24話 鬼vs天帝
帝釈天は、修羅道の空気などまるで読まない顔で歩いてきた。
白い歯を見せて笑い、湯屋の看板を見上げる。
その背後で、さっきまでほわほわしていた亡者たちの顔が一気に引きつった。
「おお、これか! 温泉が出来たと聞いてな!」
何もかもの元凶が、何も知らない顔で湯気の前に立つ。
炎獄のこめかみに、ぴくりと青筋が浮いた。
「……あの、どうしてここに……」
天望が半歩前に出る。
帝釈天は悪びれもなく胸を張った。
「気になるだろう! 修羅道に温泉だぞ! しかも薬師監修と聞いた! 入らん理由がない!」
天望と炎獄が同時に口を噤む。
その沈黙を、帝釈天は都合よく感心と解釈したらしい。
「うむ、白檀の香も悪くない! 誰の案だ!」
「私……ですけど……」
「君か! 見直したぞ! 発想が良い!」
にかっと笑う。褒められているはずなのに、天望の顔が引き攣る。
帝釈天が天望を上から下まで順番に見て、腰を屈めて顔を近づける。
「君、男は居るのか?」
「はい?」
「まあ居てもかまわん! 風呂は女と入らねば面白くない!」
「ォァギャァ!?」
帝釈天が天望を片手でひょいと肩に乗せ、丸太か何かでも運ぶように軽々担ぎ上げた。がっしり捕まれて、逃げようにも地面までが高すぎる。
「おい。何してんだ」
すかさず炎獄が帝釈天の上腕を掴んだ。足元で、砂がじりと鳴る。
踏みしめたその一歩に、躊躇いがまるでなかった。
「ん? なんだ、お前のか? 一回くらい貸せ!」
「前提から改めろ。そいつは物じゃねえ」
炎獄の手から炎が上がる。橙色の光と熱が弾けた。
だが、帝釈天は意にも介さず愉快そうにするだけだった。
「そうやってお前が好き勝手やるからこんなめんどくせぇ事になってんだろ。振り回される身にもなれよ」
「何がいけない! 最後は皆俺に付いてくる! 終わり良ければ全て良しだ!!」
「んな簡単な話だったら、阿修羅はああなってねえだろうが」
「ふむ、そうかもしれんな!!」
帝釈天の周りで、ばちばちと静電気のような音がし出す。
顔は笑っている。だが、既に一触即発な事は誰が見ても明らかだった。
笑っているくせに、一歩も譲る気はない。
強い者だけが持つ種類の身勝手さが、帝釈天の声にはあった。
「確かにな、俺も悪かったところはある! それは認めよう。だがもう俺の妻は幸せにやっている!」
帝釈天がまるで納得するように頷くが、反省などひとつもしていない様子だった。
そこにあるのは開き直りではない。もっと質の悪い、勝った側だけが持てる無邪気さだ。
「だからとっくに話は終わっている! 俺の為すべき事はした。これ以上あいつの怒りを解く義理は、もう俺にはない!!」
そして、強者の理屈を口にする。
持っている者だけが平然と振りかざせる残酷な正論。
「負けた者が勝った者を恨んで、なんの意味があるのだ!」
その問いは、慰めでも諭しでもなかった。
ただ勝者が敗者へ向ける、無神経な確認にすぎない。
帝釈天を掴む炎獄の手に力が入る。
「……てめえの尻拭いさせられる身にもなれよ。全部お前が言って良い台詞じゃねえだろうが」
「ほう、地の鬼如きが天帝の俺に喧嘩を売るか!」
帝釈天はそこでようやく、炎獄の怒りを面白がるみたいに目を細めた。
「そう怒るな! 閻魔に捨てられた八つ当たりを俺にするのはお門違いだぞ!」
「……んだと、てめえ……!!」
炎獄のこめかみが引き攣る。
天望は帝釈天に担がれながら、炎獄が地獄の鬼である事をそこで思い出した。
炎獄の足元から炎がゆらりと上がり、周囲の空気を一段熱する。
