第7話 「二つの気質」
マルクが生まれてから、数か月が過ぎた。
季節は穏やかに移り変わり、ガルド村の暮らしにも、少しずつ新しい日常が根づいていた。
カレスは以前と変わらず、薬草を採取したり、魔獣の素材を得たりする仕事をこなしていた。ユラも身体の調子を確かめながら、家事や近所の手伝いを再開している。
そして、二人の生活の中心には、いつも小さな息子がいた。
マルクは、よく動く子供だった。
まだ自分の身体を思いどおりに動かすこともできない。それでも、目の前で何かが動けば視線を向け、気になるものがあれば手足をばたつかせる。ユラが近くを通るだけでも、声を上げて喜ぶことがあった。
とりわけ、窓から差し込む光や、風に揺れる布が好きだった。
ある日の昼下がり。
ユラは家の中で、洗い終えた布を畳んでいた。
開け放った窓から、春の終わりの風が入り込んでくる。窓辺に吊るしてあった薄い布が、風に押されてふわりと膨らんだ。
その瞬間、寝床に横たわっていたマルクが、声を上げた。
「あぅっ、あー!」
両手を持ち上げ、足をばたつかせる。
布が揺れるたびに、マルクの視線も忙しく動いた。風が止んで布が垂れ下がると、途端に動きが鈍くなる。しかし、再び風が吹けば、待っていたかのように手足を動かした。
「ふふっ。そんなに面白いの?」
ユラが笑いながら声を掛ける。
もちろん、返事はない。
マルクは母親の言葉を理解して答えているわけではなかった。ただ、ユラの声が聞こえると顔を向け、口元を緩める。ユラが近づけば、さらに嬉しそうに声を上げた。
「はいはい。もう少し近くで見せてあげるわね」
ユラは寝床を窓から少し離し、風で揺れる布が見えやすい位置に移した。
マルクは、再び布に夢中になった。
その様子を眺めながら、ユラは小さく息を吐いた。
元気であることは、何よりも嬉しい。
けれど、この子には、時折不思議なところがある。
以前、同じように布を揺らして見せたときには、目を輝かせて手足を動かしていた。それなのに、ある瞬間から急に動きを止め、まるで別のものを見るかのように、じっと布を見つめていたことがあった。
泣いていた最中に、突然泣きやむこともある。
それ自体は、乳児なら珍しいことではないのかもしれない。
しかし、ユラには分かった。
そうした変化の中には、単に機嫌が変わっただけでは説明できないものがある。
マルクの身体に、もう一人の気配が表れている。
そう感じる瞬間が、確かにあった。
ユラは寝床のそばに腰を下ろし、息子の小さな手を握った。
「あなたたちは、今、何を見ているのかしらね」
その問いに答える声はない。
けれど、ユラは寂しさを覚えなかった。
自分の知らない何かが、この子の中にある。
それでも、この子が自分の息子であることに変わりはなかった。
◇
同じ日の夕方、カレスが仕事から帰ってきた。
「ただいま。今日はどうだった?」
「いつもどおりよ。元気いっぱい」
ユラが笑って答えると、カレスは寝床にいる息子を覗き込んだ。
「そうか。それなら何よりだ」
彼は手を洗い、身支度を整えてから、マルクを抱き上げた。
「おう、マルク。父さんが帰ってきたぞ」
マルクは、カレスの顔を見上げた。
しばらくすると、口を大きく開き、声を上げる。
「うーっ、あぅ!」
「おお、今日も元気だな」
カレスは嬉しそうに笑った。
マルクは、父親の顔を見たり、肩越しに部屋の様子を眺めたりと、落ち着きなく視線を動かしている。
そのとき、カレスが指を一本、マルクの目の前に差し出した。
「ほら、これは何だ?」
マルクは指を見つめた。
次の瞬間、小さな手を伸ばし、指を握ろうとする。
うまくつかめず、手が空を切った。
それでも諦めず、何度も手を伸ばす。
「ははっ。まだ難しいか」
カレスは指を少し近づけた。
今度は、マルクの小さな手が父親の指をつかんだ。
マルクは満足したように声を上げる。
「よしよし。できたな」
カレスが褒めると、マルクはさらに手を動かした。
その様子を見ていたユラが、ふと口を開いた。
「ねえ、カレス。少し前に、この子の様子が急に変わったことがあったでしょう?」
「ああ。あったな」
「私、あのときも思ったの。今、表に出ているのは、マルクなのかしらって」
カレスは、腕の中の息子を見つめた。
「……今も、そう思うか?」
「ええ」
ユラは静かに頷いた。
「今はマルクね。何となくだけれど、分かるの」
カレスは、すぐには答えなかった。
彼もまた、同じように感じていたからだ。
目の前にいるのは、間違いなく一人の赤ん坊だった。
