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3話 規則は読んでおいた方がいい

 降り立ったのはコンクリートのブロックが敷き詰められた道の上だった。陽が落ちた薄暗い住宅街を、街灯の白い光が点々と照らしている。


 舗装された道路の上に裸足でいても、その感触は足の裏に伝わらない。汚れることもない。現世が魂に干渉する事はまずないのだ。


 男は周りを見回して、道の脇に立つ電信柱のそばへ歩いた。

 電信柱の根元には、花束とペットボトルの炭酸飲料が供えられている。


「……僕、ここで」


 男は花に手を伸ばす。触れる事は出来ない。花びらを透かして、指先が空を切る。


「供えてくれたの、ひなたかな……もう、僕これは飲まないって……相変わらず抜けてるとこあるんだから」


 男は思い出すように笑う。天望が近寄ると、男は振り向いて涙を拭う仕草を見せた。


「こうしてここにあるだけで、少し救われたような気になるなら、来世が花でも良いかもしれないですよね」

「そうですよ。存外悪くありません」


 天望は内心、それ見たことかと思っていた。

 暴力など振るわなくても、こうして魂に寄り添えばわかってくれる。

 今ここに炎獄がいたらさぞ悔しそうにハンカチでも噛んでいただろうに、吠え面が見られないのが残念だ。


「さあ、早くノルマ達成……じゃなくて、ひなたさんに会いに行きましょう」

「はい!」


 男は跳ねるような足取りで歩き出す。天望はその後ろを、遅れないように着いて行った。



 冬の風が通り抜けて、街路樹からかさついた葉が落ちる。

 家々の屋根の向こうには、極楽では見られない濃い群青の空が広がっていた。

 男と天望はひなたの住むアパートの前の道路で、その帰りを待つ。木造のアパートはどう見ても築年数が経っていて、女が1人で住むには少し不安さえ残るようなボロだった。


「……本当にここに住んでるんですか?」

「はい。あの角の部屋に」


 男が嬉しそうに指で示す。その窓には明かりがなく、洗濯竿には黒いスカートと白いブラウスが揺れている。


「ひなたね、頑張り屋さんなんですよ。近くの大学に通ってるんですけど、カフェでバイトしてて火曜日と水曜日は遅番シフトなんです。この間は嫌なお客さんでも居たのかな、泣きながら帰ってきて、慰めたらまた声上げて泣いちゃって」

「あら」

「店長の男がひなたの事狙ってるしバイトやめなって言ったんですけど、ひなた責任感強い子なので続けてて、あの店長なんか距離近いし僕はすごい心配で」

「ああ、気になりますよねえそういうの」


 男の惚気のようなものを聞いていると、曲がり角から靴の音がした。

 男の肩がびくりと跳ねる。次の瞬間には、今にも駆け出しそうな勢いで道路の向こうへ身を乗り出していた。


「ひなた……」

「えっ」


 現れた“ひなた”は、肩までの茶色い髪を揺らして、コンビニの袋を腕に掛けていた。

 携帯端末を片手に、少し疲れの見える顔をして歩いている。


 天望は、胸の奥に少しだけ違和感を覚えた。

 この男があの世に現れたとき、つまり死んだのは、昨日の事だ。


 婚約者が死んだにしては、ひなたはあまりに“普通”すぎる。


「ひなた!!」


 男が叫ぶ。だが、その声は届かない。死んだ魂が現世の人間に話しかける事などできない。


 はずだった。


「ヒッ……なんで……!?」


 ひなたは、はっきりと男を見て、怯えた顔をする。

 天望は咄嗟に、まずいと思った。


 恐らくひなたには、人より少し霊感がある。

 加えて男の執着にも似た情念が手伝って、見えないはずのものをひなたは見てしまっている。


「ダメです、待ってください。こちらから影響を与えてはいけません」

「ひなた、ひなた!! わかる? 僕だよ。今日もバイトお疲れ様、ひなた。あれ、またコンビニ? ダメだよたまには自炊とかして健康に気を遣わなきゃ、先週もその唐揚げ弁当買ってたでしょ、ゴミ袋に容器捨ててたもんね、ダメだよちゃんと野菜も食べなきゃ――」


