28話 今はまだ中間で
閻魔が玉座で足をぶらつかせながら、軽く伸びをした。
「やっぱ、あんた地獄向きだよ。菩薩目指すのなんかやめて俺の下につかねえ?」
天望が困ったように頬を掻く。
「いえ、住環境が地獄は厳しそうなので」
「そっか、残念」
閻魔は鉄扇を閉じた先で自分の肩をとんとんと叩き、他人事みたいな調子で言った。
炎獄が盛大に舌打ちをしてから、不機嫌を隠しもせず言った。
「おいクソジジイ。何のつもりだてめえは。最初から結果なんか決めてやがった癖に」
「あっは。馬鹿だなお前は。天望ちゃん、こんなやつ手本にしてていいの?」
「何?」
「……閻魔様」
「そら」
閻魔が水晶の鏡を鉄扇の先で指す。揺らめく鏡面の中で、天望の姿が変わっていく。
映し出された天望は、極楽の柔らかな光の中に佇んでいる。
それを見た天望が、大きく息を吸って肩を上げた。
「閻魔様!!」
叫びと共に、浄玻璃の鏡が大きく波紋を広げた。
*
天は、明るすぎた。
釈迦如来に拾われ、天女として阿弥陀宮の観光課に配属されてからしばらく経っても、その明るさに時々疲れてしまう。
天女として美しく、天女として清らかに。
笑うべきところで笑う。頷くべきところで頷く。観光客の亡者には柔らかく声をかけ、迷う魂には極楽の良さを説く。
まわりの天女たちは、ふわりと笑って、祈って、働いて、それを苦もなくやっているように見えた。
天望だけが、少し遅れて声を合わせ、少し遅れて頭を下げ、少し遅れて笑う。
「……皆は、生まれた時からここですもんね……」
天上人は皆優しかった。誰も天望を無下にしないし、何かを求める事もしない。
誰かが悪い訳ではない。救われたし、幸せなはずだった。
でもなんとなく、本当になんとなく、“馴染めない”と思ってしまった。
だから勤務が終わると、天望はよく極楽の端へ行った。
天女があまり近寄らない場所。三途の川に近い、風の強い縁。
罪人ダービーを眺め、手持ち無沙汰に少し賭ける。
勝ったところで何かが満たされるわけではない。負けても別に困らない。だって、ここは極楽だから。
ただ、札を握っている間だけは、笑い方を考えなくて済んだ。
煙草を覚えたのも、その頃だった。
天上の清廉な空気を、フィルターを通して吸い込んで吐く。俗を吸い込んで、それでようやく息が出来るような気がする。
ある夕暮れ、天望は人気のない石段に腰を下ろし、いつものように煙草を咥えた。
その日風が強くて、何度火を擦っても先は赤くならず、白い紙だけが情けなく湿る。
舌打ちするほどでもなく、ただ面倒だな、と思っていると、頭の上から低い声が落ちた。
「火、いるか」
天望は顔を上げた。
逆光の向こうに、鬼が立っていた。
背が高い。肩幅が広い。
極楽の柔らかい空気にはどうにも似合わない、熱と鉄の匂いのする男だった。
「……あ」
見た事ある鬼だ、と天望は思った。
視察でたまに来る、閻魔大王の補佐官。名前は確か炎獄鬼。
何度か遠目には見ていたが、こうして真正面に立たれると、想像よりずっと大きかった。
「いや、風が……」
言いながら、何を言い訳しているのだろうと天望は少しだけ恥ずかしくなる。
天女が石段に座って煙草。どう見ても褒められる絵ではない。
せめて嫌味の一つくらい飛んでくるだろうと思ったのに、炎獄は特に表情も変えず、ただ右手を差し出した。
指先に、小さな火が灯る。
「ほら」
それだけだった。天望は一瞬、その火を見た。
夕暮れの中で、妙に赤い。
鬼の体のどこかがそのまま外へ出てきたみたいな火だった。
「……ありがとうございます」
煙草の先を寄せると、ようやく火がついた。
細く煙が立つ。肺に入れると、少しだけ肩の力が抜けた。
炎獄はその様子を確認しただけで、特に何も言わなかった。
天女のくせに、みたいな説教めいたことは一つもない。
ただ、咥え煙草のまま短く言う。
「吸い殻持って帰れよ」
炎獄はそのまま踵を返す。
衣の裾が重たく揺れ、指先の火もいつの間にか消えていた。
天望は煙を吐きながら、その背中を目で追った。
極楽の中で、あの男だけが妙に浮いていた。自分と同じように、この場所に馴染んでいないように見えた。
けれど、自分と違って、浮いたままちゃんと立っていた。
それが、少しだけ気になった。
それから天望は、炎獄を見かけるたび、なんとなく目で追うようになった。
閻魔の横で書類を抱えている姿。視察に来て、極楽の空気を露骨に嫌そうな顔で吸っている姿。地獄の鬼のくせに、亡者相手には妙に筋を通す姿。
あの火をくれた時もそうだった。
