プロローグ 第五話 「二つの魂の選択」
母体の熱は、いまだ収まっていなかった。
受肉の途上にある二つの魂は、同じ器の中で形を成そうとしていた。
片方は鋭く澄んだ光を放ち、もう片方は柔らかな光を揺らめかせている。
その光の違いに、魂としての優劣はない。
本来なら、どちらも同じように生を得るはずだった。
しかし、母体を襲う熱は、柔らかな光を少しずつ削っていた。
光が弱まる。
揺らぎが大きくなる。
形を保とうとする力が失われ、魂は受肉に必要な均衡を保てなくなりつつあった。
このまま衰弱が続けば、弟となる魂は、形を成す前に消滅する。
龍は、その様子を静かに見つめていた。
すでに受肉は始まっている。
二つの魂は、母体の中に宿り、一つの身体を得ようとしていた。
だが、その過程は決して順調とは言えなかった。
そして、問題は弟の魂だけにとどまらない。
二つの魂は、ほかの魂と比べても特別な力を持っているわけではない。
どちらかが優れているわけでも、特別な性質を備えているわけでもない。
それでも、二つの間には奇妙なつながりがあった。
受肉する以前から、互いを認識しているかのような動きを見せていたのだ。
片方が揺らげば、もう片方もわずかに揺れる。
片方が進めば、もう片方もそれに歩調を合わせる。
意思を持つはずのない魂が、まるで互いの存在を理解し、寄り添っているかのように振る舞っていた。
そして今、そのつながりが、思いもよらない形で影響を及ぼし始めていた。
弟の魂が弱まるにつれ、兄の魂にも小さな揺らぎが生じていたのである。
それは、単に近くにある魂の変化に引きずられているというだけではなかった。
弟の魂が失われようとしていることそのものが、兄の魂の均衡をも乱し始めている。
もし弟の魂が完全に消滅すれば、兄の魂もまた、その影響を免れないかもしれない。
二つの魂は、互いに無関係な存在ではなくなりつつあった。
龍は、しばらくその様子を観察していた。
助ける方法が、まったくないわけではない。
外から力を加え、衰弱した魂を補う方法はある。
だが、今の状態では、どこまで介入すべきかの判断が難しい。
いや、下手に力を与えれば、かえって魂を壊してしまう可能性が高かった。
魂は、ただ力を注ぎ込めば安定するような単純なものではない。
受肉の途上にある魂は、まだその形を完全に定めていない。そこへ外部から過剰な力を加えれば、均衡を取り戻すどころか、魂そのものの構造を損ないかねない。
力が足りなければ、衰弱を止められない。
かといって、力を強めれば、今度は受け止めきれずに壊れる。
今の弟の魂に対して、適切な力を見極めることは容易ではなかった。
龍ほどの存在であっても、確実に救えると断言できる状況ではない。
むしろ、救おうと力を注いだ結果、残された均衡まで崩してしまう危険のほうが大きい。
ならば、もう一つの方法はどうか。
兄の魂に、弟の魂を取り込ませる。
失われつつある魂を、そのまま消滅させるのではなく、別の魂の内側へと取り込ませる。兄の魂が弟の魂を糧とすれば、弟の存在は独立した魂としての形を失い、その自我も消える。残るのは、かつて弟であったものの、ごく僅かな残滓だけになるだろう。
それは、弟を救うこととは違う。
弟という存在を存続させるのではなく、その魂を兄の糧とし、消滅によって失われるはずのものを、別の形で残すだけだ。
少なくとも、兄の魂まで巻き込まれて消滅する可能性は減る。
だが、それは弟自身が生き残ることを意味しなかった。
弟の自我は失われ、兄の内に残るのは、もはや弟と呼べるかどうかさえ分からない、魂の残滓にすぎない。
龍は、二つの光を見比べた。
この方法を伝えたとして、兄の魂はそれを受け入れるだろうか。
弟を自らの糧とし、その存在を失わせることを。
龍には、そうは思えなかった。
理由はない。
兄の魂が何を考えているのか、そもそも意思と呼べるものが本当に存在するのかさえ、確かなことは分からない。
それでも、これまでの二つの魂の動きを見る限り、兄が弟を単なる糧として取り込むとは考えにくかった。
ならば、告げる意味はない。
龍は、何も伝えなかった。
*
その夜、ユラは夢を見た。
暗闇の中に、巨大な影があった。