身体も一つ。声も一つ。泣くときも笑うときも、外から見れば一人の子供にすぎない。
それでも、反応には違いがある。
マルクは、興味を持ったものにすぐ反応する。気になるものがあれば手を伸ばし、うまくいかなくても繰り返す。
もう一人は、同じものを見ても、すぐには動かないことが多かった。
まるで、まず確かめようとしているかのように。
「俺にも、少しずつ分かるようになってきた」
カレスはそう言って、マルクの頬を指先でそっと撫でた。
「ただ、どうして違いがあるのかまでは分からないがな」
「そうね」
ユラは、カレスの腕の中にいる息子を見つめた。
「でも、二人とも元気でいてくれる。それが一番よ」
カレスは頷いた。
その言葉に、異論はなかった。
◇
マルクの中では、もう一つの意識が、兄の経験を共に感じていた。
風に揺れる布。
母親の声。
父親の大きな手。
抱き上げられたときの温もり。
それらは、マルクだけのものではない。
ゼルスもまた、それらを感じていた。
ただし、同じものを感じていても、反応の仕方は同じではなかった。
マルクは、目の前で何かが動けば、すぐに意識を向ける。面白いと思えば身体を動かし、もっと近くで見たいと思えば手を伸ばす。
一方のゼルスは、目の前のものだけでなく、その周囲にも意識を向けていた。
布が揺れる。
風が吹く。
風が止まる。
布が元の位置へ戻る。
同じ動きが繰り返されることに、ゼルスは静かに注意を向けていた。
けれど、今の身体では、その違いを言葉にすることはできない。
そもそも、二人にとって、言葉を使って互いの考えを伝える必要はなかった。
相手が何を見ているのか。
何に興味を持ったのか。
何を心地よいと感じ、何を不快に思ったのか。
それらは、言葉を交わさなくても伝わってくる。
マルクが面白いものを見つければ、ゼルスにもその面白さが伝わる。
ゼルスが周囲の変化に注意を向ければ、マルクもまた、その視点を感じ取る。
まったく同じ考えになるわけではない。
けれど、違う考えを持つことが、二人の間に不和を生むこともなかった。
むしろ、マルクが気づかなかったことをゼルスが感じ取り、ゼルスが意識を向けていなかったものにマルクが興味を示す。
二人は、それぞれの見方を通じて、同じ世界を経験していた。
生まれる前、まだ光だった頃から、二人は互いの存在を知っている。
あの頃に比べれば、今は多くのものが違っていた。
光だけだった身体には、温度がある。
周囲には音があり、匂いがあり、触れれば分かるものがある。
そして、自分たちを抱き上げ、声を掛け、笑いかけてくれる二人の人間がいる。
マルクもゼルスも、その存在を好ましく感じていた。
母親の腕に抱かれると、身体が温かくなる。
父親の声が聞こえると、何となく嬉しくなる。
まだ、それを説明する言葉はない。
けれど、二人にとって、それは十分なものだった。
◇
数日後。
カレスは、庭先で使う道具の手入れをしていた。
ユラは家の中で洗濯物を畳み、マルクは窓辺から少し離れた寝床に横たわっていた。
部屋には、穏やかな時間が流れている。
ユラが布を畳む音。
外から聞こえる鳥の声。
時折、庭先から届くカレスの鼻歌。
マルクは、天井を見つめていた。
特に何かを求めている様子はない。
手足も、先ほどまでのようには動かしていなかった。
ユラは、それに気づいて顔を向けた。
「マルク?」
呼びかけても、すぐには反応しない。
マルクの視線は、天井の一点に留まっていた。
その瞳は、先ほどまでとは違う落ち着きを帯びている。
ユラは、手にしていた布を置いた。
「……ゼルス?」
小さく名前を呼ぶ。
すると、赤ん坊の視線がゆっくりと動いた。
ユラの顔を捉え、そのままじっと見つめる。
泣くでもなく、手足をばたつかせるでもない。
ただ、母親の顔を確かめるように見つめていた。
ユラは、その様子を見て微笑んだ。
「こんにちは、ゼルス」
返事はない。
それでも、ユラは気にしなかった。
この子がまだ言葉を話せないことなど、当然分かっている。
彼女が見ているのは、声の有無ではなかった。
視線の向け方。
反応の仕方。
そして、普段から接しているからこそ感じ取れる、ほんのわずかな違い。
ユラは、ゼルスが表に出ているのだと判断した。
「今日は、ずいぶん静かなのね」
そう言って、そっと頬を撫でる。
ゼルスは、母親の指を見つめた。
やがて、小さな手を持ち上げる。
指先が触れる。
ユラがその手を包むと、ゼルスはしばらく動かなかった。
それから、ゆっくりと手を握った。
「ふふっ」
ユラは笑った。
