも、赤子を見た途端、優しい笑みを浮かべた。
「……あなたが、私たちの子なのね」
赤子は小さな手を動かし、元気な声で泣いていた。
ユラはそっとその顔を見つめ、頬に触れた。
「元気に生まれてきてくれて、ありがとう」
カレスも隣に座り、初めて我が子を間近で見た。
小さな身体。柔らかな肌。握りしめられた小さな手。
自分たちのもとに、新しい命がやってきた。
その事実が、どうしようもなく嬉しかった。
「名前を……考えないとな」
カレスが呟くと、ユラは頷いた。
「ええ。もう決めていたでしょう?」
「ああ」
カレスは赤子を見つめ、静かにその名を口にした。
「マルク」
ユラも、その名を繰り返した。
「マルク……」
二人は顔を見合わせ、微笑んだ。
「マルク。私たちの子供」
小さな命は、二人の声を聞いているのかいないのか、相変わらず元気に泣いていた。
ヒルダは赤子の様子を確かめ、母親の状態にも問題がないことを告げた。難産というほどのこともなく、母子ともに無事だった。
ただ一人、カレスだけは、出産が終わってもしばらく落ち着かなかった。
水を持ってきたかと思えば、今度は布を確かめる。ヒルダにもう大丈夫だと言われても、何か見落としていることがあるのではないかと心配し続けた。
「カレス、もういいから、座ってちょうだい」
ユラに言われ、彼はようやく椅子に腰を下ろした。
「……ああ。そうだな」
それから、改めて妻と子供を見つめた。
「よく頑張ったな、ユラ」
「あなたもね」
「俺は何もしていないよ」
「そんなことないわ。ずっとそばにいてくれたもの」
ユラは疲れた身体を横たえたまま、優しく微笑んだ。
カレスは返す言葉を見つけられず、ただ彼女の手を握った。
*
出産からしばらくして、家の中には穏やかな時間が流れるようになった。
マルクは元気に泣き、眠り、腹が減ればまた泣いた。初めての子育てに戸惑うことも多かったが、ヒルダの助言を受けながら、二人は少しずつ新しい暮らしに慣れていった。
カレスは以前にも増して、家族の健康を気にかけるようになった。薬草の備蓄を続けるだけでなく、家の中の衛生にも注意し、ユラが無理をしないよう家事を引き受けることも増えた。
ときには、マルクが泣きやまないだけで慌てふためき、ユラに助けを求めることもあった。
「どうしたらいいんだ?」
「お腹が空いているのかもしれないわ」
「さっき飲んだばかりだぞ?」
「赤ちゃんは、大人の都合どおりにはいかないのよ」
「……そういうものなのか」
真剣な顔で頷くカレスに、ユラは笑いをこらえきれなかった。
かつて探索者として名を知られた男も、我が子の前では勝手が違うらしい。
それでも、カレスはマルクを抱くたびに、少しずつ父親らしい顔になっていった。
ユラもまた、我が子を抱きながら幸せを噛みしめていた。
ただ、そんな穏やかな時間の中で、ふと寂しさを感じることもあった。
ある夕暮れ、眠っているマルクを見つめながら、ユラはぽつりと呟いた。
「あなたのお父さんとお母さんにも、この子を見せてあげたかったわね」
カレスは、すぐには答えなかった。
彼の両親は、カレスが村を出て王都アルテンブルクで探索者として活動していた頃、流行り病によって亡くなっていた。
その知らせを受けたとき、彼はすぐに故郷へ戻ることができなかった。探索者としての仕事や仲間との事情があり、両親の最期に間に合わなかったことは、今でも胸の奥に残っていた。
ユラも結婚する前に、その話を聞いていた。
だからこそ、マルクの小さな顔を見ていると、もう会うことのできない二人のことが思い浮かぶのだった。
「……ああ。見せてやりたかったな」
カレスは静かに答えた。
「きっと、喜んでくれただろうね」
「ええ。あなたに似ているところがあるのか、私に似ているところがあるのか、きっと二人であれこれ言いながら、抱っこしたがったでしょうね」
「母さんなら、離そうとしなかったかもしれないな」
カレスの口元に、懐かしむような笑みが浮かんだ。
父も母も、もうこの世にはいない。
孫の顔を見せることは、もう叶わない。
それでも、二人が生きていたなら、きっとこの小さな命を喜んでくれただろう。そう思うと、寂しさとともに、温かな気持ちも込み上げてきた。
ユラはカレスの手にそっと触れた。
「きっと、どこかで喜んでくれているわ」
「……そうだといいな」
二人はしばらく、眠っているマルクを見つめていた。
窓の外では、村の人々がいつもどおりの暮らしを営んでいる。遠くにはカーン大森林が広がり、その深い緑は、今日も変わらず静かに佇んでいた。
家の中には、赤子の寝息と、二人の穏やかな呼吸があった。
カレスはもう一度、マルクの顔を覗き込んだ。
「元気に育てよ、マルク」
その声に応えるように、赤子は小さく身じろぎした。
カレスとユラは顔を見合わせ、静かに笑った。
二人にとって、それは何よりも大切な日々の始まりだった。




