プロローグ 第三話「意思なき魂の軌跡」
深い闇の中を、二つの光が漂っていた。
一つは、鋭く弾ける光。
もう一つは、柔らかく揺れる光。
二つの光は、互いの周囲を巡っていた。
片方が速く動けば、もう片方が追いかける。
追いつけば、今度は追いついた側が離れていく。
離れたかと思えば、いつの間にか再び近くに戻っている。
その繰り返しだった。
まるで、互いの存在を確かめ合っているかのように。
龍は、その様子を見ていた。
山の奥底。地脈の中心。長い眠りの底にある意識の一部だけを浮かべ、二つの光を眺めている。
最初に見たときから、気になっていた。
魂そのものは、珍しいものではない。
生き物が生まれ、命を終える。世界の中では、それが絶え間なく繰り返されている。魂が生まれ、肉体を得て、やがて肉体を離れる。その流れに、特段の不思議はない。
二つの魂が同じ時期に生まれることも、あり得る。
二つの魂が同じ器に宿ることも、極めて珍しいとはいえ、あり得ない話ではない。
だが、この二つは違った。
いや、魂の性質そのものが特別だというわけではない。
問題は、その振る舞いだった。
まだ肉体を持たない。
生命として生まれてもいない。
自ら考えるための脳も、意思を形作るための経験もない。
本来ならば、そこにあるのは魂としての性質と、現世へ向かう流れだけのはずだった。
それなのに。
鋭い光が進むと、柔らかな光が追う。
柔らかな光の動きが鈍れば、鋭い光も速度を落とす。
片方が進む方向を変えれば、もう片方もそれに合わせる。
偶然の揺らぎと考えることはできる。
一度や二度ならば、そう片づけてもよかった。
しかし、繰り返される動きには、単なる偶然では説明しきれないような一貫性があった。
互いを認識しているかのように。
相手の状態を察しているかのように。
そして、片方だけで進むのではなく、二つで進もうとしているかのように。
「……妙だな」
龍の口から、低い声が漏れた。
それは驚きというより、純粋な疑問だった。
意思を持っているのか。
それとも、意思があるように見えるだけなのか。
龍には、まだ判断できなかった。
魂の動きには、もともと一定の性質がある。周囲の魔素や、現世へ向かう流れに影響されることもある。
その範囲で説明できる可能性も、もちろんあった。
だが、もしそうならば、なぜ二つは互いに歩調を合わせるのか。
なぜ、一方だけが先へ進もうとしないのか。
なぜ、片方の動きにもう片方が応じるような振る舞いを、何度も繰り返すのか。
龍は、答えを急がなかった。
分からないものを、分からないまま観察する。
それもまた、知るための手段だった。
二つの光は、相変わらず闇の中を巡っている。
鋭い光が大きく弧を描く。
柔らかな光は、少し遅れて同じ軌跡をたどった。
やがて二つは並び、しばらく同じ速さで進んだ。
その姿を見て、龍はわずかに意識を深めた。
「面白い」
今度は、先ほどよりもはっきりとした声だった。
力があるからではない。
強大な魔力を秘めているからでもない。
世界を変えるほどの性質を備えているわけでもない。
むしろ、二つの魂はあまりにも小さかった。
吹けば消えてしまいそうな、か細い光。
それでも、その振る舞いだけは龍の知る通常の魂のあり方と異なって見えた。
まだ生まれてもいない存在が、まるで互いを大切にしているかのように動いている。
片方が片方を置き去りにすることなく、相手の動きに合わせ、同じ方向へ進もうとしている。
そこに本当に意思があるのか。
それとも、意思という概念を当てはめているのは、観察している龍の側なのか。
その答えは、まだ出ない。
だからこそ、興味があった。
龍は二つの光を見つめ続けた。
*
やがて、二つの光の進む先に変化が現れた。
闇の向こうに、薄い膜のような境界が浮かび上がっている。
こちら側とは異なる気配。
魔素の流れが変わり、存在のあり方そのものが異なる場所。
現世へと通じる境界だった。
二つの光は、その境界へ向かっていた。
進む方向が定まった途端、二つの動きは少しずつ変化した。
それまでは互いの周囲を巡り、離れては近づくことを繰り返していたのに、今度は同じ方向へ進む時間が長くなった。
