27話 死後裁判
天望の息を吸う音が揺れていた。
炎獄がわずかに眉を寄せたが、閻魔の横顔を見て口を噤む。
閻魔が帳面に目を落とした。
「未練を抱えた亡者を、規定外で現世へ連れ出した件」
指先が行をなぞる。
そこに書かれた記録を確認するように、閻魔は淡々と読み上げた。
「死者一名。現世への一時帰還を独断で許可。結果、対象は悪霊化寸前まで変質。炎獄鬼の介入により輪廻転生へ。天望天女自力での収束は失敗」
天望の指先が、ぎゅっと握られる。
閻魔はそれを見ても、声色ひとつ変えなかった。
「確認不足。見通しも甘い。その上規定違反だ」
「……っ」
「善意はあった。だが、だから何だ。炎獄が来なかったらどうするつもりだった?」
閻魔が頁を捲る。裁断するような音だった。
「……真鍋龍之介」
閻魔の指先が止まる。
「地獄の責苦を快楽と履き違えた亡者に対し、対象の自己愛と歪みを見抜き、精神的圧迫をもって輪廻へ同意」
炎獄の目がわずかに動いた。閻魔はそのまま読む。
「結果、転生処理自体は成功。ノルマ達成」
そこで、閻魔の口元だけが少し歪む。
「……で? これは救済か?」
天望が息を呑む。
「人の性質を暴き、晒し、確証もなく決めつけた。結果が伴ったから良いものの、ほとんど綱渡りだったな」
閻魔の視線はまだ帳面の上にある。なのに、その問いだけは天望の胸元へ真っ直ぐ刺さった。
閻魔の頁を捲る手は止まらない。次の頁が開く。
「東雲唯」
その名が落ちた瞬間、天望の背筋が目に見えて強張った。
「多数の亡者を留め置き、輪廻を拒否させる。対応した天女、感情の高ぶりにより対象を平手打ち」
炎獄の眉間に皺が寄る。
閻魔は変わらず無機質に読む。
「私情による暴力。論外だ」
天望の唇が白くなるほど噛み締められる。
閻魔はその沈黙の上に、更に言葉を置いた。
「それとも、釈迦はそう教えてんのか?」
「…………いいえ……」
天望の睫毛が震える。
閻魔はまた頁を捲った。
「修羅道」
今度は、読む前に少しだけ間があった。
その沈黙が、逆に重い。
「阿修羅の怒りに便乗した亡者の停滞。獄楽湯設置による感情緩和と輪廻促進。結果として一定の成果あり」
天望がわずかに顔を上げる。
けれど、閻魔の裁きはそこで終わらなかった。
「だが他人の怒りに当てられ、自分の痛みに足を取られた。救う側としては未熟極まりない。そして鬼と天帝の諍いを止めるどころか推奨したな」
閻魔は白い頁から顔を上げる。
金の目が、まず天望を見て、次に炎獄へ流れ、また天望へ戻る。
「私情、独断、越権」
白い帳面が、静かに閉じられる。
ぱたん、というその音で、裁判所は水を打ったように静まった。
閻魔が帳面を片手に持ったまま、玉座の肘掛けへ肘を置く。
「悪霊化しかけた亡者は止めた。歪んだ亡者も輪廻へ送った。教祖も壇から降ろした。修羅道にも流れを作った」
そこで閻魔は、ほんの少しだけ目を細めた。
「救えてはいる。だが、救い方が危うい。結果オーライが今後何万年と続くと思うか?」
天望の喉が上下する。返す言葉が見つからない。
閻魔が白い閻魔帳を見せつけるように指先で持ち上げた。
判決を落とす前の静けさで止まる。
「判決を下す」
その瞬間、裁判所の奥で輪廻の扉が軋んだ。
天望がはっとそちらを見る。
白い光が細く漏れ、石床へ一筋落ちていた。
「閻魔羅闍王の名において、天望天女を菩薩として不適格と判断する。よって――」
白い閻魔帳が、閻魔の指先から赤く染まろうとした。その時。
「異議申し立てる」
炎獄の声が、まっすぐ割って入る。
閻魔の視線が、ゆっくり炎獄へ向いた。
炎獄は一歩前へ出る。感情に任せて飛び出した顔ではない。第五審補佐官としての顔だった。
「獄楽部輪廻転生推進課、責任者炎獄鬼が進言する」
閻魔は何も言わない。
炎獄はそれを許可と見て、続けた。
「今読み上げられた件は、全て“失格の証明”じゃねえ。“未熟の証明”だ」
炎獄が視線は閻魔に固定したまま、天望を遮るようにゆっくり前に出る。
