8話 都合の良い信仰
信仰。あの世において、それは何よりも厄介だった。
都合が良い。それに尽きる。
肯定は麻薬に似ていた。苦しみの根本を取り除かない。決定の責任を委ねることで思考を停止させる。
それをこの女は、あまりにも手慣れた仕草で配っていた。
「教祖様、こいつら、個在教の教義が本物だから焦ってるんですよ」
「つまり、教祖様が正しい事の証明なんじゃないですか」
取り巻きの魂が口々に女を庇う。ひとたび縋る先が出来れば、魂は簡単に足を止めてしまうのだ。
それが仏でも神でもなく、たまたまそこに居た誰かの言葉だったとしても。
「皆様、この方々も、かつてのあなた方と同じ。役割に囚われ、個としての本分をお忘れなのです」
女は菱形を作った指先をするりとほどいた。
それから、周囲の亡者たちへゆっくりと告げる。
「では、今日はここまでにいたしましょう」
ざわ、と空気が揺れる。
亡者たちは戸惑った顔で女を見た。まだ話を聞きたそうな者も、縋るように口を開きかける者もいた。
だが女は、相変わらず柔らかい笑みのまま片手を上げる。
「大丈夫。答えはもう、皆さんの中にあります」
その言い方は、解散を促すというより、もう十分与えたと告げる響きだった。
亡者たちは顔を見合わせ、それでも逆らわなかった。教祖の言葉を待つことに慣れた者たちの動きで、少しずつ人垣がほどけていく。
「教祖様」
「ご安心ください」
女は信者のひとりに微笑みかける。両腕を広げると、ゆるく垂れた衣が舞台の幕みたいに左右へ開いた。
「個は、奪われません。たとえ鬼が来ようと、仏が来ようと」
その一言で、亡者たちはようやく引き下がった。
名残惜しそうに何度も振り返りながらも、道の脇へ散っていく。それでも遠くから、まだ教祖の姿を見ているようだった。
その様子に女は満足そうにしながら、法衣まがいの布を揺らし歩いた。
歩きながら、天望が手元の未転生者リストを開く。
「東雲唯、享年32」
女が足を止める。そこでようやく、炎獄と天望だけを見た。
「アルバイトで働きながら、小劇場で舞台公演などに出演する女優。実家暮らし。飲酒運転の車に撥ねられ、こちらに」
天望がリストの情報を読み上げていく。
女、東雲は天望に向き直り、両手を自分の胸元あたりに翳した。
「確かに、それは役割に囚われていた頃の私です」
東雲はまるで舞台の上にでも立っているかのように、身振り手振りを加え、歩きながら喉を震わせた。
「32歳、独身、後厄。利益のカケラも出ないちっせえ舞台に立つ自称俳優。五年付き合った彼氏に将来が見えないとフられ実家に舞い戻り、晴れて子供部屋おばさんになるという快挙」
スラスラとなんのためらいもなく最大火力か飛んできて、天望も炎獄も喉が詰まる。
東雲の表情は穏やかに整っているのに、目の奥が笑っていなかった。
「どうです、香ばしいでしょう」
「……いや……そこまで言ってないですけど……」
天望が頬をひくつかせる。東雲は眉をハの字にしながら、手のひらを見せるように振った。
「そんな可哀想な人を見る目をやめてください。むしろ私は幸福なのです、何故なら今の私は、全ての役割を脱ぎ捨てた紛れもない個を生きているから!」
東雲の声はよく響いた。天望に話しかけているというより、遠くで聞き耳を立てている群衆を乗せるつもりの声だった。
「何かの役割である限り価値があるという思想は、明確な暴力なのです!」
東雲が指先で頭を撃つような仕草をする。
炎獄は腕を組んだまま、その言葉を最後まで聞いていた。だからこそ、次に出る声は低かった。
「じゃ、てめえは自分の信者を殴ってんだな」
その反論は、東雲の手慣れた語り口を一瞬だけ止めた。笑みの形をそのままに、目の奥の光だけがわずかに止まる。
「……はい?」
炎獄はゆっくり顎を上げた。
「そうだろ。お前も『自己でなければ価値がねえ』って言ってんじゃん」
東雲の笑顔に、薄いひびが入る。だが崩れるほどではない。
東雲が口を開こうとした時、遠巻きに見ていた一人の亡者が炎獄との間に割り込んだ。東雲を背に庇う形で立つと、ぎこちなく拳を握る。
「おい、お前! 教祖様になんて口聞いてんだ!」
炎獄は亡者の背伸びみたいな抵抗を見て、視線だけを落とした。
「教祖様はな! 役割で縛られた俺を救ってくれたんだ、役割より、自分を大切に…」
「生まれ持った役割だって、“自分”だろ」
炎獄の顔に、冷えた種類の苛立ちが滲む。
「俺は見ての通り鬼だが、そういうもんだって割り切ってる。俺が鬼な事はどう足掻いても変わんねえんだから、鬼が鬼のままどうすりゃいいか考えるしかねえだろ」
亡者を包んでいた甘い熱が、炎獄の言葉で少しだけ醒めたらしい。亡者は何も言わず、叱られた子供のように炎獄から目線を逸らした。
炎獄が亡者から東雲に視線を移す。
「何だお前、怖い顔すんなよ」
東雲の目元から芝居がかった熱が引いていた。代わりに覗いているのは、冷たい女の目。
東雲はすぐに目尻を下げ柔らかい微笑みに戻すと、ぱん、と両手を叩いた。
