9話 結局乳なのかよ
翌日。堂の中の空気がわずかに止まっていた。
天望が顔を上げ、炎獄が面倒そうに目だけを向ける。
炎獄と天望がまさにこの亡者をどうするか会議していた最中、まさしく当人がやってきたのだから。
「転生のご相談を、お願いできますか」
その一言とともに、東雲は静かに堂の中へ足を踏み入れた。
ほんの少し困ったように眉を下げた顔は、昨日信者に見せていた自信満々の表情とはまた違う印象だった。
「は、はい、今」
天望が片手でファイルを取り立ちあがろうとする。
だが、東雲は天望など目に入っていないかのごとく、迷いなく真っ直ぐ進んだ。
「ご相談、いいですか」
東雲が炎獄の前に立つ。座る炎獄を見下ろして、にっこり微笑んだ。
「おう。天望、茶淹れてくれるか」
「……はい」
天望がファイルを炎獄に手渡し、湯を沸かすため二人に背を向けた。
天望は、なんとも言えない気持ち悪さを感じていた。無視されたから不快だとかそういう類ではなく、もっと這いずるようなモヤつき。
茶筒から粉末緑茶を湯呑みに入れながら、首だけで振り返る。炎獄の前に座った東雲を見て、天望の顎が落ちた。
(こ、こいつ……!! 机に乳乗せてやがる……!!)
それは天望には物理的に出来ない芸当だった。乗るものが無い。いやそれは別に良い、駄目とは言っていない。
肩が凝るとか乗せたら楽とか理屈はわかる。わかるが、それをわざわざ炎獄目掛けてやっているのだから、やらしいに決まっている。
「で、転生する気になったの、お前」
「お話を聞かずに判断するのは、個の選択をする上で早計かと思いまして」
東雲がほんの少し屈む。布がたわみ、緩く胸元が覗いた。
湯が沸く音がして、天望は慌ててやかんを手に取る。湯呑みまでが遠い。ばちゃちゃちゃちゃちゃとお湯が跳ねる音が堂の中に響いた。
天望がふと立ったまま自分の足元を見る。つま先が見えた。天望は口を噤んだ。何かを言えば負ける気がしたし、かといって黙っていても負けている気がしていた。
「鬼さん、あなたのお名前を聞いておりませんでした」
「あ? 炎獄でいいよ」
「まあ、あなたという個を表す素敵なお名前。炎獄さん、少々お話しませんか? 二人で」
東雲が天望に視線を向ける。炎獄はそれに気付いて、小さく息を吐いてから立ち上がった。
「天望、悪い、ちょっと出るわ」
「は!?」
「すみません、お茶、お心だけいただいておきます」
「ちょ、炎獄」
「すぐ戻る」
炎獄は天望の方を見もしなかった。机の脇を抜け、そのまま観音開きの扉へ向かう。
東雲はその背を見て、口元だけで小さく笑うと、天望へにこりと会釈して後を追った。
観音開きの扉が閉まり、堂の中には湯呑み2つ手にした天望と、安っぽいお茶の香りだけが残る。
「……いや……あんな見え透いた……」
まさか炎獄に限って、と天望は思う。思うのに、さっき何の躊躇いもなく席を立った背中が妙に引っかかった。
天望から見た炎獄は、こんな甘ったるい手には乗らなそうに見える。だが、本当のところなんて何も知らない。
天望はその場に立ち尽くしたまま、湯呑みのお茶をぐっと飲み干した。
東雲と炎獄が人の気配が遠のいた場所まで来ると、東雲は立ち止まり、ゆっくりと炎獄の方を振り返る。
昨日見せた教祖めいた表情より、もっと違う形の笑みだった。
「窮屈でしょう、と、昨日あなたに言いましたね」
東雲が炎獄に寄る。炎獄は立ち止まったまま、片足に体重を掛けた。
「ああ、なんか言ってたな」
「鬼としてより先に、あなたはもっと根本的な存在であるはずだと思うのです」
東雲と炎獄の距離が数センチにまで迫る。普通の男なら、この距離まで寄れば、もう少し露骨に目の置き場に困る。あるいは気取って余裕ぶる。けれど炎獄は違った。ただ黙って見ている。
東雲の指先が、炎獄の袖口に触れそうなところで止まる。触れていないのに、その寸前の距離だけでやけに生々しい。
「煩悩も、欲望も……全てあなたのもの」
炎獄の目が、そこでほんの少しだけ細くなる。
その変化を、東雲は見逃さなかった。今度は本当に袖口へ触れる。布越しに、鬼の腕の熱がわかる。思ったより硬い。
掴んだわけでもないのに、その熱だけで充分だった。
「……何が言いてえの」
低い声だった。だが鬱陶しそうに払う時の調子ではない。続きを促すような、湿った低さ。
東雲の口元が、ゆっくりと弧を描く。
