第1話 「故郷へ続く道」
王都アルテンブルクを出発した朝、カレスは一度だけ背後を振り返った。
長く暮らした街並みが、朝日に照らされている。
高い石壁に囲まれた王都には、各地から集まった商人や職人、兵士、そして探索者たちが行き交っていた。整備された街路には荷馬車が走り、店先には色とりどりの商品が並ぶ。人々の声や馬のいななき、車輪が石畳を踏む音が重なり、街はいつも活気に満ちていた。
カレスとユラにとって、そこは単なる住居のある街ではなかった。
探索者として活動していた年月の多くを過ごし、仲間たちと出会い、数えきれないほどの経験を積んだ場所だった。
そして、二人が探索者を引退した場所でもある。
「忘れ物でもした?」
隣に立つユラが尋ねた。
「いや。もう、ここへ戻ってくることも少なくなると思ってな」
「そうね」
ユラは王都の方へ目を向けた。
寂しさがないわけではなかった。二人で過ごした時間も、探索者として駆け抜けた日々も、ここには数多く残っている。だが、振り返ってばかりいても仕方がない。
これから向かうのは、カレスの故郷だった。
「行きましょうか」
「ああ」
二人は荷物を確かめ、王都を後にした。
その荷物は、長年の探索者生活で使ってきた道具を整理し、これからの暮らしに必要なものを選び抜いたものだった。
かつて迷宮へ向かうときには、武具や魔物への対策道具、探索に必要な物資を入念に用意したものだ。
しかし、今回の旅の目的は探索ではない。
故郷へ帰り、そこで新しい生活を始める。
それが、二人の決めた道だった。
*
カレスは、元B級探索者である。
B級といえば、各地の迷宮や危険区域で十分な実績を積み、相応の実力を認められた者たちだ。
誰もが簡単になれるものではない。経験だけでなく、戦闘能力、判断力、仲間との連携など、さまざまなものが求められる。
カレスは、その中でも将来を期待されていた一人だった。
前線で戦う力があり、危険な状況でも冷静さを失わない。
自分の力量を過信せず、必要とあれば撤退を選ぶこともできる。
仲間の意見を聞き、状況に応じて考えを改める柔軟さもあった。
その実力を認める者の中には、いずれA級に到達するのではないかと期待する者もいた。
カレス自身も、当時はまだ探索者として上を目指すつもりでいた。
隣には、同じB級探索者であるユラがいた。
ユラはカレスと同じパーティーの仲間だった。
幾度もの探索を共にし、互いの実力を理解し、背中を預けられる関係を築いてきた。
危険な場面であっても周囲をよく見ており、状況に応じて柔軟に行動できる女性だった。
二人は、探索者としての時間を共に過ごすうちに、互いにとって欠かせない存在になっていった。
しかし、どれほど経験を積んでも、探索者に絶対の安全はない。
転機となったのは、ある迷宮の探索だった。
事前に得られた情報をもとに準備を整え、パーティーは迷宮へと入った。
これまでにも危険な探索を経験してきた彼らにとって、特別に無謀な挑戦というわけではなかった。
だが、探索は失敗に終わった。
想定していた状況が崩れ、撤退を余儀なくされた。
その過程で、パーティーメンバーの一人が命を落とした。
生き残った者たちは、仲間の死を前にして立ち尽くすしかなかった。
探索者にとって、仲間の死は決して珍しいものではない。
危険を承知で迷宮に入る以上、いつか誰かを失う可能性はある。
カレスもユラも、それを頭では理解していた。
それでも、理解していることと、実際に受け入れられることは違う。
昨日まで共に話し、笑い、危険を乗り越えてきた仲間が、もう戻ってこない。
その事実は、二人の心に深く刻まれた。
誰か一人の責任にすれば、気持ちの整理がついたのかもしれない。
しかし、あの探索で何が起きたのかを振り返っても、誰か一人を責めて解決するような問題ではなかった。
別の選択をしていれば、今とは違う結果になっていたかもしれない。だが、それを確かめる術はなかった。
仲間の死を経て、パーティーは解散した。
そして、カレスとユラも探索者を引退することを決めた。
カレスには、まだ探索者を続けるだけの実力があった。