鋭い光が先へ出る。
柔らかな光が続く。
しかし、距離が開きすぎることはなかった。
柔らかな光が遅れれば、鋭い光は速度を緩める。
鋭い光が軌道を変えれば、柔らかな光もそれに応じる。
まるで、二つで一つの目的地を目指しているようだった。
龍は、そこで初めて確信に近いものを覚えた。
この二つは、別々に現世へ向かっているのではない。
二つで歩調を合わせ、同じ場所を目指している。
それが何を意味するのかは、まだ分からなかった。
だが、二つの魂が同じ器へ向かうこと自体は、さほど重要ではない。
龍の興味は、そこに至るまでの過程にあった。
意思を持つはずのないものが、意思を持つかのように振る舞う。
互いを認識しているかのように動き、相手の歩調に合わせ、同じ目的地へ向かう。
その振る舞いが、現世へ降りたあとも続くのか。
肉体を得たとき、何かが変わるのか。
それとも、今だけに見られる現象なのか。
確かめたいことは、いくつもあった。
しかし、龍は手を出さなかった。
観察するために、流れを変える必要はない。
自らの力で何かを変えれば、それは観察ではなくなる。
龍はただ、二つの光を見ていた。
境界が近づく。
現世へ降りる時が迫っていた。
その直前、二つの光が再び互いへと寄った。
そして、強くぶつかる。
鋭い光と柔らかな光が重なり、瞬間的にひときわ強い輝きを放った。
しかし、混ざり合って一つになることはなかった。
光はすぐに二つへと分かれ、それぞれの輝きを取り戻す。
そのまま、二つは並んで境界を越えていった。
龍の金色の瞳が、わずかに細まった。
「……やはり、意思があるように見える」
断定ではなかった。
観察した事実から導いた、現時点での感想にすぎない。
それでも、龍にとっては十分だった。
答えが出ていないからこそ、続きが気になる。
その感覚を、龍は久しく味わっていなかった。
*
二つの光が現世へ降りる。
それぞれの魂が、肉体を得るための器を求める。
やがて、二つは同じ場所へと向かった。
一つの母体。
一つの命が宿るはずの器。
そこへ、二つの魂が近づいていく。
このこと自体も、絶対に起こり得ない現象ではなかった。
珍しいことではある。
しかし、それだけならば、龍がここまで興味を持つ理由にはならない。
龍が見ていたのは、あくまでも二つの魂の振る舞いだった。
鋭い光が進む。
柔らかな光が続く。
途中で、鋭い光の動きがわずかに乱れた。
すると、柔らかな光も速度を落とした。
しばらくして、鋭い光が再び進み始める。
柔らかな光も、それに合わせて動き出した。
それは、まるで相手の状態を気遣っているかのようだった。
もちろん、魂が本当に何かを考えているのかどうかは分からない。
だが、龍の目にはそう映った。
「……何をしている?」
問いかけても、答えはない。
そもそも、二つの魂に問いを理解する力があるとは思えなかった。
それでも龍は、目を離さなかった。
二つの魂が、器へと近づいていく。
そして、ほとんど同時に、その中へと宿った。
鋭い光が消える。
続いて、柔らかな光も消えた。
闇の中には、何も残らない。
いや、正確には、二つの魂が消えたわけではない。
現世に生きるための器を得たのだ。
二つの魂は、同じ母体の中に宿っていた。
龍は、その結果を静かに受け止めた。
「同じ器か」
その言葉に、驚きはなかった。
起こり得ることが起きた。
ただ、それだけだ。
だが、あの二つの魂が、互いの存在を意識するかのように振る舞いながら、歩調を合わせて同じ器へ向かったという事実は変わらない。
それが偶然だったのか。
魂の性質によるものなのか。
あるいは、龍がまだ知らない何かがあるのか。
今の時点では、何も断定できなかった。
だからこそ、記憶に留めておく価値があった。
「覚えておこう」
龍は静かに呟いた。
地上に宿った二つの魂は、これから肉体の中で成長していく。
やがて生まれ、外の世界に触れ、さまざまな経験を重ねることになるだろう。
その過程で、今のような振る舞いは失われるのか。
それとも、何らかの形で続いていくのか。
龍は、それを見届けてみたいと思った。
ただし、今すぐ何かをするつもりはなかった。
