10話 夜の中陰
夜の中陰は、昼より少しだけ輪郭が曖昧だった。
炎獄は観音開きの扉を後ろ手に閉め施錠した後、煙草を咥えて火をつけかけて、やめた。すぐにそこに人影を見つけたからだ。
東雲だった。昼間の法衣まがいの服ではなく、ありふれた現世の女のような格好に着替えている。
肩の力の抜けた薄手の上着に、膝下までの細いスカート。髪も結い直し、教祖然とした作りものめいた雰囲気が薄れ、そのぶん生身の女としての輪郭が前に出ていた。
炎獄は立ち止まり、東雲を上から下まで一度だけ見た。
「……そっちのが良いんじゃねえの」
東雲の口元が、ふっと緩む。
「あら、お好きですか」
「いや、こだわりねえけど」
あまりにも気のない返しだった。けれど東雲は、それで怯む女ではない。
「好みはあるでしょう? 欲は誰しも等しくあるものですよ」
「……ま、そらな。極楽より地獄がいいって奴もいたし」
「素晴らしい。非常に個ですね」
東雲は嬉しそうに目を細めた。
炎獄は鼻で笑って、堂の脇の細い道へ顎をしゃくる。立ち話をするには、少しだけ近すぎる場所だった。
その少し離れたところ。物陰に身を潜めた天望が、二人から一定の距離を保って尾行していた。半身だけ出して炎獄と東雲を確認しながらどこから持ってきたのかオペラグラスで覗き見している。
(おいおいおいおい、マジで会ってるじゃないですか)
ついてきてしまった、とは思っている。だが引き返す気にはなれなかった。別に見張る義務があるわけではない。ただ、気になっただけだ。気になっただけ。そう自分に言い聞かせながら、天望は壁沿いにそろそろと移動する。
(あの鬼、あんな“女? 興味ねえな”みたいな顔しといて……)
天望が奥歯を噛み締めている間に、東雲は炎獄のすぐ前まで寄っていた。
付かず離れず。ただ、手を伸ばせば触れられる距離。
「個である事は立派な事です」
東雲がゆっくりと言う。
「全てに正直に、心のままに、何をしても構いませんよ。段取り等気にせずとも――」
炎獄がそこで口を挟んだ。
「じゃあ、お前が先に脱げよ」
天望の頭の中で、何かが派手な音を立ててひっくり返った。
(はぁーーーーーーーー?????????? マジでさぁーーーーーーーーッッッ)
東雲も一瞬だけ目を見開いた。だが次の瞬間には、唇の端を持ち上げている。
「……ここで? あなたもなかなか……お好きですね」
「あぁ、悪い。そうじゃねえ」
「はい?」
東雲の笑みが、その一語でわずかに止まる。
炎獄がただ東雲を見下ろした。
「お前、その教祖って上っ面脱いで喋れ」
東雲の頬が一度ぴくりと動く。笑みを崩さないまま、炎獄の表情を伺っていた。
「……はい?」
「俺と会ってんのも、教祖としてその方が都合良いって思ったからで、別に俺に興味あるわけじゃねえだろ」
東雲の喉が、わずかに動いた。
炎獄は自分でも、何でこんな面倒なことを言っているのかわからなかった。
別に、損する事もないのだからサクッとやる事やりゃいい。そういう手段があるのも、そういう手段を取るのが早いのも炎獄は知っている。少なくとも、以前の炎獄ならきっとそうしていた。
なのに、口から出たのは別の言葉だった。
「俺にどうこう言う前に、お前が先に舞台から降りろ」
東雲は首を傾けた。いつもの芝居がかった仕草のはずなのに、その時だけは少しだけ遅れた。
「あなたがそれを求めるのも、全てあなたが仕事の役割を果たそうと」
「ごたごたうるせえな。それやめろっつってんだよ」
東雲がしばらく炎獄の顔を見る。やがて、ふっと短く息を吐いた。
「今の私は全てのしがらみから解き放たれた、紛れもない個なのです。これ以上脱ぐものなど、ありません」
「……そうかよ」
「ですが」
東雲の指先が炎獄の羽織の前をつまみ、皺を伸ばすみたいに軽く引いた。
「あなたがまだ、脱がせられると仰るなら」
引き寄せるほどではないのに、呼吸が触れそうなところまで近づく。
あと数センチ、ほんの少し踵を上げれば影の重なる位置――
「炎獄!!」