「誰が……捨てられただと……」
「なんだ、図星か! まあ炎など地獄ならば腐るほどある! 鬼など所詮現象にすぎん、生き物でもないお前が気に病む事はないぞ!」
「て……っめえ……!!」
怒りだけではない。存在そのものを値踏みされたような不快が、炎獄の骨の内側にまで染みた。
悪気が無いで許せる境界を易々と越えている。
だが、天望は帝釈天の言っている意味が掴みきれないままだった。
「……生き物でも、ない……?」
「おお、知らなかったか?」
帝釈天は悪びれもなく、肩の上の天望を抱えなおして炎獄の方向へ向けた。
「鬼は風や雨と変わらん、地獄の現象のひとつよ!」
「……現象……?」
「そうとも!! あの炎獄鬼が燃え尽きても、また新たな炎獄鬼が生まれ出る! 輪廻すらせん、消え失せるだけの鬼は、地獄という場所の道具よ!」
帝釈天の声を聞きながら、天望の目が炎獄をなぞる。
鬼の形をしたその身体を、初めて“そうなるしかなかったもの”として見ていた。
「……炎獄」
「…………」
炎獄は天望の視線を受けきれず、わずかに顔を背ける。
金棒を握る指に力が入ったぶん、言い訳の言葉さえどこにも出てこなかった。
「人を痛めつけるためだけに生まれた炎、それが“炎獄鬼”という現象!」
「……うるせえ……」
「一度閻魔の補佐官などと不相応な立場を得たから図に乗ったらしいが、俺に喧嘩を売れるような身の程ではないことは覚えておいた方が良い!!」
炎獄はまだ露骨に怒気を剥き出しにしているのに、歯を食いしばるその横顔は、怒りより痛みの方が先に目につく。
天望は思い出す。いつだってそうだった。炎獄は誰かに怒った後、いつも小さく舌打ちをしていた。
そうすることしか出来ない自分を、嫌悪するような。
「……帝釈天様、降ろして下さい」
「お?」
「降ろして下さい!!」
帝釈天の耳をぎゅぅっと引っ張り、帝釈天が思わず「ぁ痛ッ!?」と鳴いた。
帝釈天は言われるがままに天望を肩からずるりと滑らせるように下ろすと、天望が軽く服を直し帝釈天と炎獄の間を押し除けるように二人の距離を両手で押し離す。勢いに押され、二人とも少し後ずさった。
天望は帝釈天の方へ体を向けると、見上げながら腕を組んだ。
「帝釈天様。訂正してください。炎獄は炎獄です。」
「お? おぉ」
「うちの上司馬鹿にされて、私怒ってます。炎獄が怒っていいって言ってくれたので、怒ることにしました」
「む……」
天望は、今度はくるりと半回転して、炎獄へと向いた。
炎獄がほんの一瞬身を硬くする。構わず、天望は炎獄の前まで足早に進んだ。
「炎獄、あなたを閻魔様が捨てたなら私が拾います。こんな良い拾い物ありませんよ」
炎獄が目を見開く。いつの間にか、炎獄を纏っていた炎は静まっていた。
「あなたのオッズは私が決めます。あなたに価値がないなんて、言わせません」
天望が炎獄の手を取る。熱い、鬼の体温。
天望が両手で炎獄の片手を握り、拳を作らせるように包み込んだ。
「あなたの力は、痛めつけるためだけじゃない。あなたの火は焦がすためじゃなくて、誰かを照らすものです。だから」
天望が顔を上げて、炎獄の目をまっすぐ見た。
「正すために、一発ぶん殴っていいです。あのバカ筋肉」
そう言って、天望が炎獄の手を離す。
炎獄はしばらくそのまま、形を崩せなかった。
胸の奥で暴れていたものが、不意に置き場所を見つけたようだった。
怒りとも痛みともつかない熱が、今はただ静かに沈んでいく。
天望が炎獄の後ろへ回ったのを確認して、炎獄が顔を伏せてふっと息を吐く。
「なんだそれ……」
