29話 天と地
「可愛いじゃん、ねえ」
閻魔は宙に浮いたまま、修羅道の端を横切っていく二人を見下ろした。
片や叫びながら逃げ、片や意味がわからないまま追いかけている。
滑稽で、青臭くて、だからこそ少し目が離せない。
閻魔の肩が、わずかに揺れた。笑ったのだと気づける者は、そう多くない程度に。
その背後に、金色の粒がひとつ蓮の形を作る。
蕾が開き、その中央に腰掛けるようにして、金色の仏が膝に肘をついていた。
「……焔摩天、満足ですか」
「んー、まあ、及第点ってとこかな」
釈迦の視線が天望を追い、ついで閻魔に留まる。はあ、と落ちた息には、呆れも諦めも少しずつ混じっていた。
「戯れもほどほどにしてください。あまり苦を強いては、いつか壊れますよ」
袈裟の裾を揺らしながら、釈迦が閻魔の背後に立つ。そのまま、落ち着いた眼差しを静かに落とした。
「お前ね、恋を“苦”って言ってやるなよ」
閻魔は帳面を閉じ、扇を肩に乗せて、ふん、と鼻で笑った。
「……あいつらはお前じゃねえよ」
「ええ勿論。この世界は、愛着が生む苦の連鎖で出来ています。恋はその最たる物。これを抱えたままでは悟る事は出来ません」
釈迦はいつも通り穏やかだった。如来の視点は、どこまでも正しく揺らがない。故に、遠い。
「悟り、ね……」
「苦しみから逃れるための法です」
「退屈だな、そりゃ」
閻魔は扇の先をとん、と釈迦の胸に当てて笑った。風が流れ、二人の髪が揺れる。
釈迦はゆっくり顔を上げ、閻魔を見た。
「……退屈?」
「ただ穏やかなだけの極楽なんざ、俺はごめんだね」
「執着を捨てなければ苦しみ続けます」
「苦しい、ってさぁ、楽しいんだよ」
釈迦の眉間に僅かに皺が寄る。珍しく歪んだ表情に、閻魔は嬉しそうに続けた。その顔は、王ではなく、地獄の“生き物”そのものだった。
「お前、恋した事ねえな?」
「……正直なところ、無いですね。ですが、それがどういうものかは分かります」
「“理解する”と“感じる”は全く別モンだろ。お前、如来としてはご立派だけどな、心の話すんなら、目線地べたまで落とせよ」
「目線は常に合わせております」
「じゃ、してみな、恋ってやつ」
蓮の香がわずかに強まる。
閻魔は心底面白そうに笑った。釈迦の価値観を揺らしたいわけでもない。ただ、この如来が永遠に触れられない領域を、地獄の王として軽々と扱えるのが愉快なだけだった。
「こんな楽しい事知らねえまま永遠を生きるんだろ?……可哀想だな、お前」
「私を憐れむのは、あなたくらいですよ。焔摩天」
釈迦の表情は微動だにしない。その静けさは、拒絶でも怒りでもない。ただ、本当に“分からない”者の静けさだった。恋も情も捨てた者は、挑発を挑発として受け取ることすらない。
閻魔が釈迦の目線に合わせるようにふわりと浮かぶ。
顔を近づけ、閻魔が獲物を見るような笑いで覗き込んだ。
「停滞だ。空虚だ。退屈だ。そして何より、傲慢だ」
釈迦の反応を探る。だが釈迦はきっぱりと言った。
「焔摩天。あなたは、本当に楽しそうですね」
挑発を挑発として受け取らず、ただ事実だけを述べる声音は、鋼よりも揺れなかった。
「愛も欲も、捨てずに悟る術がないわけではありませんが……よほど難しいかと」
「じゃ、お前はイージーモードで悟ったわけだ。ぷぷ」
「焔摩天、そろそろ私ではなく、信徒に怒られますよ」
「あーあうるせえうるせえ。そんな奴は全員地獄行きだ」
閻魔の胸倉を掴むような言葉にも、釈迦は少しも眉を動かさない。理解していないのではなく、そうした刺激を扱う領域が、釈迦の中に無いのだ。
「愛別離苦……天望天女は、いつか別れの苦しみを知ります」
「だろうな。鬼と天じゃ存在が違いすぎる」
「深く繋がるほど、反動は凄まじい。その時、彼女にとっての極楽は、永遠の地獄となります」
「んなもん、道理だろ」
「では、あなたはそれで良いと?」
閻魔は扇を閉じ、釈迦を見据えた。薄い唇を引き締め、金色の瞳が真っ直ぐ射抜く。
「勿論」
ただ一言、落とす。釈迦はその言葉を受け取り、目線を返した。
「あいつらが生きてんのは今だ。過去でも未来でもねえ」
「今穏やかだからこそ、私はその先を憂うのです」
「逆だろ。その先がわかってるからこそ、今輝かすんだよ」
閻魔が玉座に背をもたれ、だらしなく釈迦を見上げる。どこか愉悦さえ滲ませながら、表情の変わらない釈迦に笑顔を向けた。
「……焔摩天、あなたもまた、難儀ですね」
釈迦は笑いもせず、悲しみもしない。ただ見つめる。
閻魔が指を組み、何もない空間にもたれかかる。
天と地が、揃って空に漂っていた。
とりあえず一区切りです!!!
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