しまった、と思った時にはもう遅い。天望の姿はとっくに物陰からはみ出していて、引っ込むには声まで出すぎていた。
「……天望?」
炎獄は一拍遅れて天望を認識した。羽織を掴まれたままの姿勢で、あまりにも普通に名前を呼ぶものだから、余計に間が悪かった。
「偶然ですねこんなところで!!」
いくらなんでも無理があった。オペラグラスを握った天女が、堂々と偶然を主張している。周りにろくな店があるわけでもないただの路地裏とも言える場所に、何の偶然があるのか。
天望が自分の手元と炎獄達を何度か目線を往復させて、まっすぐ言った。
「散歩をしてたんです」
「オペラグラス持って?」
「視力補助です」
「普段眼鏡もかけてねえのに?」
東雲が炎獄の羽織から指を離し、髪を耳に掛けながら踵の向きを変えた。
「それで、何かご用でしたか?」
東雲のまなざしが、柔らかい布のように天望へかかる。けれど、その内側には針があった。
天望が答えられずに詰まると、東雲は勝ち誇ったように口角を上げる。
「ご用がないのであれば、私達はこれで」
東雲が軽く頭を下げようとした所に、天望が口を開いた。
「炎獄、昼も言いましたけど……やっぱり嫌です、そのやり方」
炎獄は東雲を見ていたはずなのに、反射的に天望の方へ顔を向けた。睨むでもなく、ただ不意を突かれた顔だった。
東雲のまぶたが、ほんの少しだけ重く落ちる。
「天望さんも、彼を縛るのですね」
東雲の声は穏やかだった。けれど、そこに慰める響きはない。
天望が一瞬だけ黙る。反論ならいくらでもできるはずだった。仕事だから、相棒だから、転生課だから。
けれど、どれも少しずつ違う気がした。
「……確かに、あなたの言う、役割の押し付けかもしれませんが」
天望が握る手に力を込める。
「炎獄は、口悪いし態度悪いし、ムカつくけど」
炎獄の肩が少し落ちる。何だお前とでも言いたげな顔をしていた。
天望は一度だけ息を吸う。自分の中で散らばっていた言葉を、どうにかひとつの道筋へ並べ直すような間。
「不器用で、真面目なのも知ってるので……今、東雲さんにそういう手段を取るような鬼になって欲しくないんです」
炎獄の喉が小さく詰まる。
天望の言葉がまっすぐすぎて、返す言葉を一瞬見失った顔だった。
東雲は唇だけを結び直す。
「本人が望む道を受け入れる。それが愛ではないですか」
天望は逃げなかった。
「道を誤ったら導き正す。それが慈悲です」
天望は胸の前で指を組みかけて、やめた。
仏の教えの言葉を借りるより、自分の言葉を選ぶために。
「愛よりも深い慈悲で導く。それが、私のなりたい菩薩です」
一語ずつ置くたび、天望自身もその意味を確かめているようだった。
「炎獄、帰りましょう。この人を輪廻転生させる他の方法考えましょう」
炎獄は盛大にため息をついた。けれど、そのため息の最後だけ、少し笑い損ねたみたいに揺れた。
「悪い、そういうことだから」
炎獄がそう言うと東雲は軽く顎を引いた。先ほどまでの女の温度が引き、代わりに教祖の静けさが戻る。
「……あなたという個の選択を、尊重しましょう」
東雲はそれだけ言って、二人に背を向けた。 表情を見せずに済む角度になってから、ようやく歩き出す。
東雲の靴音が、白い道の上に小さく落ちて、夜の中へ消えていった。
東雲の姿が見えなくなって、天望と炎獄はしばらく黙る。
数分沈黙してから、炎獄は天望を横目で見た。同時に天望も炎獄を見たようで、目線がちょうどぶつかる。
「……あの」
「……何だよ」
「すみません、勝手な事言って」
炎獄の手が、無意識に角の付け根へ上がる。苛立った時の癖だが、今は誤魔化すための動きに近かった。
「いや、全然。思ったより引かなくて俺も困ったし……助かった」
天望はきょとんと炎獄を見上げた。怒る準備も、謝る準備も、全部いったん行き場を失っていた。
「困ってたんですか? 昼間あんな事言っといて?」
「…………まあな」
「……可愛いとこありますね」
「うるせえ」
炎獄は不機嫌そうに目を逸らした。
それは、少し照れた顔を隠した、という方が正しかった。