「あなたはそう選択されたのですね! 個の選択は、なんであっても尊いものです!」
天望の眉がぴくりと動いた。
炎獄が何か言うより先に、東雲は肩を竦めた。
「あなた方のように、まだ役割を背負って立っている方には、少しわかりにくいかもしれませんけれど」
その仕草まで、板についていた。
東雲の裾が揺れる。数歩進んでから、東雲は肩越しに振り返った。
「鬼さん」
呼ばれて、炎獄が睨む。東雲は面白がるみたいに、少しだけ目を細めた。
「窮屈ではありませんか?」
「……は?」
「わかります、その気持ち。とても役に忠実に、よく演じてらっしゃる」
炎獄の目つきが変わる。東雲はその反応を見て、自分の袖の先を掴み、布の余りをわざと風に乗せ、くるりと回るように踵を返した。
「またお話ししましょう。今度は、もう少し静かなところで」
「おい、待……」
「炎獄」
天望がすかさず炎獄の服を掴み制止した。
「乗ったら思う壺ですよ。信者丸ごと敵に回したら余計拗れます。抑えて」
炎獄と天望を睨む信徒が、道の端に点在していた。炎獄はそれを肌で感じ、仕方なく肩の金棒を下ろした。
「…………チッ」
小さな舌打ちが落ちる。
そうして東雲は、白く濁った中陰の靄の向こうへ、するすると消えていった。うっすらと後味の悪い静けさを残して。
「やりにくいな」
炎獄が金棒に体重をかけてため息をつく。思想の強い奴は簡単に絆されない。その実情を目の当たりにして厄介さを実感していた。
天望は東雲の歩いて行った先を見る。
「何にせよ、まずいです。中陰にそう長く留めておくことはできません」
「俺らのノルマも困るしな」
「それもそうなんですが……」
天望が少し俯く。
「炎獄、解脱ってわかりますか」
「は? なんだそれ」
「輪廻から外れる事です。解脱して初めて、転生しないという選択肢を選べるようになるんですよ。そうでなければ、私達天女も、なんなら閻魔様でさえ、まだ輪廻の輪の中にいらっしゃいます」
「……そうなのか」
「多分、閻魔様は解脱しようと思えば出来ますけどね。つまり、そうではないただの亡者が解脱せずに留まれるような仕組み、存在しないんです。それなのにずっと中陰に留まっていたら、どうなると思いますか」
炎獄は東雲が消えた方角を見たまま、思考を整理するように呟く。
「輪廻に乗らず……ここにも留まれない……強制的になんか適当なとこ飛ばされてくとかか?」
「いえ、消えるんです」
天望が炎獄を見た。
「魂ごと霧散して消えてしまいます。どこにも行けず、何もならず」
「……」
炎獄が言葉を失った。天望は静かに続ける。
「だからまずいんです。東雲さんの宗教で多くの魂が輪廻を拒否して留まり続け、霧散してしまったら」
「魂自体が足りなくなるって事か」
「そうです」
天望が頷いた。
「仮に全ての魂が解脱して輪廻が無くなるならば、それは世界そのものが極楽に移るだけなので良いんです。というか、仏様の目指しているのはそれです。でも、ただの消滅で魂が無くなったら、それは……」
横で腕を組む炎獄が、低く息を吐く。世界の理を口にしているのは天望だが、その言葉の重みを一番知っているのは、裁く側に立ち続けた鬼の方だった。
「破滅だな」
「ええ。訪れるのは無です」
「なら、それそのままあいつの信者に言えば良いじゃねえか」
「それで納得すると思いますか? いたずらに恐怖を煽ればそれこそ混乱を招きかねません」
「めんどくせぇな、人は……」
炎獄は顔をしかめ、乱暴な手つきで髪をかき上げた。
天望が信者たちの溜まっている方角へ視線をやる。
「……だから、救わなきゃいけないんです。東雲さんも、信者の皆さんも……」
その言い方は、誰かに向けたものというより、自分にも言い聞かせているようだった。
*
白い霧の中に身を滑らせながら、東雲は一度だけ足を止めた。
信者の気配が遠ざかる。さっきまで纏っていた熱だけが、まだ法衣まがいの袖の内側にじっとり残っていた。
「……だっる、あの鬼」
独り言は、もう教祖の声ではなかった。
柔らかくよく通る響きではなく、舞台袖で発するような低い声。
東雲は指先で自分の喉元を撫でる。炎獄に刺された言葉を、そこで確かめるみたいに。
鬼が鬼のままどうするか考えるしかないと、馬鹿みたいに真っ直ぐに言った炎獄の顔を思い返していた。
あの手の男は綺麗事に酔わない。
「でも」
東雲は、ふと口元を上げた。冷えた目のまま、笑みだけを作る。
「味方につけば、もっと信仰が集まる」
あの鬼は、信者にとっては怖い。だからこそ一度こちら側に引き込めれば大きい。
それに教祖の隣にああいう男が立っていたら、それだけで場が締まる。女というだけで下に見る手合いも、男の鬼が居れば話を聞く。
東雲はそこで少し考え、すぐに結論へ辿り着いた顔をした。
喉の奥で小さく笑う。
「……男の落とし方なんて、ひとつでしょ」
教祖だとか亡者だとか、それ以前に、女に向ける男の欲の種類なんてわかりきっている。
相手が欲しがる顔を差し出せば、大体の男はそこで足を止める。
東雲はそれが上手い生き方だと、知っていた。




