第6話 「観察者のほころび」
二つの魂。
まだ肉体を持たず、現世に生まれる前から互いの存在を認識していた、二つの光。
その片方が、もう片方を自らの内へと迎え入れた。
消えゆく魂を、ただ消えゆくままにしなかった。
それは、龍にとって興味深い出来事だった。
二つの魂は一つの器に宿り、現世へと生まれた。
だが、器を得たからといって、魂のすべてが安定したわけではない。
肉体はまだ幼く、魂もまた、現世に根を下ろしたばかりだった。
そして何より、二つの魂のうち、片方はもう片方に取り込まれた状態にある。
共に在ることを選んだ魂。
その選択が、これから先も保たれるとは限らない。
龍は意識の底で、二つの光を思い返していた。
鋭く弾ける光と、柔らかく揺れる光。
その輝きは、以前よりもはっきりとした形を持ち始めていた。
だが、まだ不安定だった。
*
「……それで、今度は何を考えているんだい?」
不意に、声が響いた。
龍は目を開けなかった。
「何も」
「何も、ねえ」
声の主は、呆れたように言った。
「君が何も考えていないときに、そんなふうに黙り込むことはないと思うけどね」
「貴様は、余計なことばかりよく見ている」
「長い付き合いだからね」
山そのものに根を張る古き石。
それが、龍の古い友だった。
石は自ら魔素を蓄えることこそできないが、内部を流れる魔素を操り、遠くの情報を受け取ることができる。
龍が長い眠りについている間も、石は地脈を通じて世界の変化を感じ取っていた。
そして、龍が夢を見たときには、その夢の内容を聞くこともあった。
「二つの魂のことだろう?」
石が言った。
「……ああ」
龍は短く答えた。
「取り込むことで消滅を免れた魂。だが、今の状態が安定したとは言い難い」
「同じ身体に宿ったこと自体は、もう問題ではないんだね?」
「器は得た。だが、器を得ることと、現世に定着することは同じではない」
龍の声は淡々としていた。
「片方の魂は、もう片方の魂に取り込まれている。二つの境界は残っているが、現世における存在の基盤は、まだ一つの身体に依存している。今のままでは、何らかの要因で均衡が崩れたとき、取り込まれた側の魂が再び不安定になる可能性がある」
「つまり、弟の方が危ういということかい?」
「そう単純な話ではない。兄の魂もまた、弟を取り込んだことで影響を受けている。片方だけの問題ではない」
石はしばらく黙っていた。
「……それで、君は何をするつもりなんだい?」
「何もしない」
「本当に?」
「見るだけだ」
龍は即答した。
石は、わずかに笑うような気配を見せた。
「そうだったね。君は観察者だった」
「何か問題があるか」
「いや。君らしいと思っただけさ」
龍は返事をしなかった。
石も、それ以上は追及しなかった。
長い付き合いの中で、石は知っていた。
龍は、興味を持った対象に対して、容易には手を出さない。
知らないものを知ろうとすることと、対象に干渉することは、龍にとって別の行為だった。
自らの行動が観察対象の結果を変えてしまうのなら、それは観察ではなくなる。
龍は、その境界を明確に引いていた。
少なくとも、これまでは。
*
龍は、その後も二つの魂を見続けた。
人間の時間でいえば、わずか数か月のことだった。
だが、その間にも、二つの魂は少しずつ変化していた。
現世の肉体はまだ幼い。
自分の身体を自由に動かすこともできず、周囲の世界を十分に理解することもできない。
それでも、二つの魂は互いの存在を感じ取っていた。
片方が動けば、もう片方が応じる。
片方が強く反応すれば、もう片方もそれに合わせる。
その振る舞いは、出生前に龍が見たものと似ていた。
ただし、今は違う。
かつての二つは、まだ肉体を持たない魂だった。
今の二つには、身体がある。
感覚がある。
声がある。
そして、周囲の世界から受け取る情報がある。
その変化が、二つの魂にどのような影響を与えるのか。
龍は注意深く観察した。
ときには、夢の中に意識を伸ばすこともあった。
眠る幼子の意識は、まだ曖昧だった。
現実と夢の境界は薄く、形のない感覚が混ざり合っている。
その中に、龍の姿が現れることがあった。
巨大な影。
金色の眼。
人間の尺度では捉えきれない存在。
幼子たちは、その姿を見ていた。
恐れているのか。
興味を持っているのか。
あるいは、何も理解していないのか。
龍には、まだ判断できなかった。
言葉を交わすことはできない。
少なくとも、人間が考えるような会話は成立しなかった。
龍が何かを語りかけても、幼子たちから返ってくるのは、声にならない感覚や、曖昧な反応ばかりだった。
それでも、二つの魂が龍の存在に気づいているように感じられる瞬間があった。
片方が龍を見つめる。
もう片方も、その気配に引き寄せられるように動く。
まるで、二人で同じものを見ているかのように。
龍は、そのたびに意識を向けた。
しかし、何かを教えることはしなかった。
答えを与えることも、成長を促すこともない。
ただ、そこに現れ、二つの魂がどのように反応するのかを見ていた。
観察。
それが龍の目的だった。
*
「最近、よく夢に出ているようだね」
あるとき、石が言った。
「何の話だ」
「二つの魂さ。君が夢の中に姿を見せているんだろう?」
「意識の一部が触れているだけだ」
「へえ。姿まで見せているのに?」
「夢というものは、受け手の意識によって形を変える。私が何を見せているかは、あれらの認識にも左右される」
「なるほど。便利な言い方だね」
石の声には、明らかな笑いが含まれていた。
