26話 閻魔羅闍王
「うん、思ったより良い感じにやってくれたじゃん」
閻魔は鉄扇の先を止めた。手が止まる時は、たいてい少し感心している。
その気楽な物言いが、炎獄には急に腹立たしくなった。
こっちは散々振り回されたというのに、こいつは最初から結末を知っていたみたいな顔をしている。
「おい、閻魔てめえ、思いっきり殴りやがって……地蔵に化けてまで監視してやがったのか」
閻魔は鉄扇を口元に当てるでもなく、むき出しのまま笑った。隠す品さえないのが逆に王らしくて腹が立つ。
「化けるもクソもねーよ、あれも俺、俺もあれ」
閻魔はんべ、と舌を出す。からかっているのではない。ちゃんと馬鹿にしている。だからムカつく。この煽りが趣味の男が、何故慈悲の化身である地蔵菩薩と同一なのか。
「言っとくけど騙してねえから。無知なお前が悪ぃんだよバーーカ。勉強しろ」
炎獄の中で悪態が十個くらい一気に育った。全部まとめて本人にぶつけたいくらいだった。
その反応さえ慣れた様子で、閻魔は裾を引きながら天望の前を歩いた。
袂を揺らし、そのままふわりと宙へ身を持ち上げる。冠も衣も揺らしたまま、ひどく気軽な顔で。
「さ、てと。天望ちゃん」
鉄扇がぱちんと閉じる。閻魔が逆さまに浮いたまま、天望に顔を寄せた。
「実にうまくやってくれたみたいで、俺はとーっても嬉しい」
「あ、ありがとうございます」
「いいね、釈迦のご贔屓なだけある」
くるりと頭を上に戻しながら、閻魔は一冊の帳面を懐から取り出した。
それは白い表紙の、閻魔帳。
「しかし、如来言いくるめて天帝に啖呵切って鬼に賭けるか。君ほんととんでもないね」
「……あ、あの」
「ま、結果がついてきてるから、ここは評価点かな」
閻魔が帳面を開きながら空中で足を組んだ。
炎獄はその光景に一瞬思考が止まる。
さっきまでの閻魔はただの野次馬だった。だが、今は違う。炎獄は、閻魔のそれを嗅ぎ取ってしまった。
「……おい、閻魔」
「んー、そうだな、ああ、亡者が悪霊になりかけたのは……まあこれはなー、一発目だから多少多めに見てあげてもいいかな。ミスって誰にでもあるし」
「おい」
「ああ、中陰の教祖! これは良かったんじゃない? ま、俺のおかげってのもあるけど」
炎獄が一歩前に出る。
そして、ゆっくり確かめるように口を開いた。
「お前、なんでこいつを裁こうとしてる……?」
閻魔の行動は、魂の死後裁判そのものだった。
地獄か、極楽か、それ以外か。閻魔帳を開いて道筋を辿るそれを、そのまま天望に当て嵌めている。
閻魔は何も言わなかったが、目の奥にだけわずかな愉快さが灯る。
瞬間、その場にいる誰もが急に息苦しさを感じだした。
それは、閻魔が今この瞬間から“王”として動き始めたからだった。
「そりゃあ、お前」
閻魔が指を鳴らす。
その軽い音が響くと同時に、一瞬で辺りの景色は姿を変えた。
天望は反射的に息を呑む。嫌な予感が輪郭を持つより早く、世界の方が先に塗り替わり始めた。
薬湯の白い湯気は湿った霧に変わり、土煙の荒野は冷たい石の床へ。
端から一つずつ蝋燭の火が順番に灯る。人の背丈ほどある水晶の鏡と、人の顔のついた杖が圧をかけるように二人の眼前に現れた。
空中で足を組んでいた閻魔の背に、豪奢な玉座が沿う。
修羅道の喧騒は嘘のように無くなり、まるで初めから音など存在しないかのようだった。
あんなに近くにいたはずの閻魔が、遠い。
その光景は、かつての炎獄が良く知る場所だった。
「天望ちゃんが菩薩になるかどうかの、裁判の時間だ」
地獄庁十王裁判所、第五審。罪と罰の裁定を行う、この世界で最も厳粛で、冷酷で、平等な空間。
地獄の大王、閻魔羅闍が、玉座から二人を見下ろしていた。
炎獄は、この空気を身体で覚えている。
第五審。閻魔の裁きが始まる時の、あの息苦しいほど整った静けさを。
善人ならば極楽へ。罪人ならば地獄へ。
閻魔が裁くのは生そのものであり、その魂の全ての因果。
だが今、その場の中央に立たされているのは天望だった。
天望もそれに気づいたのか、指先をきゅっと握る。
ついさっきまでの温泉の湯気も、白檀の香りも、もうここには届かない。
閻魔が鉄扇の先で軽く帳面を叩いた。
「開廷」
短い一言。それだけで場の全てが切り替わる。
閻魔の目が、まっすぐ天望を射抜いた。
「天望天女、お前が“救う側”に立つ資格があるかどうか裁定する」
さっきまで修羅道の端で亡者にチラシを配っていたはずなのに、今はもう、逃げも誤魔化しも許されない裁きの場の中にいる。
炎獄は天望の方を一度だけ見て、それから玉座へ視線を戻した。
何をどう取り繕っても、これは冗談の空気ではない。
「おい、なんだこれ。罪人みてえな扱いしやがって」
「炎獄鬼。口を出すな」
閻魔の声から温度が消えていた。その声をよく知っている。
地獄へ行く亡者に判定を告げる時の、冷たい声。
閻魔が白い帳面を指先でめくる。
その乾いた音だけが、異様にはっきり響いた。
「生前の功徳により、釈迦如来により召し上げられ天へ至る。では、天望天女の現在までの道程を映す」
人面杖が、からからと笑う。
蝋燭の火が揺れ、鏡の表面に白い波紋みたいな光が走った。
「至らぬ魂と認められた場合、お前は輪廻へ還る」
「……え……」
その静かな宣告ひとつで、天望は凍りつき、炎獄は半歩も動けなくなった。救いの言葉のはずなのに、断頭台の言い換えにしか聞こえなかった。
「おい、閻魔どういう事だ。聞いてねえぞ!」
「身の丈に合わねえ望みは身を滅ぼす」
閻魔は白い帳面の端を指先で揃え、音もなく頁を開いた。視線だけを落としたまま、淡々と告げる。
「来世ってのは、生きてきた時間の請求書」
閻魔は鉄扇を閉じる。パチン!と音が響き、その先で閻魔帳の一行を示した。
「一括払いのみだ」




