プロローグ 第二話「龍と石の静かな会話」
周囲を満たす魔素は、ゆっくりと流れている。
岩の隙間を抜け、地層を巡り、遠い地上へと向かう流れ。
その一部は大地に蓄えられ、一部は生き物の営みに使われ、そして再び世界へと還っていく。
龍は、その流れの中にいた。
身体を横たえ、幾重もの岩盤に包まれながら、長い眠りを続けている。
意識は深く沈んでいた。
先ほど見た夢の記憶も、すでに遠ざかりつつある。
ふたつの光。
互いを追いかけ、近づき、離れ、また並んで進んでいく魂。
あれが何だったのか、龍にはまだ分からない。
分からないが、害があるようにも見えなかった。
ならば、今すぐ何かをする必要はない。
そう判断し、意識を再び沈めようとしたときだった。
「……珍しいのが来たな」
低い声が、暗闇に落ちた。
音が響いたわけではない。
この場所には、音を伝える空気すらほとんどない。声は魔素の流れに乗り、意識へ直接届いていた。
龍は目を開けなかった。
代わりに、わずかに意識を動かした。
「……貴様か」
「他に誰がいるんだい」
軽い返事だった。
声の主は、龍のすぐ近くにある岩だった。
大きさだけなら、周囲にいくらでも転がっている岩石と大差ない。角ばった輪郭を持ち、表面には長い年月を経て生じた細かな傷がある。
だが、その岩はただの岩ではなかった。
表面を流れる魔素が、ほんの少しだけ規則的に動いている。
まるで、何かを考えているかのように。
「君が起きた気配がしてね。何かあったのかと思ったんだ」
「起きたわけではない」
「じゃあ、寝たまま何かをした?」
「……夢を見たのだ」
一瞬、岩の表面を走る魔素が止まった。
「君が夢を?」
「そうだ」
「へえ。それは珍しい」
石は、興味深そうに魔素を揺らした。
「どんな夢だったんだい?」
「ふたつの魂が現れた」
「魂?」
「ああ」
龍は、先ほどの光景を思い返した。
「小さなものだ。力も弱い。だが、妙な構造をしていた」
「妙な構造、ねえ」
石は、しばらく考えるように沈黙した。
「具体的には?」
「明確にふたつに分かれていた。互いに異なる性質を持ち、境界もある。片方が片方を侵食している様子はなかった」
「それなら、ふたつの魂があったというだけじゃないのかい?」
「普通なら、そうだろうな」
龍は否定しなかった。
ふたつの魂が存在すること自体は、それほど珍しい現象ではない。
生まれる命の数だけ魂があるのだから、ふたつの魂が同じ場所に存在したとしても、それだけなら不思議ではない。
問題は、そのふたつが見せた振る舞いだった。
「妙に近かったのだ」
「近い?」
「互いに独立している。だが、相手がそこにいることを当然のように受け入れていた」
「仲が良かった、ということかな」
「その表現が適切かは分からん」
「君にも分からないことがあるんだね」
「分からないことくらい、いくらでもある」
龍は淡々と返した。
「知らぬものを、知っているふりをする必要はない」
「それはそうだ」
石は、くすりと笑うように魔素を震わせた。
「それで? その魂たちは、君に何かしたのかい?」
「何も」
「何も?」
「ただ、そこにいた。それだけだ」
「それだけで、君が目を覚ました?」
「完全に目覚めたわけではない」
「細かいなあ」
「事実だ」
龍は目を閉じたまま、わずかに鼻先を動かした。
「眠りが揺らいだだけだ。地脈の流れにも異常はない。外部からの干渉も確認できなかった」
「なら、夢の中に出てきただけかもしれないね」
「その可能性はある」
「だったら、気にしなくてもいいんじゃない?」
石の言葉に、龍はすぐには答えなかった。
気にする必要がない。
それは正しい。
あのふたつの魂が何であろうと、今のところ龍に害を及ぼしてはいない。地脈の流れを乱したわけでもなく、何らかの力を送り込んできたわけでもない。
放っておけばよい。
それで済む話だった。
「……そうだな」
龍は、ようやく答えた。
「今のところは、それでよい」
「おや。珍しく素直だ」
「何を言っている」
「いや、君ならもっと調べようとするのかと思ってね」
「必要があれば調べる。必要がなければ放置する。それだけだ」