長い身体。幾重にも重なる鱗。闇の中で静かに輝く金色の瞳。
龍だった。
ユラは声を出そうとしたが、喉が動かなかった。
恐ろしいはずなのに、不思議と逃げようとは思わなかった。
ただ、その視線から目を離すことができなかった。
龍は、ユラを見下ろしていた。
その視線に、怒りも敵意もない。
ただ、すべてを見通すような静けさがあった。
『汝の内に、まだ形なきものがある』
声は、耳から聞こえたものではなかった。
頭の中に直接響くような、不思議な声だった。
ユラは息をのんだ。
「……何、を……?」
問いかけても、龍はすぐには答えなかった。
その金色の瞳は、ユラ自身を見ているようでありながら、彼女のさらに奥にある何かを見つめているようでもあった。
『寄り添うものは、必ずしも同じ形をしているとは限らぬ』
ユラには、その言葉の意味が分からなかった。
ただ、遠くに浮かぶ二つの光が、わずかに揺れた気がした。
片方は鋭く澄み、もう片方は柔らかく揺れている。
異なる光でありながら、離れることなく、互いのそばに在った。
龍は、二つの光へと視線を向けた。
『強くあれ。汝が揺らげば、二つも揺らぐ』
その言葉は、静かだった。
脅しでも、命令でもない。
ただ、そうなるという事実を告げるような声音だった。
ユラは、何かを答えようとした。
しかし、声が出なかった。
龍の言葉は、理解できたようでいて、理解できない。
何を指しているのか。何を求められているのか。
尋ねようとしたときには、すでに龍の姿が遠ざかり始めていた。
「待って……!」
手を伸ばす。
けれど、届かない。
二つの光が暗闇の向こうへと沈み、龍の姿もまた、ゆっくりと溶けるように消えていった。
視界が白く染まり、すべてが遠ざかっていった。
*
ユラが目を覚ましたとき、夢の内容はすでに曖昧になっていた。
何かを見た気がする。
誰かの声を聞いた気がする。
けれど、それが何だったのか、はっきりと思い出すことはできなかった。
ただ、胸の奥に、言葉では説明できない不安だけが残っていた。
ユラは重い身体を横たえたまま、ぼんやりと天井を見つめた。
夢の中で聞いた声が、かすかに記憶の底に引っかかっている。
けれど、思い出そうとするほど、その輪郭は曖昧になっていった。
やがてユラは、再び目を閉じた。
今はただ、この熱が早く治まることを願うばかりだった。
*
母体の中では、弟の魂がさらに弱まっていた。
柔らかな光は、今にも消えそうなほどに薄れている。
その揺らぎは、もはや隠しようがなかった。
兄の魂にも影響が及んでいる。
兄の光は、なお鋭く澄んでいた。だが、その輪郭には、これまでになかった乱れが生じていた。
弟の魂が消えれば、兄もまた無事では済まないかもしれない。
龍が考えた方法を用いれば、兄だけは生き残れる可能性がある。
しかし、その場合、弟は弟ではなくなる。
自我を失い、兄の魂の一部として残るだけだ。
それは、龍が観察してきた二つの魂の関係を、終わらせることに等しかった。
だが、次の瞬間。
兄の魂が動いた。
それまで弟のそばで揺らいでいた光が、静かに近づいていく。
弱まり続ける弟の魂を、包み込むように。
龍は、わずかに意識を向けた。
兄の魂は、弟を取り込もうとしていた。
だが、その動きは龍が考えた方法とは異なっていた。
糧として吸収するのではない。
弟の魂を削り、自らの力に変えるのでもない。
兄の魂は、弟の光を拒まず、その内側へと迎え入れようとしていた。
弟の魂が消えてしまうことを避けるために。
いや、そもそも、兄の魂にそのような明確な考えがあったのかどうかは分からない。
理由があったわけではない。
計算した結果でもない。
ただ、兄の魂は弟の魂を受け入れようとしていた。
弟を糧にすれば、兄は生き残れるかもしれない。
しかし、兄はそうしなかった。
弟という存在を失わせて、自らだけが残る道を選ばなかった。
その行為が、結果として二つの魂を存続させることになるのか。
それとも、兄自身まで巻き込んで消滅することになるのか。
その時点では、誰にも分からなかった。
それでも、兄の魂は動きを止めなかった。
二つの光が重なっていく。
鋭く澄んだ光が、柔らかな光を包み込む。