別のパーティーに加わり、再び迷宮へ挑むこともできただろう。
A級を目指す道も、完全に閉ざされたわけではない。
だが、彼はその道を選ばなかった。
ユラも同じだった。
二人は、探索者として過ごした年月を否定したわけではない。
そこで得た経験も、仲間と過ごした時間も、失った命も、すべて自分たちの人生の一部だった。
ただ、もう一度同じ場所へ戻り、同じように命を賭けることはできなかった。
だからこそ、二人は新しい暮らしを始めることにした。
その行き先として選んだのが、カレスの故郷であるガルド村だった。
*
カレスは、カーンブルク王国の南方にある辺境の村で生まれ育った。
王国最南端の辺境の街スュドスコグから東へ、徒歩でおよそ14日。カーン大森林の近くに位置する開拓村、それがガルド村である。
王都アルテンブルクから見れば、遠く離れた土地だった。
王都からスュドスコグまでは街道をたどって進むことができる。
しかし、そこから先は事情が違う。ガルド村へ向かう道は、王都や大きな街の街路のように整備されてはいなかった。
人が通ることで踏み固められた場所はあっても、どこまでも続く石畳などない。土地の起伏に合わせて進み、草木が道を覆っていれば迂回し、ぬかるんだ場所や足場の悪い斜面では慎重に歩かなければならない。
天候が崩れれば、移動はさらに難しくなる。
荷物を運びながら進むのであれば、なおさらだった。
「王都からずいぶん遠くまで来たものね」
旅の途中、ユラは周囲の景色を見ながら言った。
「ああ。もっとも、俺が村を出たときには、ここまで戻ってくることになるとは考えていなかったが」
「探索者になったときには、もう帰らないつもりだったの?」
「そこまで決めていたわけじゃない。ただ、村にいるよりは外の方が性に合っていたんだ」
カレスはそう答えた。
ガルド村は、彼にとって生まれ育った場所である。
幼いころの記憶も、家族や村人との思い出もある。
故郷という言葉にふさわしい場所であることに違いはなかった。
だが、故郷だからといって、必ずしも居心地がよいとは限らない。
村には昔からの習慣があり、村人たちはそれを守りながら暮らしていた。長く続いてきたやり方には、それなりの理由がある。小さな村で助け合って生きるためには、互いに決め事を守ることも必要だった。
カレスにも、そのことは理解できる。
しかし、彼は何事も前例に従えばよいとは考えていなかった。
状況が変われば、これまでのやり方が通用しなくなることもある。
今まで正しかったことが、これからも正しいとは限らない。必要ならば、別の方法を探すべきだ。
その考え方は、村の人々とは必ずしも一致しなかった。
カレスが若いころに村を出たのも、そうした考え方の違いが一因だった。
外の世界に出れば、異なる考え方を持つ人間と出会える。
自分の判断で行動し、その結果を自分で引き受けることもできる。
探索者という仕事は危険だったが、カレスにとっては、自分の考え方を生かせる生き方でもあった。
「でも、帰る場所があるというのは悪くないことだと思うわ」
ユラが言った。
「そうだな」
「あなたにとっては、故郷でしょう?」
「……ああ」
カレスは短く答えた。
村を懐かしく思う気持ちがないわけではない。
長い年月を経て、故郷がどう変わっているのか気になる気持ちもあった。
ただ、そこで暮らしていくことに、まったく不安がないわけでもなかった。
村の人々と、再びうまくやっていけるだろうか。
探索者として過ごした年月は、カレスの考え方を大きく変えた。
外の世界で見てきたものも、経験してきたことも、村で暮らしていたころとは違う。
今さら昔の自分と同じように振る舞えるとは思えなかった。
それでも、引退した今、二人には新しい生活が必要だった。
王都に残り、これまでと同じような暮らしを続けることもできただろう。
だが、二人が求めていたのは、再び迷宮へ挑むための生活ではなかった。
危険な仕事から離れ、落ち着いた日々を送りたい。
その願いを叶える場所として、カレスは故郷を選んだのだ。
*
やがて二人はスュドスコグへ到着した。
