第3話 「三日間の熱」
ガルド村に戻ってから、季節は幾度か移ろっていた。
晩春に村へたどり着いたカレスとユラは、初めこそ周囲との距離を測りかねていたものの、少しずつこの土地での暮らしを形にしていた。
朝は鶏の鳴き声とともに目を覚まし、井戸から水を汲み、食事を整える。カレスは畑や家の修繕を手伝い、ユラは家事の合間に近所の女たちの仕事を手伝った。収穫の時期には野菜の選別をし、冬が近づけば保存食を仕込み、寒さが厳しくなる前に薪を蓄えた。
王都アルテンブルクで探索者として暮らしていた頃とは、何もかもが違う。
あの頃は、朝起きれば仲間とその日の探索について話し合い、必要な道具を整え、迷宮へ向かうのが日常だった。危険はあったが、危険を避けるための知識や道具があり、負傷すれば治療を受ける手段もあった。
この村には、そうしたものがほとんどない。
それでも、ユラは村の生活を嫌ってはいなかった。
「ユラさん、悪いんだけど、こっちを少し押さえてくれる?」
「はい、今行きます」
ある日の午前、近所に住んでいるカレスの幼馴染のフィオが家の前で布を広げながら声をかけてきた。ユラは手にしていた籠を置き、すぐにそちらへ向かう。
布の端を押さえ、フィオが針を通しやすいように手伝う。作業の合間には、畑の出来や家族のこと、次の市がいつになるかといった話を交わした。
以前なら、こうした何気ない会話にも、どこか気を遣っていた。
自分たちは村を離れて長い。カレスの故郷とはいえ、村人たちの多くにとって、二人は長い年月を別の土地で過ごしてきた人間だった。昔からの習慣を当然のものとして受け入れられないこともあり、話が噛み合わないこともあった。
だが、日々顔を合わせ、手を貸し、時には教わりながら暮らすうちに、少しずつ打ち解けてきた。
「王都にいた頃は、こんなに布を繕うこともなかったんですけどね」
ユラが笑うと、フィオもつられて笑った。
「そりゃ、あんたたちは探索者だったんだろう? 暮らし方が違うさ」
「そうですね。でも、こっちの暮らしも覚えることが多くて」
「覚えようとするだけ偉いよ。カレスなんか、昔から自分の考えを曲げないところがあったからねえ」
「それ、本人に聞かれたら怒りますよ」
「聞かれたって本当のことさ」
二人は顔を見合わせ、声を立てて笑った。
少し離れた場所で、家の戸口を修繕していたカレスが顔を上げる。
「何を話してる?」
「あなたの昔話よ」
「ろくな話じゃなさそうだな」
「分かってるじゃないか」
フィオが笑い、ユラも笑った。
カレスは肩をすくめて作業に戻ったが、その口元にもわずかな笑みが浮かんでいた。
こうした日々が続いていた。
ユラは、村に馴染んできた。
少なくとも、周囲からはそう見えていた。
*
変化は、ほんの小さなところから始まっていた。
朝起きたとき、以前より身体が重い。
水桶を運んでいると、途中で少し息が上がる。食事の支度をしていると、立ち続けていることがつらくなり、何度か手を止めて腰を下ろすようになった。
それでもユラは、あまり気に留めなかった。
慣れない仕事が続いたせいだろう。季節の変わり目でもある。少し休めば戻るはずだ。
そう考え、いつもどおりに身体を動かした。
もともとユラは、多少の無理ならば押し通してしまう性格だった。
探索者時代には、疲労を感じても仲間の様子を見ながら行動を続けたことがある。もちろん、危険な状況では無理をしない判断もしてきたが、日々の暮らしの中では、どこまでが無理なのかを見誤ることもあった。
まして、今は自分の家で、自分たちのために働いている。
誰かに頼まれた仕事なら断ることもできる。しかし、食事の支度や洗濯、掃除といった仕事には、終わりがない。ひとつ片づければ、次の仕事が目に入る。
カレスが手伝おうとすると、ユラはいつもの調子で笑った。
「大丈夫よ。あなたは外の仕事があるでしょう?」
「外の仕事は後でもできる」
「でも、今日は頼まれている修繕があるんでしょう?」
「それはそうだが……」
「なら、そっちは任せるわ。こっちは私がやるから」
カレスは、妻の言葉をそれ以上押し返せなかった。
実際、ユラは動けていた。食事も作るし、近所の人と話すときにはいつもの笑顔を見せる。疲れているように見えることはあっても、寝込むほどではない。