柔らかな光は、消えていくのではなく、兄の光の内側へと入り込んでいった。
そこには、明確な境界があった。
けれど、完全に分かたれているわけでもなかった。
二つの魂は、一つの器の中で互いを失わずに在ろうとしていた。
それが意思によるものなのか。
あるいは、意思など存在しない魂が、ただそのように動いているだけなのか。
龍にも、まだ判断はできなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
兄の魂は、自らが消滅する危険を顧みず、弟の魂を受け入れようとしていた。
それは、龍が予想していたどの反応とも異なっていた。
龍は、長い沈黙の中で二つの光を見つめ続けた。
*
「……それで?」
山の奥深く、巨大な岩の内部に、低い声が響いた。
声の主は、石だった。
山そのものに根を張る古き石は、長い年月を経て、龍の古い友となっていた。
自ら魔素を蓄えることはできないが、内部を流れる魔素を操り、遠くの情報を受け取ることもできる。
龍は、石の問いにすぐには答えなかった。
「二つの魂が、同じ器に宿ろうとしている。そこまでは、珍しい話ではない」
「まあ、そうだろうね」
石は、のんびりとした調子で応じた。
「双子の魂が生まれることも、一つの器に二つの魂が宿ることも、そう頻繁ではないにせよ、あり得ない話じゃない」
「そうだ」
「それで、君が気にしているのは?」
龍は、わずかに目を細めた。
「意思を持たぬはずの魂が、互いを認識しているかのように動いていた」
「認識しているかのように?」
「片方が揺らげば、もう片方も揺らぐ。片方が進めば、もう片方も歩調を合わせる。まるで、互いの存在を理解しているかのようにな」
「へえ……。生まれる前から、ずいぶん仲がいいんだね」
「仲がいい、か」
龍は、その言葉を口の中で転がすように繰り返した。
「それが意思によるものなのか、単なる魂の性質なのかは分からん。だが、二つの魂は互いを拒んでいない」
「それで、弟の魂が弱って、兄のほうまで影響を受けた」
「そうだ」
「君なら、何かできたんじゃないのかい?」
「確実に救える方法はなかった。外から力を加えれば、かえって魂を壊す危険がある。もう一つの方法もあったが、それは弟の自我を失わせるものだった」
「それで、教えなかった?」
「教えたところで、受け入れるとは思えなかった」
石は、少しだけ沈黙した。
「それで、どうなった?」
「兄が、弟を取り込もうとした」
「……へえ」
石の声から、わずかに軽さが消えた。
「糧にしたのかい?」
「違う」
龍は、即座に答えた。
「弟を自らの力に変えようとしたのではない。弟の魂を、その内側へと受け入れようとしていた」
「自分まで消えるかもしれないのに?」
「そうだ」
「ずいぶん、妙なことをするものだね」
「妙だからこそ、興味深い」
龍の声には、感情らしいものはなかった。
驚きでも、感動でもない。
ただ、目の前で起きた事象を、正確に捉えようとする声音だった。
「意思を持つはずのない魂が、互いを認識しているかのように動く。そして、片方が消えようとしたとき、もう片方は自らの存続を危険にさらしてまで、それを受け入れようとした」
「それが、本当に意思なのかは分からないんだろう?」
「分からん」
「なら、まだ答えは出ていないね」
「そうだな」
龍は、再び意識を遠くへ向けた。
母体の中で、二つの光は重なり合っていた。
その均衡が保たれるのか。
二つの魂が、それぞれの存在を失わずにいられるのか。
今はまだ、何も分からない。
だが、確かめる価値はある。
「……しばらく、見ることになりそうだね」
石が言った。
「見るだけだ」
龍は、いつものように淡々と答えた。
「もちろん。君がそういうやつなのは、昔から知っているよ」
石の声には、長い付き合いゆえの気安さがあった。
龍は、それ以上答えなかった。
ただ、二つの光を見つめ続けていた。
まだ生まれてもいない魂。
意思を持つはずのない魂。
それでも互いを拒まず、共に在ろうとする二つの魂。
それが何を意味するのか、龍はまだ知らない。
だからこそ、見届けることにした。
こうして、龍の興味は、二つの魂から離れなくなった。