「何が言いたい」
「別に。ただ、君がそこまで気にかけるとは思わなかっただけさ」
「気にかけているわけではない」
「そうかい」
石は、あっさりと引き下がった。
だが、その反応がかえって龍を苛立たせた。
「貴様は、何か勘違いをしている」
「そうかもしれないね」
「……」
「でも、君が観察を続けていることは事実だろう?」
「当然だ。観察対象なのだからな」
「はいはい」
石は、それ以上何も言わなかった。
龍は再び意識を二つの魂へと向けた。
そこでは、相変わらず二つの存在が同じ身体の中にあった。
まだ幼く、弱い。
人間の身体は、龍から見ればあまりにも脆い。
その内部に宿る魂も、決して強固なものではなかった。
それでも、二つの魂は消えずに在り続けていた。
龍は、その事実を確認するように、しばらく見つめていた。
*
やがて、変化が訪れた。
戦いが起きたわけでもない。
魔力が暴走したわけでもない。
特別な儀式が行われたわけでもなかった。
ただ、人間の両親が、我が子の様子を見つめ、話し合った。
そして、一つの結論にたどり着いた。
自分たちの子供は、一人ではないのかもしれない。
その認識が生まれたとき、二つの魂を取り巻く状態に、小さな変化が生じた。
龍は、それを感じ取った。
現世に定着するための基盤。
それが、わずかに変化していた。
兄の魂に取り込まれていた弟の魂が、ただ兄の内に存在するだけではなく、両親によって一つの命として認識され始めたのだ。
まだ、二つの魂の仕組みを理解したわけではない。
いや、人間である両親には魂の仕組みなど、理解できるものではないだろう。
両親が知ったのは、夢の記憶と、目の前の子供の不可解な反応を結びつけた結果にすぎない。
それでも、その認識には意味があった。
人間の世界において、名前は単なる呼び名ではない。
誰かを誰かとして認め、その存在を他者との関係の中に位置づけるものでもある。
そして、両親はもう一人の子供に名前を与えようとしていた。
龍は、双子の夢を通してその変化を感じていた。
弟の魂を覆っていた不安定さが、少しずつ薄れていく。
兄の魂に取り込まれているという状態は変わらない。
二つの魂が別々の身体を得たわけでもない。
しかし、弟の魂は、両親に認識されることで、現世における存在の基盤を得始めていた。
このまま名前が与えられれば、弟の魂は現世に定着するだろう。
そうなれば、少なくとも、今のような形で消滅の危険に晒されることはなくなる。
龍は、その変化を見届けようとした。
*
「……決まったようだね」
石が言った。
龍は答えなかった。
人間の家の中で、母親が幼子に名を告げていた。
マルク。
そして、ゼルス。
二つの名が、静かな空間に響いた。
その瞬間、龍は確かに感じ取った。
弟の魂が、現世に定着した。
不安定だった存在の輪郭が、ゆっくりと形を整えていく。
兄の魂の内にあることは変わらない。
それでも、弟は弟として認識された。
両親によって。
家族によって。
この世界に生きる者たちの関係の中で。
ゼルスという名を得た魂は、もう単に消えかけた魂ではなかった。
現世に生きる、一つの命として認められたのだ。
その変化を感じたとき、龍の意識に、わずかな揺らぎが生じた。
安堵。
そう呼ぶべき感情だったのかもしれない。
弟の魂が消滅する危険性は、ひとまず去った。
二つの魂は、これから成長していくことができる。
どのような変化を見せるのか。
どのような関係を築くのか。
それを、これからも観察することができる。
龍は、そのことを喜んでいた。
ほんのわずかに。
自分でも気づかないほど、無意識のうちに。
「……ふうん」
石の声がした。
龍は、そこでようやく自分の意識が揺らいだことに気づいた。
「何だ」
「いや。よかったね」
「何がだ」
「弟の魂が、無事に現世へ定着したんだろう?」
「……そうだ」
「消滅の危険性も、ひとまずなくなった」
「そのとおりだ」
「それで、君は安心した」
「安心などしていない」
龍は即座に否定した。
だが、石は楽しそうに笑った。
「そうかい? 僕には、少し嬉しそうに見えたけどね」
「気のせいだ」
「へえ」
「私は、観察対象の状態が変化したことを確認しただけだ」
「なるほど。状態の変化を確認しただけ、か」
石は、しばらく黙った。
そして、堪えきれなくなったように、笑い声を漏らした。
「……いやあ、参ったね。君も、ずいぶん変わったものだ」
「何が言いたい」
「だって、そうだろう? 君は、二つの魂がどうなるのかを知りたくて観察していた。ところが今は、弟の魂が消えずに済んだことを喜んでいる」
「喜んでなどいない」
「そうかい?」
「そうだ」
龍の声が、少し低くなった。
石は、そんな龍の反応を面白がるように言った。
「もはや観察ではないね」
沈黙が落ちた。
龍は、しばらく何も答えなかった。
やがて、低く、憮然とした声で言った。
「……貴様は、余計なことを言う」
龍は不機嫌そうに意識を逸らした。
だが、逸らした先にあるのは、結局、二つの魂だった。
マルクと、ゼルス。
一つの身体に宿りながら、二つの存在として生きていくことになった魂。
その行く末を見届けること。
それが自分の目的であることに、変わりはない。
ただ、その目的の中に、先ほどまでとは違うものが混じり始めている。
龍は、その事実を認めなかった。
認める必要もないと考えた。
観察は続く。
それだけだ。
山の奥底で、龍は再び意識を沈めた。
マルク。
ゼルス。
その意識の底には、二つの名が残っていた。