「合理的だねえ」
「当然だろう」
石は、再び魔素を揺らした。
その反応には、長い付き合いのある者だけが知る気安さがあった。
龍と石は、互いの存在をよく知っている。
人間の尺度で測れば、どれほど長い付き合いになるのかも分からない。
ただ、少なくとも、互いに相手を説明する必要はなかった。
龍が何を考え、何を面倒だと思い、何を放っておくのか。
石は、それをある程度理解していた。
だからこそ、余計なことを言う。
「それで、その魂たちはどうなったんだい?」
「分からん」
「見届けなかったの?」
「夢が終わった」
「君が途中で眠り直したんじゃないのかい?」
「……可能性はある」
「ははっ。なるほどね」
石の声が、少しだけ弾んだ。
龍は気にしなかった。
「最後には、ふたつが同じ方向へ進んでいた」
「どこへ?」
「分からん」
「さっきから分からないことばかりだね」
「夢の中の出来事だ。正確な場所など分かるはずがない」
「それもそうか」
石は納得したようだった。
「でも、同じ方向へ進んだんだ?」
「ああ」
「片方が、もう片方を追いかけるのをやめて?」
「そうだ」
「それで並んだ」
「……そうだ」
龍は、わずかに眉を寄せた。
石が何を言いたいのか、まだ分からない。
いや、そもそも、石自身にも特に言いたいことなどないのかもしれなかった。
ただ、珍しい話を聞いたから、あれこれ尋ねているだけだ。
「それがどうした」
「別に。ちょっと面白いなと思っただけさ」
「面白い?」
「うん。君がわざわざ話すくらいなんだから、よほど印象に残ったんだろう?」
「……そうかもしれんな」
龍は、それ以上は答えなかった。
自分がなぜあの光景を記憶に留めたのか。
改めて考えてみても、明確な理由は見つからない。
魂の構造が珍しかったからか。
ふたつの光が、まるで会話をしているように見えたからか。
あるいは、互いの存在を当たり前のように受け入れ、楽しげに動き回っていたからか。
どれも理由にはなり得る。
だが、どれかひとつが決定的だったわけではない。
「まあ、いいさ」
石が言った。
「今は何も起きていないんだろう?」
「そうだ」
「だったら、今すぐ何かをする必要もない」
「その通りだ」
「君がそう言うなら、そうなんだろうね」
石は、そこで話を切り上げた。
魔素の流れが、再びゆっくりと安定していく。
岩の表面を走っていた光も、次第に弱まった。
石もまた、意識を沈めようとしているのだろう。
龍は、目を閉じたまま言った。
「……ひとつ、覚えておく」
「何を?」
「あのふたつの魂だ」
「へえ」
石は、少しだけ間を置いた。
「名前も知らないのに?」
「まだ名などないだろう」
「そうかもしれないね」
「それに、覚えておくことと、干渉することは別だ」
「うん。君らしい答えだ」
石の声には、からかうような響きがあった。
龍は無視した。
干渉する理由がない。
今は、それだけで十分だった。
あのふたつの魂がこの先どうなるのか。
無事に生まれるのか。
成長するのか。
あるいは、どこかで消えてしまうのか。
龍には分からない。
そして、それを今ここで確かめる必要もなかった。
ただ、もし次に目覚めたとき、何かの拍子に思い出すことがあれば。
そのときに、少しばかり気に留めればよい。
それだけの話だ。
「では、眠る」
龍が言った。
「おやすみ。次に起きるのは、いつになることやら」
「知らん」
「だろうね」
石の声が、最後に小さく笑った。
やがて、魔素の流れは元の状態へと戻っていった。
岩盤は静まり返り、地脈は変わらず流れ続ける。
龍の意識も、再び深い眠りへと沈んでいった。
その底に、ふたつの光の記憶が残っている。
片方は、火花のように明るく。
もう片方は、灯火のように穏やかに。
互いを追いかけ、並び、同じ方向へと進んでいく。
龍は、それを特別なものだとは考えなかった。
ただ、珍しい夢だった。
だから、少しだけ覚えておく。
それだけでよかった。
深い闇の中。
龍は再び眠りについた。
そして、地上では何も知らない命が、静かに生まれようとしていた。