だからこそ、カレスも深刻には受け止めなかった。
少し疲れがたまっているのだろう。今日は早く休ませればいい。
その程度に考えていた。
だが、身体の内側では、本人にも分からないところで、確実に無理が積み重なっていた。
*
その日、ユラは朝から身体の不調を感じていた。
目が覚めたときから頭が重く、手足にも力が入りにくい。食事を口にしても、いつもほど食欲が湧かなかった。
それでも、朝の仕事を済ませようとした。
水を汲み、火を起こし、鍋をかける。窓から差し込む光は穏やかで、外からは村人たちの声が聞こえていた。いつもと変わらない朝だった。
鍋の中身をかき混ぜていると、不意に視界が揺れた。
「……あれ?」
ユラは柄杓を置き、台に手をついた。
身体が妙に熱い。
額に手を当てると、肌がいつもより熱を帯びているように感じられた。だが、その手自体も熱く、どれほどの熱なのか自分では分からない。
少し座ろう。
そう思って椅子に向かおうとしたとき、膝から力が抜けた。
床が近づく。
倒れる、と理解した瞬間には、もう身体を支えられなかった。
物音を聞きつけたカレスが、家の奥から駆け込んできた。
「ユラ!」
床に倒れた妻を見た途端、カレスの表情が変わった。
彼はすぐに膝をつき、ユラの肩を抱いて身体を起こそうとした。呼びかけても返事がない。目を閉じたまま、浅い息を繰り返している。
「おい、ユラ。どうした。聞こえるか?」
額に触れた手が止まった。
熱い。
ただの疲労ではない。触れただけでも分かるほど、身体が熱を持っていた。
「ユラ、しっかりしろ!」
もう一度呼びかける。
返事はなかった。
カレスは彼女を抱き上げ、寝台へ運んだ。横たえた身体に毛布を掛けかけ、すぐに思い直して薄い掛け布に替える。何をすればいいのか、考えがまとまらない。
探索者として活動していた頃なら、負傷者への対応を知る仲間がいた。傷の状態を確認し、必要な薬や道具を使い、街へ戻れば治療を受けることもできた。
だが、ここはガルド村だ。
医者はいない。薬師もいない。ポーションを扱う店もない。
手元にあるものだけで、どうにかしなければならなかった。
カレスは水を用意し、布を浸して絞ると、ユラの額にそっと載せた。
「ユラ、聞こえるか。頼む、返事をしてくれ」
彼女の唇がわずかに動いた気がした。
だが、声は聞こえない。
カレスは妻の手を握った。いつもなら、彼が不安を見せると、ユラは笑って大丈夫だと言う。困ったときには、考えすぎだとからかうことさえあった。
今は、その声がない。
それが、ひどく恐ろしかった。
*
カレスは家を飛び出した。
まず向かったのは、村で産婆を務めているヒルダの家だった。
村には医者も薬師もいないが、出産に立ち会い、妊婦や産後の女性の世話をする産婆だけはいた。病気全般を治せるわけではない。それでも、村で身体のことについて相談できる相手といえば、彼女が最も頼りになる存在だった。
「頼む、来てくれ!」
戸を叩きながら叫ぶと、ヒルダが驚いた顔で出てきた。
「どうしたんだい、そんなに慌てて」
「ユラが倒れた。ひどい熱だ。呼びかけても、ほとんど反応がない」
カレスの声は、自分でも分かるほど上ずっていた。
ヒルダの表情が引き締まる。
「すぐに行くよ。少し待ちな」
彼女は必要な道具をまとめ、カレスとともに家へ向かった。
寝台の上のユラを見たヒルダは、まず額に触れ、呼吸を確かめ、呼びかけへの反応を見た。それから、身体を冷やしすぎないように気を配りながら、額や首筋を湿らせた布で拭くようカレスに指示した。
「この熱は……かなり高いね」
「治せるのか?」
カレスは思わず問い詰めた。
ヒルダはすぐには答えなかった。
彼女は出産の経験を数多く持っていたが、原因の分からない高熱を治療する専門家ではない。村に薬師がいれば相談できたかもしれない。近郊に医者がいれば、診てもらう手段もあっただろう。
しかし、どちらもいなかった。
「今は、熱と呼吸の様子を見ながら、できることをするしかない。水分を取れるようなら少しずつ与えて、意識が戻るか確かめるんだ。無理に飲ませてはいけないよ」
「薬は? 何か、熱を下げる薬はないのか?」
「この村には、そういう薬を扱う者はいない」