時間はある。
命が生まれ、育つまでには相応の時間がかかる。
それまで眠っていればよい。
次に意識を浮かべたとき、何かが分かるかもしれない。
そう考え、龍は再び深い眠りへと沈んでいった。
*
どれほどの時が過ぎたのか。
龍の意識が再び浮かび上がったとき、地脈は静かに流れていた。
岩盤の奥で、魔素が緩やかに循環している。
「……また夢を見たのかい?」
軽い声音が響いた。
岩の一部が淡く光る。
石だった。
山の奥深くに根を下ろした、古くからの知己。長い時間を共に過ごし、互いの性質を知り尽くした相手だった。
「……貴様か」
「他に誰がいるんだい」
石は、くすりと笑うように岩盤を震わせた。
「この前も夢の話をしていたけれど、今度はどんな夢だったんだい?」
「夢というより、観察に近い」
「へえ?」
石の声に、わずかな興味が混じる。
龍は、しばらく沈黙した。
話すべきかどうかを迷ったわけではない。
ただ、見たものをどのように言葉にすればよいか、考えていた。
「二つの魂を見た」
「二つ?」
「現世へ向かう前のものだ」
「双子の魂かな。それ自体は、珍しいことではあっても、特別なことじゃないね」
「そうだ」
龍は否定しなかった。
「同じ器に宿ることも、あり得る。そこに驚きはない」
「では、何が気になったんだい?」
龍は、金色の瞳を細めた。
「意思だ」
「意思?」
「まだ生命にもなっていない魂が、意思を持っているかのように振る舞っていた」
石は、すぐには返事をしなかった。
龍は続けた。
「片方が進めば、もう片方が追う。相手の動きが変われば、それに応じる。離れすぎず、互いの歩調を合わせて進んでいた」
「偶然では?」
「その可能性はある」
龍は、あっさりと認めた。
「一度や二度の動きなら、そう考えただろう。だが、あれは繰り返されていた。まるで、互いを認識しているかのように」
「実際に認識していたかどうかは分からない、と」
「そうだ。意思があるのか、意思があるように見えるだけなのか。それはまだ分からぬ」
石の光が、ゆっくりと明滅した。
「なるほど。それで興味を持ったんだね」
「そういうことだ」
「二つの魂が同じ器に宿ったことではなく、そこへ至るまでの振る舞いに?」
「そうだ。結果よりも、過程が気になった」
龍の声に、余計な感情はなかった。
ただ、分からないものを分からないままにしておくことが、少し惜しい。
それだけだった。
「君がそこまで気にするとはね」
「気にしているのではない。興味があるだけだ」
「はいはい。そういうことにしておこう」
石は楽しそうに応じた。
「それで、その二つの魂は今どうしているんだい?」
「同じ器に宿った。現世で命を得るための過程に入ったところだ」
「それなら、これからどうなるかは、まだ分からないね」
「分からぬ」
「二つのまま成長するのか。互いの存在を認識し続けるのか。それとも、今の振る舞いがただの偶然だったと分かるのか」
「そうだ」
龍は短く答えた。
「だから、見るだけだ」
「手を貸すつもりはない?」
「ない」
「導くつもりも?」
「ない」
龍は、わずかに首をもたげた。
「自らの力で流れを変えれば、それは観察ではなくなる」
「君らしいね」
石は、それ以上追及しなかった。
長い付き合いだ。龍が一度決めたことを、簡単に変えないのは知っている。
「まあ、いいさ。次に目を向けるとき、何か分かるといいね」
「次があればな」
「あるさ」
石は、確信めいた声で言った。
「君はもう、興味を持ってしまっている」
龍は答えなかった。
否定する必要はなかった。
やがて、金色の瞳がゆっくりと閉じられる。
地脈の流れが、再び静けさを取り戻していった。
石の光も、少しずつ弱まっていく。
深い闇の中。
龍は再び眠りについた。
その意識の片隅には、二つの光が残っていた。
鋭く弾ける光。
柔らかく揺れる光。
意思を持つはずのない魂が、まるで互いを思いやるかのように振る舞っていた。
それが何を意味するのか、龍にはまだ分からない。
だが、次に目を向けたとき、確かめることはできるだろう。
地上では、二つの魂が同じ器に宿り、静かに命の始まりを迎えていた。