「確かにミスもする。私情でも動く。だが、その都度、ちゃんと自分で傷を負って、次の案件に繋げてる。功績まで無かったことにするべきじゃねえ」
炎獄の金棒の先が、地面に落ちる。鈍い音が裁判所に響いた。
「結果を出してる以上、俺は上司として不適格とまでは言い切れないと判断する」
沈黙。閻魔の鉄扇が、膝の上で小さく鳴る。
炎獄が顎を上げた。
「経過観察が妥当。獄楽部で引き続き実務に当たらせろ。足りねえとこは現場で覚えさせる」
最後だけ、炎獄の声に弁護以上の熱が混じった。
「こいつの責任者は俺だ」
炎獄の角の先から、僅かな炎がちりりと燃える。
炎獄が閻魔に対して不敬なのは今に始まったことではなかったが、この場のそれはいつもの反抗的な物言いとは、明らかに質が違っていた。
閻魔がゆっくり足を組み、その上に肘を立てて手のひらに顎を乗せた。
「補佐官が俺に裁判結果の意見すんの」
「もうてめえの補佐官じゃねえ。お前がそうしたんだろ」
「……へー……お前、そんなでけえ口叩けんだ」
石の床の上を這う白い霧が黒く変わり、壁の蝋燭の火が紫色に変わる。
人頭杖の翁がカタカタカタと震えながら笑う。
「炎獄……」
「下がってろ」
炎獄が閻魔を見たまま低く言う。閻魔は表情ひとつ変えなかった。
「異議を認めないと言ったら?」
「てめえをぶん殴って再審請求する。六審以降、十王で認められねえなら如来に持ってく」
閻魔に逆らえばどうなるか、炎獄は誰より知っている。地獄の主に、ただの鬼が勝てない事さえわかっている。
それでも炎獄は金棒を握った。
炎獄が閻魔を見据え、閻魔も炎獄を見下ろしている。睨み合ったまましばらくどちらも動かない。
一度だけ拳を握り、天望が口を開いた。
「閻魔様」
天望が炎獄の前へ身を滑り込ませ、閻魔の視線を正面から受け止める。
「確かに私は、菩薩になるにはまだまだなんだって分かります。誰かを救うのがこんなに難しいんだって、極楽にいた頃は想像さえ出来てなくて」
天望の声は震えていたが、言葉は途切れなかった。
「救い方も、悟り方も、まだわかりません。でも」
天望が炎獄の腕に触れ、その熱を確かめるように指先へ力を込めた。炎獄が天望の背を支えるように手を当てる。
「炎獄となら、いつかわかる気がするんです」
閻魔の目元に、わずかな色が乗る。かすかな興を差したような、
「お願いします。時間をください。私は、迷える魂に寄り添い、導く菩薩になりたい」
天望が閻魔に向かって頭を深く下げる。
「もう役に立ちたいからじゃない。お釈迦様に恩を返したいからじゃない。私が、救いたいから救う。そんな菩薩になりたいんです。お願いします。まだ、ここにいさせてください」
天望が手の中で袖を握り、ほどき、それからようやく顔を上げた。
閻魔はしばらく天望を見つめてから、ひとつ息を吐いた。
「……だってよ、釈迦」
閻魔がそう言うと、天望の目の前に金色の粒がひとつ光る。それは形を変え、蓮の蕾となって花開く。
芳香と光が地獄を塗り替えていく。
金色に見える髪が一度ふわりと広がって落ちた。
「天望天女、その決意に揺らぎはないですね」
釈迦が天望の目を見て静かに言葉を落とした。
天望は釈迦の睫毛の向こうの瞳をじっと見たまま、少し頷く。
「……はい」
釈迦はその目を見て、ゆっくり目を閉じた。
「焔摩天」
「お前がそう言うなら」
閻魔が天望の閻魔帳を撫でる。赤く滲み始めていた端が色を失い、元の白い表紙へと変わった。
「判決。保留。引き続き獄楽部輪廻転生推進課として、炎獄鬼と共に業務に当たれ。期間は定めないものとする」
閻魔は白い帳面を閉じた。口元を愉快そうに歪め、首を傾げる。
「やれるだけやんな。特例天女」
天望は一瞬だけ目を丸くし、隣の炎獄を見た。天望の顔が見る間に明るくなる。
「ありがとうございます!」
もう一度深く頭を下げてから炎獄を見て、安心したように頬を緩めた。
炎獄が拳を天望の前に差し出し、それに天望が拳を軽くこつんと合わせて、また少し笑った。