 男が捲し立てるほどにひなたの顔色が悪くなっていく。天望はそこで初めて、胸の奥に残っていた小さな違和感を掴みかけた。


 それは明らかに、恋人の温度感ではない。


「なんで……何でいるの!? 死んだんじゃないの!?」

「ひなた、君に会いたくて。ずっと見てたの気付いてくれてたんだね。君の事なら何でも知ってる、僕以上の理解者なんていないよ、ひなた」

「嫌!! 来ないで!! なんで生きてんの!?」


 ひなたは後退りながら首を横に振る。喉から搾り出したような震える声が、天望の耳に届いた。


「このストーカー……! まさくんに殺してもらったのに……!」


 天望はその言葉で顔を上げた。間違えた、と気付いた時にはもう遅い。

 この二人は婚約者などではない。


「……まさくんって何、誰」

「キモいんだよ! 毎日バイト先来て待ち伏せして!」

「それは、ひなたが心配で」

「いつか殺されると思ったから警察にも相談したのに実害ないって何もしてもらえないし!」

「害なんてないよ。僕はひなたと結婚するんだ。夫なら妻を守るのは当然だろ」

「せっかくまさくんに車で事故って貰ったのに、なんで居るの!? マジでキモすぎ!! もうやだ消えてよ!!」


 天望はそこで、やっと点が線になった。ストーカーの罪と他殺という被害が嫌なバランスを取っていて、この男はあの中陰で留まっていたのだ。


 男の魂は既に輪郭をどろりと溶かしていた。悪霊へと変貌しようとしている。

 過ぎた執着がやがて怨念に移行するのは良くある話。

 だが、その引金を極楽の天女が引いたなど、決してあってはならない。


「ちょっ……もう帰りますよ!」


 天望が男の手を掴むと、ばちんと電撃のような痺れが走る。魂が拒絶した時の反応だった。


「ひなた、なんで、なんで、なんで」

「……っ……! いけません、悪霊となれば転生も出来ません! それでも良いのですか!?」

「花なんてなるわけないだろ。ひなたがわかってくれるまでそばにいる。ひなた、ひなた、ひなた」


 男がひなたに手を伸ばす。男の影が膨らんで伸び、やがて天幕を張るように闇が辺りを覆った。

 突風のようなものが天望を突き飛ばす。それは、愛と呼ぶにはあまりにも身勝手だった。


「やめて下さい、落ち着いて……!」


 天望の言葉などかけらも聞こえないというように、男はひなたへ一直線へ向かった。


「ひなた、死んでも愛してる」

「いや……!!」


 男がひなたを覆いかけた時、焦げたような匂いが鼻を突いた。

 目の前で小さな赤い火が火種も無く燃える。

 え、と思った次の瞬間には、その火は煌々と燃え盛る炎になり、冷えた冬の路地裏を熱で書き換えた。


「そら見ろ。言わんこっちゃねえ」


 炎が霧散すると同時に、中から無骨な腕が伸びて男の首根っこを掴み、体ごと地面へ叩き付ける。

 男の呻きが潰れたと同時に、黒い角、厚い肩、金棒を担いだ腕。熱に揺れる景色を押し退けるようにして、鬼の体が輪郭を結んだ。


「てめえ、俺の仕事増やすんじゃねえよ。地獄落とすぞ」

「炎獄……」


 呆れたような声を出した炎獄が、男の背を足で踏み付けている。

 金棒を担いだまま、圧倒的な質量差でいとも簡単に組み伏せて見せた。


「ひなた! ひなた!!」

「うるせえ」


 炎獄が喚く男の顔の横すれすれに、金棒を勢い良く叩き付ける。

 男はそこで振り返り、炎獄の姿をしっかり確認すると、途端に勢いを落とした。


「あ……え……鬼……?」

「おう。俺の目の前であの女襲えるもんならやってみな。その瞬間魂の形変わるまで殴るけど」


 男はあからさまに目を泳がせ、一度ひなたを見た。

 ひなたは青ざめて震え、地面にへたり込んでいる。


「転生先は?」


 炎獄が肩越しに天望を見た。


「あ、は、花です。ヒナゲシ」

「へー。どうする。ここで俺にボコボコにされて地獄見るか、花んなるか選べよ」


 男は一度息を詰めると、消え入りそうな声を出した。


「……な、なります……花……」

「ん。良し。承認」


 炎獄が爪の先で空中に何かを書く。そこへ判を押すように拳を叩くと、男は少しずつ光の粒へと変わり、やがて何も見えなくなった。


「はい終わり。で、何してんだお前」

「……」


 天望はあまりにもバツが悪かった。

 啖呵を切って突っ走った挙句に現世にまで降り、結局炎獄に助けられていては世話がない。


「……あ、あの」

「言い訳は後で聞く」


 炎獄は金棒を引き摺りながら、混乱しているひなたに近付いた。


「人間ってのは嘘をつく。だから地獄ってもんがあんだよ」


 炎獄がひなたの額あたりに手を翳す。その額からすっ、と記憶の一部だけを抜き取って握り潰すと、ひなたは途端に不思議そうな顔をして立ち上がり、辺りを見回した。


「ま、雑だがこんなもんだろ。ここ5分くらいの記憶は消した。ぼーっとして歩いててコケたくらいに思ってくれんだろ」

「……彼女、私達は見えてないんですか」

「見えてねえよ。(おれ)天女(おまえ)も、人の魂とは階層が違え」


 ひなたは何もなかったかのように歩き出し、アパートへ向かう。

 その後ろ姿を見ながら、天望は俯いた。


「……すいませんでした」


 炎獄は金棒で軽く自分の肩を叩く。首を鳴らし、背中を向けたままため息をついた。


「ま、今後気をつけろ。つか、お前に何の権限もねえのに、どうするつもりだったわけ?」

「……はい?」


 天望が顔を上げると、炎獄は顎を少し反らして天望を見ていた。


「輪廻転生の承認すんの、俺だぞバカ。お前が一人で行ったところでお前に何の裁量もねえんだよバカ」


 炎獄は続けて、黒い爪の先を自分と天望に向けながら、まるで子供に言い聞かせるように言った。


「俺が上司、お前が部下。菩薩どころかお前、今鬼以下。わかったら帰るぞ、バカ」


 炎獄は鼻で笑い、金棒を肩に担ぎ直す。歩き出した背を見ながら、天望は自然と小刻みに震えていた。


「なにそれ!!!!」


 天望の叫びは、現世からでも極楽に届いたという。

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