王国最南端の辺境の街は、王都とは違った雰囲気を持っていた。
街を行き交う人々の中には、武具を身につけた探索者の姿も多い。
物資を運ぶ荷馬車が行き交い、店先では森や辺境の土地で使う道具が売られていた。
ここから先は、二人がこれまで歩いてきた道とは違う。
ガルド村までは、徒歩でおよそ14日。しかも、その行程には整備された道が続いているわけではない。荷物を抱え、足元を確かめながら進む必要がある。
カレスは道具を確認し、ユラとともに街を出た。
進むにつれ、周囲の景色は少しずつ変わっていった。
人の往来は減り、建物の姿も遠ざかる。
踏み固められた地面はやがて細い道へと変わり、草木が両側から迫る場所も増えていった。
足場の悪いところでは、荷物を持ち直しながら進む。
道が途切れたように見える場所では、周囲を確かめて進路を探した。
探索者として幾度も野外を移動してきた二人にとって、こうした旅そのものは珍しいものではない。
しかし、今は探索のために進んでいるのではなかった。
目的地にたどり着いたあと、そこで暮らしていくために進んでいる。
その違いは、二人の気持ちにも影響していた。
旅の途中、カレスは何度か足を止め、周囲の地形を確かめた。
かつて暮らしていた土地とはいえ、長い間離れていたのだ。記憶だけを頼りに進むわけにはいかない。
それでも、見覚えのある地形や、遠くに見える森林の広がりが、少しずつ昔の記憶を呼び起こしていった。
「覚えている?」
ユラが尋ねた。
「何をだ?」
「この辺りの景色。故郷に近づいているんでしょう?」
「ああ。昔と変わっていないところもあるな」
カレスは周囲を見渡した。
村を出たころの自分は、ここへ戻ってくる日があるとは考えていなかった。
外の世界に出て、探索者として実力を磨き、いつかA級に到達する。そうした未来を思い描いていた時期もあった。
だが、人生は思い描いたとおりには進まない。
仲間を失い、パーティーが解散し、探索者を引退した。
その結果、今こうして故郷へ向かっている。
後悔がないと言えば嘘になる。
失った仲間のことを、忘れられるはずもなかった。
それでも、過ぎたことを変えることはできない。
今の自分にできることを考え、これからの生活を築いていくしかなかった。
ユラは、そんなカレスの隣を歩いていた。
彼女もまた、探索者としての過去を忘れたわけではない。
仲間と過ごした時間も、迷宮での出来事も、心の中に残っている。
だが、彼女はカレスとともに引退を決めたことを後悔していなかった。
二人で選んだ道なのだから、これからも二人で進んでいけばいい。
そう考えていた。
旅を続けるうちに、日が傾き始めた。
二人は無理に先を急がず、夜を越す場所を探した。
整備されていない道を暗くなってから進むのは危険が大きい。
探索者としての経験があるからこそ、焦って進むべきではないと分かっていた。
翌日も、その次の日も、二人は歩き続けた。
道なき道を進み、足場を確かめ、周囲に気を配りながら、少しずつ目的地へ近づいていく。
そして、旅の終わりが見え始めたころ、カレスは遠くの景色に目を留めた。
見覚えのある土地だった。
ここから先へ進めば、ガルド村がある。
自分が生まれ育ち、若いころに出ていった村。長い年月を経て、再び戻ろうとしている場所。
「もうすぐだ」
カレスが言った。
ユラは隣に並び、彼の視線の先を見た。
「そう。ここがあなたの故郷なのね」
「ああ。……帰ってきたんだな」
その言葉には、安堵と戸惑いの両方が混じっていた。
帰郷したからといって、すべてがうまくいくとは限らない。
昔と同じように暮らせる保証もなければ、村の人々が二人をどのように迎えるかも分からない。
それでも、二人はここまで来た。
探索者としての生活に区切りをつけ、これからの人生を始めるために。
カレスは再び前を向いた。
ユラも、何も言わずにその隣を歩き出した。
王都アルテンブルクから続いた長い旅は、まもなく終わろうとしていた。
二人を待つガルド村で、これからどのような日々が始まるのか。
その答えを、今の二人はまだ知らなかった。