「あなたも、こうするのが好きなのね」
そのとき、庭先からカレスが顔を覗かせた。
「どうした?」
「今はゼルスみたい」
ユラが答えると、カレスは手を拭きながら近づいてきた。
「そうか」
彼は寝床のそばに腰を下ろし、赤ん坊の顔を見た。
「ゼルス。父さんだぞ」
ゼルスは、カレスへ視線を向けた。
カレスが手を差し出すと、ゼルスはすぐにはつかもうとしなかった。
父親の指を見つめ、手の位置を確かめるようにしてから、ゆっくりと手を伸ばす。
小さな指が、カレスの指に触れた。
「おや。今日は慎重だな」
カレスが笑う。
ユラも頷いた。
「マルクなら、もっと勢いよく手を伸ばすものね」
「確かに」
二人は顔を見合わせた。
その違いは、他人に説明できるほど明確なものではない。
別の人間が見れば、赤ん坊の機嫌や、そのときの気分の違いだと思うかもしれない。
けれど、両親には分かる。
何度も抱き、何度も声を掛け、毎日の変化を見つめてきたからこそ、分かることがある。
カレスは、ゼルスの小さな手をそっと握り返した。
「ゆっくりでいいぞ。急がなくても、ちゃんと待っているからな」
その言葉に、ゼルスは声を上げなかった。
ただ、父親の指を握ったまま、静かに見つめていた。
その様子を感じながら、マルクもまた、ゼルスの意識が表に出ていることを理解していた。
マルクは不満を抱いていなかった。
ゼルスが父親の手を握っていることも、母親に頬を撫でられていることも、どちらも自分たちにとって嬉しいことだった。
自分が表に出ているときには、自分が感じる。
ゼルスが表に出ているときには、ゼルスが感じる。
けれど、その経験は、二人を隔てるものではない。
片方だけのものにはならない。
二人は、それを当然のこととして受け止めていた。
◇
夕食の支度を終えたユラは、カレスと向かい合って座っていた。
マルクは、寝床で眠っている。
今日も大きな問題はなかった。
泣くこともあれば、笑うこともある。時には、理由が分からず機嫌を損ねることもある。
それでも、少しずつ成長している。
身体つきも、以前よりしっかりしてきた。
目で物を追うことも増え、周囲への反応も豊かになっている。
ただ、ユラには気がかりなことが一つあった。
「ねえ、カレス」
「ん?」
「この子たちのこと、いつか村の人たちにも話すべきなのかしら」
カレスの手が止まった。
何について話すのか、尋ねる必要はなかった。
二人の息子が、一つの身体の中に二つの意識を持っているということ。
それを、どこまで他人に明かすべきなのか。
ユラが悩んでいるのは、そのことだった。
「……今すぐ話す必要はないだろう」
カレスは、しばらく考えてから答えた。
「この子たちは、まだ生まれて数か月だ。何が普通で、何が普通ではないのか、俺たちにだって分からないことが多い」
「そうね」
「それに、俺たちが二人だと分かっているなら、今はそれでいいんじゃないか」
ユラは、静かに頷いた。
カレスの言葉は、彼女が考えていたことと同じだった。
二人の息子は、確かに普通とは違う。
しかし、違うことと、悪いことは同じではない。
少なくとも、今の二人は元気に育っている。
互いの存在を拒絶している様子もない。
むしろ、二人は自然に一緒にいる。
マルクが笑えば、ゼルスもその楽しさを感じている。
ゼルスが静かに周囲を見つめているとき、マルクもまた、その視点を共有している。
そこに、争いはない。
どちらかが相手を押しのけようとする様子もない。
「私たちが、ちゃんと二人を見ていてあげましょう」
ユラが言った。
「ああ。それが一番だ」
カレスは頷いた。
二人は、寝床に眠る息子を見つめた。
今はまだ、何も分からないことが多い。
この先、どのように成長するのか。
二人の違いが、どのような形で表れてくるのか。
それを知るには、時間が必要だった。
けれど、一つだけ確かなことがある。
マルクも、ゼルスも、二人にとって大切な息子だということだ。
どちらか一方だけを選ぶことなど、考えられない。
カレスは、眠っている赤ん坊の頭をそっと撫でた。
「ゆっくり大きくなれよ」
ユラも微笑みながら、その小さな手に触れた。
「二人ともね」
その声が届いているのかどうか、外からは分からない。
けれど、二つの意識は、その温もりを感じていた。
まだ言葉はない。
自分たちの気持ちを、声にして伝えることもできない。
それでも、二人は知っている。
自分たちは一緒にいる。
そして、この家には、自分たちを大切にしてくれる人たちがいる。
それだけで、今は十分だった。