「なら、近くの街へ行けば……」
言いかけて、カレスは言葉を切った。
スュドスコグまで行けば、何か手に入る可能性はある。だが、王国最南端の辺境の街までは距離がある。人を呼びに行き、薬を探し、戻ってくるまでに、どれほどの時間がかかるだろう。
その間にユラの容体が悪化したら。
考えたくもなかった。
「薬草なら、大森林の近くにあるんじゃないのか」
カレスは、すがるように尋ねた。
大森林の周辺には、さまざまな薬草が自生している。探索者だった二人は、そのことを知っていた。だが、知識があることと、今すぐ適切な薬草を見つけて使えることは別だった。
「薬草はあるだろうさ。でも、何が原因かも分からない熱に、どれを使えばいいのかね。間違ったものを使って、かえって悪くしたらどうする?」
ヒルダの言葉に、カレスは口を閉ざした。
魔獣の脅威があるため、村人たちは大森林へほとんど近づかない。薬草を採りに行く者も少なく、村には種類や効能を詳しく知る者も限られていた。
以前の自分なら、仲間を集めて森へ入り、必要なものを探すこともできただろう。
だが、今は一人でユラのそばを離れることさえためらわれた。
「……分かった」
カレスは、拳を握りしめた。
「できることは全部やる。だから、ユラを助けてくれ」
「できる限りのことはするよ」
ヒルダはそう答えた。
その言葉に、カレスはうなずくしかなかった。
*
夜になっても、ユラの熱は下がらなかった。
カレスは寝台のそばから離れず、産婆に教えられたとおり、濡らした布を取り替え、呼吸の様子を確かめた。意識が戻らないまま時間だけが過ぎていく。
ときおり、ユラは苦しそうに眉を寄せた。何かを言おうとしているように唇が動くこともあったが、言葉にはならなかった。
「ユラ。俺だ。ここにいる」
何度も呼びかけた。
そのたびに、返事のない沈黙が返ってくる。
カレスは、かつて迷宮で仲間を失った日のことを思い出していた。
あのときも、できることを探した。状況を変えようと動き、手を伸ばし、最後まで諦めまいとした。
それでも、救えなかった命があった。
だからこそ、あの探索を最後に二人は探索者を辞めたのだ。
もう、目の前で誰かを失うのは嫌だった。
まして、相手はユラだ。
長い時間をともに過ごし、苦しいことも楽しいことも分け合ってきた。探索者を辞めると決めたときも、村へ戻ると決めたときも、彼女は隣にいた。
そのユラが、今は手を握っても握り返してくれない。
「頼むから……」
カレスはうつむいた。
「こんなところで、置いていかないでくれ」
声が震えた。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
神に祈ったことなど、ほとんどない。信仰を否定していたわけではないが、探索者として生きてきた彼にとって、危険を避けるのも、仲間を守るのも、まずは自分たちの判断と行動によるものだった。
しかし今は、その考えだけでは立っていられなかった。
何でもいい。
何かにすがりたい。
そう思うほど、彼は追い詰められていた。
*
二日目の昼。
ユラの熱は、さらに高くなっていた。
額に触れれば焼けるように熱く、呼吸は浅く速い。ヒルダは何度も様子を確かめたが、はっきりとした改善は見られなかった。
カレスは、夜をほとんど眠らずに過ごしていた。
少しでも目を離せば、ユラがそのまま息を引き取ってしまうのではないか。そんな恐怖が頭から離れなかった。
水を口元へ運んでも、ユラはほとんど反応しない。濡れた布を替え、呼吸を確かめ、名を呼ぶ。それを繰り返すことしかできなかった。
「どうしてだ……」
カレスは、誰に向けるでもなく呟いた。
「昨日までは、普通に暮らしていたじゃないか」
朝になれば起きて、食事を作り、村の人間と話をしていた。疲れている様子はあったが、こんなふうに倒れるとは思わなかった。
もっと早く気づいていれば。
もっと休ませていれば。
自分が家事を引き受けていれば。
いくつもの考えが浮かび、どれも答えにはならなかった。
ヒルダは、ユラのそばで静かに見守っていた。
「カレス、あんたも少し休みな。倒れたら、世話をする者がいなくなる」
「休めるわけがないだろう」
思わず強い口調になった。
ヒルダは咎めなかった。