低く吐いた声は、呆れ半分、笑い半分だった。
軽く俯いたまま、目だけが帝釈天を捉える。
「なあ帝釈天、お前、なんでてめえが人怒らせんのかわかってねえだろ」
さっきまで胸の奥に渦巻いていた重たいものが、今は妙に澄んでいる。
代わりに残ったのは、まっすぐな闘志だった。
「教えてやるよ、地獄式でな」
一瞬の静寂。
その次の瞬間、帝釈天の口角がぐいと吊り上がった。
「……良い顔になった!」
帝釈天が金剛杵を構えた途端、滞留していた静電気がばちんと爆ぜる。
帝釈天が地を蹴った。踏み込みだけで大地が陥没する。
白い湯気が爆風みたいに吹き飛び、温泉の湯面が一瞬で持ち上がった。
重いのに速い。天帝の理不尽な質量が、そのまま突っ込んでくる。
炎獄は逃げない。足を半歩引いて腰を落とし、金棒を片手で持ち上げる。
「鬼……舐めんな!!」
低く吐いた声と同時に、炎獄の足元から橙の炎が噴き上がる。
業火だった。煙草に火をつけるような可愛い鬼火ではない。地獄で何もかも焼き尽くすためにある炎。
金剛杵と金棒が、真正面からぶつかる。
轟音ではなく、衝撃が走った。
足元の大地がめくれ、温泉の湯が柱みたいに空へ吹き上がる。
帝釈天の顔に、初めて純粋な驚きが走り、次の瞬間には、歓喜へ変わる。
「いい!! 好みだ!!!」
「俺は嫌いだクソ野郎!!」
雷光が迸る。帝釈天の背後に巨大な雷輪が浮かび上がる。
炎獄の金棒が地面を抉って振り上げられた。
その時。
シャン、と軽い金属の擦れる音が修羅道に響く。
「争いは、争いを生みます」
再度、軽い金属音。
陽炎の向こうに、揺れる数珠の房と、丸く落ちる笠の影。
一歩一歩歩みを進めるたび、錫杖が地面を叩いて清浄な音が辺りを包む。
「その怒りもまた、業の一つです」
地蔵の法衣の袖が揺れ、袈裟が地獄の熱風を受けて靡いていた。
錫杖が地を打つたび、二人の間に走っていた殺気が少しずつ削がれていく。気づけば、どちらも次の一歩を踏み出せなくなっていた。
地蔵がすっと立ったのは、炎獄の前だった。
穏やかで、全ての罪を浄化するような柔らかい表情で見上げる。
「炎獄鬼……」
地蔵はゆっくりと錫杖を両手に持ち、軽く天へ掲げた。
いや、掲げたというより、振り翳した。
そしてどこまでも柔らかく、どこまでも仏らしい落ち着いた声音で、一言。
「てめえがキレてどうすんだよ」
瞬間、炎獄の視界が揺れた。ゴシャァン!と硬い音が響く。
軽く振られた錫杖が炎獄の頭にクリーンヒットし、そのまま炎獄の体が横にすっ飛んで地面に叩きつけられる。
そこまで大きく振りかぶった様子も、強く殴ったようにも見えなかった。だが、一瞬で炎獄はバランスを崩し車にでも轢かれたのかと思うほど飛んだ。
ぎょっとした顔のまま、天望は地蔵と炎獄と帝釈天を順番に見た。
帝釈天さえ、ぽかんと口を開けたまま呆気にとられている。
この場の誰もが状況の整理が追いついていない。
炎獄が痛む額を抑え、混乱のままたじろぐ。
「いっ……てぇ……!! は!?」
「お、お、お地蔵様……??」
困惑する皆の前で、地蔵の影がその身を包んだ。
地蔵の清らかな慈悲の気配が変質していく。
香のような、血のような、どちらともつかない気配が薄く漂った畏怖。
「黙って聞いてりゃどいつもこいつも調子に乗りやがって」
湿っているようでいて、それなのに乾いていて、妙に華やか。
場にいる全員に俺を見ろと言わんばかりの圧で、冠や衣より先に王である事を魂に突き付けてくる。
「バカどもがよ」
それは地獄そのもの。閻魔がその場に立っていた。




