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25話 なにはともあれ。

 冠を戴き、紫と黒の衣を揺らし、笑っているようにも見える無表情。


「おお、久しいなあ!!」


 帝釈天が目を細める。

 閻魔は答えず、痛む額を押さえたままの炎獄を見て、呆れたように片眉を上げた。


「何が殴らねえと気が済まねえだ。少年漫画(ガキの喧嘩)じゃねえんだぞ。理由があろうがなかろうが暴力は暴力。大人なら大人の解決しろバカ」


 そこまでは、まだ小突く程度の叱責だった。

 だが閻魔は、炎獄の顔を見た途端、容赦する気を失くしたらしい。


「ていうか、捨ててねえって何回言や分かんだカス。適材適所の人事異動だっつってんだろ。それをいつまでもうじうじうじうじうるっせえな」

「……うじうじしてねえだろ俺は」

「してんだよでっけえ図体して慰められ待ちしてんじゃねえよボケ。閻魔様はてめえのママじゃねえんだバカ。何年鬼やってんだてめえは」

 

 炎獄が言葉を失う。どう考えても言い過ぎである。

 大人の解決をしろと言っておいて、バカだのカスだのボケだの言うのはいいのかよ、とも思ったが、炎獄は空気の読める男だった。


「……で、帝釈天」


 閻魔が首だけで振り返る。手元で鉄扇を広げ、軽く扇いだ。


「うちの子可愛がってくれたじゃん。まだやりてえなら相手すっけど、どうする?」


 帝釈天は金剛杵を構えたまま、珍しく少し考える。

 顎に手を当ててふぅむと喉を鳴らす。


「分が悪いな! やめておこう!」


 ばちばちと弾けていた雷気が、ふっと萎む。

 帝釈天は一度だけ閻魔を見て、それから実にあっけなく得物を下ろした。


「すまんかったな炎獄鬼! 俺が悪かった!」


 切り替えは、驚くほど早かった。あれだけ空気を煮立たせておいて、本人だけがもう次の気分へ移っている。

 あまりに軽く引かれた熱に、炎獄の方が拍子抜けしてしまった。


「よし!! 俺は謝った! ではこれで仲直りだ!!」


 帝釈天が強引に炎獄の手を握ってぶんぶん振る。

 肩が外れるんじゃないかというほど振り回した後に、帝釈天は炎獄の肩を組んだ。


「そら、互いがこうして許し合えば、諍いは起きんのだ!」


 豪快な笑い声が修羅道に響く。

 炎獄は数度瞬きをして、それから大きく息を吐いた。

 握られた手の熱だけがやけに現実味を持っていて、それ以外の全部が急に茶番じみて見える。

 殴ってわからせるとか、言葉で詫びさせるとか、そういう段階の相手ではない。

 炎獄はそこでようやく、阿修羅が延々と怒り続ける理由を骨の髄で理解した。


「……言っとくけど許してねえし、俺お前の事すげえ嫌いだからな」

「それは仕方ない!! 合う合わんはある!!」

「……」


 炎獄はもう何も言い返す気にならなかった。

 というより、何を言っても無駄なのだ。この手合いにどう言ったところで何にもならない。阿修羅の二の舞になるだけだ。

 その上、帝釈天の周りに漂う能天気な空気は長く持たなかった。

 修羅道は穏やかに終わることを知らない。

 ようやく静まりかけた空気の向こうで、今度は別の怒りが地を蹴っている。


「帝釈天!!!!!!!!貴様!!!!!!!!」


 遠くから土煙と、怒号が響いた。

 白い湯気の向こう、赤茶けた荒野を阿修羅が駆けてくる。

 帝釈天は声の方を向くと、ぐるりと肩を回した。


「おお、いいところに。先に体を動かして、それから汗を流してもよかろう!」

「……え、いや帝釈天様」

「大丈夫だ、湯屋を壊さん距離でやる! じゃあな! よし阿修羅!! 行くぞ!!」


 帝釈天はぐっと膝を曲げて地面を押すと、そのまま天へと飛んだ。

 それを追うように阿修羅も跳ねる。

 二人の影がみるみるうちに小さくなり、上空で時々何か爆ぜる音が聞こえてくる。

 やがてそれも小さくなって、その場には静寂が残った。

 白い湯気と白檀の香りが、またふわりと靡く。


「あーあ」


 閻魔が扇で目元に影を作りながら見上げる。

 炎獄と天望も、怒涛の情報量にただ立ち尽くしていた。


「大丈夫ですかね……?」

「止めようがねえよ、あんなん……」

「確かに……」


 白い湯気が、湯屋の屋根からゆっくりほどけていく。

 怒号の代わりにあるのは、湯が縁から溢れる柔らかな音だけだった。

 薬湯の匂いは強すぎず、ただ静かに鼻先を撫でる。

 乾いた修羅道の風に混じると、それだけで場違いなくらい穏やかだった。


「……俺達……何に怒ってたんだろうな……」


 亡者がぽつりと呟く。湯に浸かった亡者たちは、誰ももう肩肘を張っていなかった。

 目を閉じ、息を吐き、ただ湯の熱に身をほどいている。


「あの、あなたの来世、カピバラなんですけど」


 天望が亡者に声をかけると、亡者はカピバラかあ……と少し遠くを見た。


「温泉……入れるかな……」

「運が良ければ……」

「……じゃあ生まれ変わっても……いいかな……」


 亡者の輪郭がふわりと解ける。天望が亡者の転生許可証を炎獄に手渡し、承認印を押した。


「……柚子湯が……いいなあ……」


 亡者は光の粒になり、溶けるように輪廻の流れへ乗っていく。それを見た他の亡者も、カピバラならいいなあ、と呟き出す。

 修羅道に揺蕩う湯気が景色の輪郭をぼかし、怒りの尖りまで曖昧にしていた。

 天望がぐっと拳を炎獄に突き出す。


「なにはともあれ大成功、ってことで」

「……おう」


 炎獄も軽く拳を合わせる。

 もちろん、修羅道の怒りがそれで全部消えたわけではない。帝釈天を恨む声も、天を憎む亡者も、まだ荒野のあちこちに残っている。

 けれど、止まっていたものは確かに動き始めていた。

 湯気の向こうでほどけた肩と、輪廻へ流れていく光が、その証拠だ。

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