説教も、憐れみも、特別扱いもなかった。
ただ当然みたいに火を貸して、当然みたいに去っていった。
天望はそれが、妙に忘れられなかった。
天界は相変わらず綺麗すぎたし、自分は相変わらずその中で少し浮いていた。
煙草もやめなかったし、ダービーもたまに見に行った。
釈迦にも何度か小言を言われた。
それでも、極楽の眩しさに目を細めるたび、あの小さな火だけは、やけに鮮明に思い出せた。
清らかじゃないし、輝いてもいない。
でも、そんな救い方もあるんだと思えた。
だからあの日、阿弥陀宮で扉が開いた先、焦げた匂いが入り込んだ時に、天望は息を止めていた。
不機嫌そうに歩いてきて、手を伸ばせば触れられる程隣に立った炎獄は、前よりも少し髪が伸びていて、思い出の中より熱い。
眉間に皺を寄せてこちらを見た彼の目が、地獄の色をしていた。
黒い角、覗く牙、鋭い爪。恐ろしいはずの鬼の相。
でももう知っていた。この鬼は、困った人にはただ手を差し伸べるようなやつなんだと。
燃やして焦がす火ではなく、照らす焔な事を。
もう、ずっと前から知っていた。
*
「え」
間の抜けたような声が裁判所に落ちる。
震える天望の少し後ろで、炎獄がゆっくり首を向けた。
「あれ、お前か」
「……………………」
天望は鏡の前で何も言えなかった。
振り返れない。たとえ今死んだとしても、絶対に炎獄にこの顔を見せるわけにいかなかった。
「なあ、おい」
「別に!? 極楽に鬼って珍しいんで覚えてただけですけどぉ!?」
思っていたより声が出た。炎獄が一瞬びくりと肩を震わせると、閻魔が薄ら笑いを浮かべたまま鉄扇をくるりと回す。
「んー、ちょっとまだ燻り気味って感じ?」
「閻魔様!!!!」
「どういうことだよ、おい」
閻魔が気持ち良さそうにケタケタ笑う。心底愉快な時の閻魔は、だいたい誰かにとって最悪だ。
釈迦が白毫を抑えながら、少し首を振った。
「天望天女、愛欲は慈悲と昇華させれば、おのずと悟りへ繋がりますよ」
「ぉお釈迦様ァァ!!!!!!」
天望が咄嗟に釈迦の耳たぶを握った。とにかく止めなきゃいけないと思って出た行動が完全にバグって、変な乳搾りみたいになっていた。
炎獄が後ろで頭を掻いている。
「仏の言い方いつも難しくてわかんねえんだよ。もっと簡単に言ってくれねえか?」
「ですからつまり」
「言わなくていい!! お釈迦様!! 言わなくて良いです!! ご慈悲!!」
釈迦の耳たぶがちょっと伸びる。釈迦は少し眉を下げて困ったような顔をしていた。
閻魔がニヤつきながら鉄扇を開き、くるりと一回指先で回す。
「まだまだ転生拒否してる魂は山ほど居るからな。この調子でどんどん働け、獄楽部。そしたらま、地獄と極楽でもどうにかなる……かもな?」
閻魔が鉄扇をひと振りすると、石の床も蝋燭の火も、人面杖も鏡も、まるで最初からそこになかったみたいに薄れていく。釈迦の姿も、するりと光の粒に溶けた。
代わりに戻ってきたのは、白い湯気と白檀の匂いだった。
乾いた修羅道の風が頬を撫で、湯に浸かって呆けた亡者が戻ってくる。
「おい、ジジイ!! ……なんなんだあいつは……散々ビビらせやがって……」
炎獄は閻魔の言葉を一度頭の中で転がし、それから余計に顔をしかめた。
「ったく……釈迦も何が言いたかったのかよくわかんねえし、仏っていちいちまだるっこしいんだよ。……天望?」
隣で天望が俯いている。拳を握り、肩を強張らせたまま、微動だにしていない。
「おい、天望、大丈夫か」
天望の方に炎獄が軽く手を置く。天望は俯いたまま、細く細く何かを言った。
「…………せん」
「あ? なんて?」
天望が大きく息を吸う。顔を上げて炎獄の方を向き、ひっくり返った声で叫んだ。
「鬼と天女はどうにもなりません!!」
天望の姿が、言葉の余韻を置き去りにして飛んでいく。
返事を待つ気など最初からなかったらしい。天望は爆速で逃げた。
「ちょ、おい!! なんだよ!!」
炎獄が追う。天望が逃げる。修羅道の湯気が、土煙と混ざって舞う。
その熱に、ほんの少しだけ怒りと違う何かが混ざっていた。
「コラ!! 天望!! 走んな!!」
「ついてこないでください暴力筋肉鬼!!!!」
「なんだとてめえ!!!」
極楽でも地獄でもない場所で、天女と鬼が駆けていく。
きっと堂へ戻れば、机の上にはもう新しい未転生者の書類が積まれている。
誰かを送り出したぶんだけ、別の誰かが次に座る。
人は死ぬ。そして魂は巡っていく。
全ての魂を転生させるのは、もっとずっと先の話。
それまではまだ、曖昧なままで。