「休みたくない気持ちは分かるよ。でも、今のあんたにできるのは、そばにいて、様子を見てやることだ。自分を責めても、熱は下がらない」
カレスは何も答えなかった。
分かっている。
そんなことは分かっているのだ。
それでも、何もできないという事実に耐えられなかった。
彼は再びユラの手を握った。
「聞こえているなら、戻ってこい。お前がいないと、俺は……」
その先を口にすることはできなかった。
ユラの手は、熱を帯びていた。
けれど、カレスの手を握り返す力はなかった。
*
その頃、ユラは夢を見ていた。
そこには、天井も床もなかった。
どこまでも続く暗闇の中に、かすかな光が二つ浮かんでいる。
一つは、輪郭のはっきりした、鋭い光。
もう一つは、柔らかく揺れる光。
二つの光は、同じ場所にありながら、互いを押しのけることもなく、ただそこに存在していた。
そして、その前に、一頭の龍がいた。
巨大な身体。暗闇の中でも分かる、圧倒的な存在感。
ユラは恐怖を感じたはずだった。だが、夢の中の彼女には、逃げようという考えさえ浮かばなかった。
龍は、ただユラを見ていた。
「……あなたは、誰?」
声に出したつもりだったが、音になったのかどうかも分からない。
龍は答えた。
「汝の内に、まだ形なきものがある」
それは問いへの答えではなかった。
ユラは、目の前の二つの光へ視線を向けた。
何を意味しているのか、理解できない。二つの光が何なのかも分からない。ただ、目を離してはいけないような気がした。
龍の声が、再び響く。
「強くあれ。汝が揺らげば、二つも揺らぐ」
静かな声だった。
命令するようでも、慰めるようでもない。そこにある事実を告げるような、淡々とした響きだった。
ユラは何かを尋ねようとした。
けれど、その瞬間、二つの光が揺らいだ。
暗闇が遠のき、龍の姿が薄れていく。
待って。
そう言おうとしたはずなのに、声は届かなかった。
光も、龍も、何もかもが遠ざかっていった。
*
ユラが目を覚ましたとき、夢の内容はすでに曖昧になっていた。
何かを見た気がする。
誰かの声を聞いた気がする。
けれど、それが何だったのか、はっきりと思い出すことはできなかった。
ただ、胸の奥に、言葉では説明できない不安だけが残っていた。
ユラは目を開けようとしたが、まぶたは重く、身体も思うように動かなかった。
熱に浮かされた意識の中で、自分がどこにいるのかさえ、すぐには分からない。
やがて、耳元で誰かの声が聞こえた。
「ユラ……?」
カレスの声だった。
その声には、今まで聞いたことのないほどの疲労と、抑えきれない不安が滲んでいた。
ユラは返事をしようとした。
大丈夫、と伝えたかった。
心配しないで、と言いたかった。
けれど、唇がわずかに動いただけで、声は出なかった。
「ユラ! 聞こえるのか?」
カレスが身を乗り出す。
ユラは、彼の顔を見ようとした。
ぼやけた視界の向こうに、必死な表情が浮かんでいた。
ああ、心配をかけてしまった。
そう思ったところで、意識が再び沈み始めた。
まだ伝えたいことがある。
けれど、身体は言うことを聞かない。
ユラの目が閉じていく。
「ユラ、しっかりしろ! 目を開けてくれ!」
カレスの声が遠ざかっていった。
*
二日目の夜も、熱は続いた。
夢の中で龍に出会ったことを、ユラは覚えていなかった。
目を覚ましたときに感じた不安も、熱に浮かされた意識の底へ沈んでしまっていた。
カレスは、何度も妻の名を呼び続けた。
ヒルダも、できる限りのことを続けていた。額や首筋を湿らせた布で冷やし、呼吸や意識の状態を確かめる。水分を取れるようになれば、少しずつ与えた。
だが、二人にできることには限りがあった。
薬もない。医者もいない。
原因を突き止めることも、確実な治療を行うこともできない。
ただ、ユラが持ちこたえてくれることを願うしかなかった。
*
三日目の朝。
カレスの目は充血し、頬には疲労が色濃く浮かんでいた。
食事を取ることも、眠ることも忘れかけていた。ヒルダに何度促されても、ユラのそばを離れようとしない。
「……ユラ」
呼びかける声も、かすれていた。
返事はない。
彼は妻の額に手を当てた。
まだ熱い。
だが、昨日までの焼けつくような熱とは、ほんの少し違うようにも感じられた。