「仕事や立場、役割を捨てて、自分に正直になられた時……あなたの本当の望みが見えてくるのです」
東雲は、炎獄の顔を見上げる。近い。角の影が額へ落ちて、牙の白さが薄く覗く。
「そして、その全てを、私は受け入れましょう」
救いの言葉のような響きだった。だが同時に、共犯を持ち掛けるような苦さも含んでいる。
「何もかも」
炎獄は、ようやく少しだけ身じろいだ。炎獄の視線が、東雲の口元へ落ちる。
「……へえ」
短い相槌。東雲を笑うものではなかった。
低く、鈍く、続きを聞く気のある響きだった。
東雲は、唇の端をわずかに持ち上げた。そら見たことか、と。
男はわかりやすい。どれだけ真っ当そうな顔をしていても、こうして隙間へ指を差し込めば揺れる。
東雲はさらに半歩だけ距離を詰める。
靄の中で影がひとつに重なりかけていた。
*
炎獄が堂へ戻ってきた時、天望は机に広げた書類へ視線を落としたまま、顔だけを上げた。
何でもないふりをしていたが、指先はさっきから同じ頁の端を擦っている。
「……早かったですね?」
恐る恐る投げた声に、炎獄は扉を閉めながら肩を竦めた。
顔色は変わらない。乱れた様子もない。ただ、いつも通り不機嫌そうな鬼の顔だった。
「ちょっと話聞いただけだからな」
天望の眉がぴくりと動く。
聞いただけ。
聞いただけ、という響きが妙に引っかかった。
「話聞いただけ。へえ、あ、そう」
棘が混じったのは自覚していた。だが今さら引っ込めるのも癪だった。
炎獄はその声音に気づいたのか気づいていないのか、机の端に腰を預ける。
「ま、夜もっかい会うけど」
「ダァッ!?!?!?!?」
天望の肩が跳ねた。
頭の中で何かがひっくり返るみたいに音を立てる。
「んだよ」
炎獄は露骨に顔をしかめた。
天望は自分でも何を発したのかわからないまま、胸元を押さえる。
「いや、そんな、デェ!?」
「何の動揺だよそれ」
本気で意味がわからないと言いたげな顔だった。何なら天望も、何に動揺してるのかもあまり分かっていない。
「へ、えー。炎獄って、へー。あ、そう、なんですね、ふーん。乳派ですか、へー」
「別に……まあ、でけえ方がいいけど」
「あ、へーーえ。そう。ふーーん」
心臓が謎に早く打つ。天望は無意識に深呼吸をして、両手を開いたり閉じたりしながら炎獄に尋ねた。
「…………あの、一応ね? 一応聞きますけど……あんな、こう、わっかりやすいの、乗りません……よね?」
天望は言いながら視線を逸らす。別に止めたいわけではない。止める筋合いもない。ないはずなのに、言わずにはいられなかった。
炎獄は軽く瞬きした後、ほとんど口を動かさずに答える。
「なんで?」
「え?」
あまりにも素で返されて、天望は逆に固まった。
炎獄はなんでもないような様子で、懐からタバコを取り出して火をつける。
「俺が相手して、満足して輪廻乗るなら良いんじゃねえの」
堂の中がしんとした。
天望の顔から、一瞬で色が引く。冗談を言っている顔ではない。だからこそ、余計に笑えなかった。
「……マジで言ってんですか、それ」
「ま、やり方のひとつだろ。あ、お前は真似すんなよ。流石に」
天望はしばらく何も言えなかった。
胸の奥にあったざらつきが、一気に冷たい形を持った気がした。
「炎獄」
「んだよ」
炎獄はタバコを咥えたまま、天望を見なかった。
天望が腿の横で拳を握る。
「最低です。あなたはそういう手段を取らないと思ってました」
声は大きくなかった。
けれど、だからこそ本気で失望しているのがはっきり伝わる声音。
「お前は俺を何だと思ってんだよ。鬼だぞ」
炎獄の返事も低い。開き直りとも自嘲ともつかない声音だった。
天望の唇がきゅっと引き結ばれた。
「……そうですね。そうでした。あなたがそう言うならあの人は任せます。私は別の魂を輪廻転生させるので」
天望はそう言い切ると、机の上の書類を乱暴すぎない程度にまとめた。
炎獄に勝手に期待して、勝手に裏切られたような気分になっているなんて、天望自身も認めたくなかった。
「失礼します」
それだけ残して、天望は書類を抱えて外へ出る。
炎獄はその背中を見送ったまま、しばらく動かなかった。
煙草の先が赤く光って、灰が落ちそうな程伸びた。
「……別に、大したことじゃねえだろ……」
その呟きは、誰も聞いていなかった。




