プロローグ 第一話「龍の見る夢」
深い、深い闇。
それは静寂であり、重圧であり、永い時の積み重なった果てだった。
地の底。
幾重にも重なった岩盤のさらに奥、地脈の流れが複雑に交差する場所に、一頭の龍が眠っていた。
その巨体は、周囲の岩石と見分けがつかないほどに大地と同化している。鱗を覆う鉱物の層には、長い年月のうちに結晶が育ち、身体の輪郭には苔にも似た魔素の凝集体が張り付いていた。
呼吸はないに等しい。
心臓の鼓動も、外からは感じ取れない。
しかし、死んでいるわけではなかった。
龍は生きている。
ただ、目覚める必要がないから眠っているだけだ。
人間の一生など、龍にとっては瞬きほどの時間に過ぎない。王国が興り、栄え、滅びる。山が削られ、谷が埋まり、河の流れが変わる。そうした出来事のいくつかを、龍は眠りの合間に感じ取ってきた。
興味を引かれるものがあれば意識を向ける。
そうでなければ、また眠る。
それだけのことだった。
今も、本来なら何も起きるはずがなかった。
地脈の流れは安定している。
周囲の魔素にも異常はない。
遠くで生き物が動いている気配はあるが、いずれも龍の眠りを妨げるほどのものではなかった。
そのはずだった。
――揺らぎ。
闇の底に、かすかな光が生まれた。
ひとつ。
いや、ふたつ。
龍の意識が、ほんのわずかに浮上した。
何かが侵入したわけではない。
外部から魔法をかけられたわけでもない。
ただ、眠りの底に、これまで存在しなかったものが現れた。
小さな光だった。
片方は、明滅が速い。
まるで火花のように、落ち着きなく輝いては、すぐに別の場所へ移っていく。
もう片方は、少しばかり穏やかだった。
光の強さは一定ではないが、消えそうになることもなく、ゆっくりと明滅を繰り返している。
ふたつの光は、互いの周囲を回っていた。
近づく。
離れる。
追いかける。
追いかけられる。
しばらくすると、片方が不意に進路を変えた。
もう片方も、すぐに追いかける。
また離れた。
そして、また近づいた。
まるで、遊んでいるようだった。
『……何だ、これは』
龍の意識に、疑問が浮かんだ。
声に出したわけではない。
そもそも、この場所で声を出す必要などなかった。
ただ思考が生じ、それが龍自身の認識となった。
光はふたつとも小さい。
魔力の総量も、存在としての強さも、取るに足らない。
龍がわずかに意識を向けただけで、消えてしまいそうなほどだった。
だが、妙だった。
ふたつの光には、明確な境界があった。
一方が他方に侵食しているわけではない。
どちらかが相手を支配しているわけでもない。
性質は異なる。
それでも、互いを拒絶していなかった。
むしろ、相手がそこにいることを、ごく自然なものとして受け入れている。
龍は意識を集中させた。
ひとつひとつの明滅を追い、ふたつの光の間にある関係を観察する。
すると、片方の光が不意に止まった。
もう片方も止まる。
ふたつは、しばらくそのまま動かなかった。
やがて、同時に明滅する。
一度
―二度
――三度
それから、再び動き始めた。
『……会話でもしているつもりか?』
龍は、わずかに興味を覚えた。
もちろん、言葉を交わしているわけではないだろう。
少なくとも、龍の知る言語ではない。
だが、ふたつの光の明滅には、互いに応じ合うような規則性があった。
速い明滅に、ゆったりとした明滅が返る。
それに対して、また速い明滅が返る。
意味は分からない。
何を伝え合っているのかも分からない。
それでも、そこには何らかのやり取りが存在しているように見えた。
龍は長い時間を生きてきた。
数え切れないほどの生き物を見てきたし、様々な知性の形にも触れてきた。
しかし、このようなものを見た記憶はなかった。
いや。
そもそも、眠っている最中に夢を見ること自体が珍しかった。
龍の意識は、通常の生き物とは異なる。
眠りとは、単に身体を休めるためのものではない。大地と同化し、地脈の流れを受け入れ、外界の変化を必要な分だけ取り込むための状態でもある。
その過程で、何かを夢として認識することは、ほとんどなかった。
今の光景も、何らかの情報が偶然に形を取っただけかもしれない。
そう考えれば、それほど不思議なことでもない。
だが、龍は意識を閉じなかった。
もう少しだけ見てみよう。
それくらいの気持ちだった。
ふたつの光は、相変わらず動き回っている。
速い光が、もう一方の光に近づいた。
穏やかな光が、少しだけ離れる。
速い光が追いかける。
今度は、穏やかな光が待つように動きを止めた。
速い光が追いつくと、ふたつは並んで進み始めた。
その様子に、龍はかすかな違和感を覚えた。
一方が他方を引きずっているのではない。
片方が、もう片方に従っているわけでもない。
それぞれが自分の意思で動きながら、自然と同じ場所にいる。
ふたつであることを、どちらも不思議に思っていないようだった。
『妙なものだ』
龍はそう認識した。
それ以上の意味はない。
特別な予兆でも、何かを告げる啓示でもない。
ただ、見慣れないものが目の前にある。
だから、少しばかり興味を引かれた。
それだけだった。
しばらくすると、ふたつの光が再び離れた。
今度は、先ほどよりも距離が開く。
速い光は勢いよく進み、穏やかな光はゆっくりと後を追った。
やがて速い光が振り返るように明滅した。
穏やかな光が、それに応じる。
速い光は、再び進み始めた。
まるで、置いていくつもりなど最初からないかのように。
龍は、その様子を眺めていた。
そして、ふと思った。
このふたつは、いったいどこへ向かうのだろう。
答えはなかった。
光たちが何かを理解しているのかどうかも分からない。
ただ、ふたつは同じ方向へ進んでいく。
その先に何があるのか。
何を得るのか。
あるいは、何も得られないのか。
龍には分からなかった。
知る必要もなかった。
龍は、世界のあらゆる出来事に関わるつもりなどない。
興味を持ったものを眺めることと、実際に手を出すことは別だった。
眠りを妨げるほどの理由もない。
何かを変えなければならない事情もない。
だから、龍は何もしなかった。
ただ、ふたつの光を見ていた。
やがて光たちは、闇のさらに奥へと進んでいった。
その輪郭が、少しずつぼやけていく。
夢が終わろうとしているのか。
それとも、龍の意識が再び眠りへ沈もうとしているのか。
どちらでもよかった。
龍は最後に、ふたつの光が並んで明滅するのを見た。
速い光と、穏やかな光。
性質は違う。
それでも、どちらも同じように輝いていた。
『……覚えておくか』
龍は、そう思った。
何かの役に立つとは限らない。
次に目覚めたときには、忘れているかもしれない。
それでも、記憶に留めておく程度の価値はあった。
やがて意識が沈んでいく。
闇が戻る。
地脈の重みが戻る。
龍は再び深い眠りへと落ちていった。
その眠りの底に、ふたつの光の残像がわずかに残っている。
まだ名もない魂。
まだ身体もない存在。
互いに追いかけ、並び、また離れていく。
ただ、それだけの光景だった。
龍は眠る。
世界は、何事もなかったかのように動き続ける。
そして、遠いどこかで。
ふたつの魂は、まだ見ぬ世界へ向かっていた。