「どうだい?」
ヒルダが尋ねた。
「……少し、下がった気がする」
確信はなかった。
そうであってほしいという願いが、そう感じさせているだけかもしれない。
ヒルダは額に触れ、呼吸を確かめた。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「まだ安心はできない。でも、少し変化があるね」
その言葉に、カレスは初めて顔を上げた。
「本当か?」
「ああ。だから、引き続き様子を見るんだよ」
希望と呼ぶには、あまりにも小さな変化だった。
それでも、カレスには、それだけで十分だった。
「……頼む。戻ってきてくれ」
彼はユラの手を握り直した。
「まだ、お前に話していないことがあるんだ」
何を話すつもりだったのか、自分でもはっきりとは分からなかった。
これからの暮らしのことかもしれない。村での生活をどうしていくか、家をどう直すか、次の季節に何をするか。
そんな、いつでも話せるはずのことだった。
けれど今は、その当たり前の会話さえ、二度とできなくなるかもしれない。
その恐怖が、カレスの胸を締めつけていた。
*
昼を過ぎた頃、ユラの呼吸が少しずつ落ち着き始めた。
熱はまだ残っていたが、額に触れたときの熱さは、わずかに和らいでいた。
そして、夕方近くになって。
ユラのまぶたが、かすかに動いた。
「……ん……」
小さな声が漏れた。
カレスは、はっと顔を上げた。
「ユラ?」
彼女の唇が動く。
「……カレス……?」
その声を聞いた瞬間、カレスは言葉を失った。
「ユラ!」
寝台へ身を乗り出し、彼女の顔を覗き込む。
ユラは、ゆっくりと目を開けた。
焦点はまだ定まらず、身体にも力が入らない。それでも、彼の姿を認めると、ほんのわずかに表情が緩んだ。
「……どうしたの……?」
「どうしたの、じゃない! 三日も寝込んでいたんだぞ!」
思わず声が大きくなった。
ユラは驚いたように目を瞬かせた。
カレスはすぐに口を閉じた。怒っているのではない。そうではないのに、声を抑えられなかった。
「……すまない」
彼はうつむき、ユラの手を握った。
「本当に……よかった」
最後の言葉は、ほとんど息のようだった。
ユラは、彼の手を握り返そうとした。
弱々しい力だったが、確かに指が動いた。
それだけで、カレスの胸に張りつめていたものが、少しだけ緩んだ。
ヒルダも、静かに息を吐いた。
「目が覚めたからといって、すぐに動いてはいけないよ。熱が下がっても、身体は弱っているんだ。しばらくは横になって、無理をしないこと」
「……はい」
ユラはかすれた声で答えた。
それから、カレスを見上げる。
「……心配、かけたのね」
「当たり前だ」
カレスは、少しだけ強い口調で答えた。
「次からは、具合が悪いと思ったらすぐに言ってくれ。仕事なんか、どうにでもなる」
「……分かったわ」
ユラは目を閉じ、かすかに笑った。
カレスはその顔を見つめた。
戻ってきてくれた。
今は、それだけでよかった。
*
ユラが目を覚ましてからも、ヒルダはしばらく家に通い、容体を確かめた。
熱は少しずつ下がっていったが、ユラの身体はひどく弱っていた。起き上がるだけでも疲れ、食事も少量しか口にできない。
カレスは、ヒルダの指示に従いながら、できる限りの家事を引き受けた。
水を汲み、火を起こし、食事を作る。慣れない作業に戸惑うこともあったが、今までユラが一人でこなしてきたことを思えば、文句など言えなかった。
フィオ達も、事情を聞いて食事を届けたり、必要なものを分けてくれたりした。
ユラが村に馴染んできたことは、こうしたときにも表れていた。
以前なら、どこまで頼っていいのか分からず、遠慮していたかもしれない。今は、彼女を心配して手を貸してくれる人がいる。
カレスも、礼を言ってそれを受け取った。
村の暮らしは、決して便利ではない。
医者も薬師もおらず、必要な薬をすぐに手に入れることもできない。大森林の近くには薬草が自生しているが、魔獣の危険があるため、簡単に採りに行けるものではなかった。
今回、ユラが助かったのは、ヒルダの経験と、本人の身体が持ちこたえたことによるところが大きかった。
カレスは、その事実を痛いほど理解していた。
自分たちは、探索者として危険と隣り合わせの生活をしてきた。だが、危険は迷宮や魔獣だけにあるわけではない。
こうして家の中で、何の前触れもなく訪れる病もまた、人の命を奪いうる。
そして、そのとき自分にできることは、思っていた以上に少ないのだ。
ユラが寝台から起き上がれるようになった頃、カレスは以前よりも彼女の様子を気にかけるようになっていた。
「今日は、もう休んでいろ」
「でも、食事の支度が……」
「俺がやる」
「あなた、鍋を焦がしたことがあるでしょう?」
「……あれは火加減を間違えただけだ」
「それを焦がしたって言うのよ」
ユラが小さく笑う。
カレスも、ようやく少しだけ笑った。
いつもの会話が戻ってきた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
*
ユラの熱はようやく治まった。
ただし、体力はすぐには戻らなかった。以前のように一日中動き回ることはできず、少し働いただけで疲れが出る。
カレスは、無理をさせないように気を配った。
ユラも、今度ばかりは自分の身体を過信しないようにしようと思った。できることをすべて自分でやろうとするのではなく、必要ならば誰かに頼る。それも、この村で暮らしていくためには大切なことなのだろう。
そんなある日のことだった。
ユラは、朝食の後片づけをしている最中に、ふと手を止めた。
食事の量が少しずつ戻ってきた一方で、以前とは違う身体の変化が気になっていた。熱が出る前から感じていた疲れやすさも、単なる働きすぎだけではなかったのかもしれない。
確かなことは分からない。
けれど、心当たりがあった。
ユラはしばらく考えた末、カレスに相談した。
「ねえ、カレス。少し、気になることがあるの」
「どうした?」
「ヒルダさんに、もう一度来てもらえないかしら」
カレスの表情が曇った。
「まだ具合が悪いのか?」
「そういうわけではないの。ただ……確かめたいことがあるのよ」
ユラは少し迷いながら続けた。
「もしかしたら、私……」
言葉を最後まで口にすることはできなかった。
カレスは彼女の顔を見つめ、それ以上は急かさなかった。
翌日、ヒルダが家を訪れた。
ユラの容体を確かめた後、彼女は本人の話を聞き、いくつか確認をした。やがて、その表情がわずかに変わった。
「……どうやら、そのようだね」
ユラは息を呑んだ。
「本当ですか?」
「ああ。妊娠している可能性が高い」
その言葉に、カレスは目を見開いた。
「妊娠……?」
ヒルダはうなずいた。
「まだ詳しいことを言える段階ではないけれどね。身体の変化にも説明がつく。これからは、なおさら無理をしないことだよ」
ユラは、自分のお腹にそっと手を添えた。
そこに、命が宿っている。
その事実は、すぐには実感できなかった。
ただ、胸の奥から、温かなものがゆっくりと広がっていく。
「……そう、なのね」
ユラの声が震えた。
カレスは、しばらく何も言えなかった。
驚きと喜び。そして、先日の高熱が頭をよぎったことによる不安。
いくつもの感情が一度に押し寄せ、どう表せばいいのか分からなかった。
「ユラ……」
ようやく名前を呼ぶと、彼女が顔を上げた。
「私たちに、子供ができたのね」
「ああ……」
カレスはうなずいた。
そして、ユラの手をそっと握った。
「今度こそ、無理はさせない。家のことも、村の仕事も、俺ができるだけ引き受ける」
「全部は無理よ」
「分かっている。だから、二人で考える」
ユラは笑った。
「そうね。二人で考えましょう」
ヒルダは、その様子を静かに見守っていた。
先日の高熱は、妊娠に気づく前に起きたことだった。熱が下がったからといって、すべての不安が消えたわけではない。今後も慎重に身体の様子を見ていく必要がある。
それでも、二人にとって、この知らせは確かな喜びだった。
探索者を辞め、故郷へ戻り、新しい暮らしを築いてきた。
これからは、二人だけではない。
まだ見ぬ子供とともに、家族としての日々が始まるのだ。
カレスは、ユラの手を握ったまま、彼女の顔を見つめた。
もう二度と、あの三日間のような思いはしたくない。
そう強く願った。
ただ、穏やかな日々が続いていくことを願いながら、二人は新しい命を迎える準備を始めたのだった。




