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23話 選んだ怒り

 修羅道の地面は乾いて硬く、踏むたびに細かな砂が靴の裏で鳴る。

 上へ行くほど風が強くなる。温泉予定地の湯気も、ここまでは届かない。

 ただ熱だけが、遠くの地鳴りみたいに足元からじんわり伝わってきた。

 天望と炎獄が高台の縁まで辿り着いても、阿修羅は下を見ていた。

 二人に気づいていないわけがない。それでも振り向かなかった。

 見下ろしているのは荒れた大地か。争い続ける亡者達か。

 天望が小さく息を吸った。


「阿修羅様」


 ようやく、六つの腕のひとつが僅かに動く。

 振り向きはしないまま、低い声だけが風に落ちた。


「……何で温泉なんだ」


 問いかけというより、独り言の続きを拾わせるような声だった。

 天望は一瞬だけ炎獄を見て、それから阿修羅の背へ向き直る。


「癒しが必要だと思ったんです」

「癒し」


 短く返る。そこに嘲りはない。ただ、馴染みのない言葉を口の中で転がしただけの響きだった。


「修羅道の皆さん、ずっと怒ってるじゃないですか」

「そういう場所だ」

「でも、怒り続けるのって疲れませんか」


 風が吹く。

 阿修羅の長い髪が大きく揺れ、その隙間から覗いた横顔は、ひどく静かだった。


「疲れる、か」


 六本の腕のうち一本が、己の肩を掴む。

 力を込めているわけでもないのに、その仕草だけで、背負ってきた時間の重さが滲む。


「怒りは燃える。燃えている間は、自分がまだここに在るとわかる」


 低い声が、乾いた大地へ落ちる。


「だが、燃え尽きた後の灰は、存外冷える」


 その言葉に、炎獄だけが少し眉を寄せた。


「……なんか残るだけいいだろ」


 阿修羅がそこで、ようやく炎獄の方を向いた。


「灰でも、煙でも、残るもんがあんなら、無駄な事なんかねえよ」


 阿修羅は答えなかった。

 風が通り抜け、修羅道の乾いた砂が舞う。

 炎獄は少し間を置いてから続けた。


「でももうあんた、自分でもわかってんだろ。怒り続けても意味ねえって」


 阿修羅がまた、荒れた大地を見下ろす。


「それが俺の正義だからだ」


 迷いのない声だった。言い聞かせたわけでも、誇ったわけでもない。ただ事実を述べただけ。


「御伽噺のように正義が勝つとは限らん。そして、正義同士がぶつかる事で争いは起きる。それも……わかっている」


 阿修羅は握った拳を見つめる。


「それでも、俺は許せん。許してはならんのだ。たとえ天を追われようとも、仏になれずとも」

「……阿修羅様」

「温泉が出来ようと俺はどうでもいい。勝手にしろ」


 阿修羅は岩場から降り、天望と炎獄の間を抜けて立ち去った。


「……ま、許可は降りたってことでいいんじゃねえか」

「そう、ですね……」


 天望が阿修羅の去る背中を見つめる。六本の腕が揺れ、長く影が伸びていた。


「阿修羅様、怒ってない時はあんなに穏やかなお顔でいらっしゃるのに……」


 崖の下では、亡者達の怒号と、獄卒達の働く音が響いていた。


 それからしばらくして、修羅道の端に湯気が立った。

 怒号と金属音ばかりが似合う場所の一角から、白く柔らかな湯気がもくもくと立ちのぼっている。

 しかも、硫黄でも血でもない、妙に落ち着く白檀の匂いまでした。

 亡者が湯船の縁に突っ伏すようにして、だらしなく顎を乗せている。

 別の亡者は肩まで浸かったまま、目を半分閉じていた。

 誰も喋らない。ただ、とろけたみたいな顔で湯に沈み、時折気の抜けた息だけが漏れる。


「……極楽……」


 誰かが、思わずそう呟いた。

 怒鳴り声でも悪態でもない、ただ湯の熱に溶けた声だった。

 豪華なものではない、木で組まれた簡素な湯屋。

 屋根は最低限、壁も最低限。見栄えに贅沢をする余裕などない。

 地熱を通した湯は絶えず湯船へ注がれ、縁から溢れた湯が溝を伝ってまた地下へ戻っていく。

 湯の表面を、白い湯気が滑るように漂って風に流れていた。

 湯屋の入口で、天望が胸を張る。


「まあ、成功で良いんじゃないですか」

「まだ仮営業だけどな」

「この光景を見れば十分でしょう」


 炎獄は否定しなかった。

 入口には乱暴な字で札が掛かっている。

 “獄楽湯”


「うん、安直っ」

「俺が決めたんじゃねえし」

「わかりやすくていいですけどね」


 天望は唇を尖らせながらも、湯気の向こうを見て少しだけ目を細めた。

 湯はちゃんと張られている。温度も一定。獄卒たちの突貫工事にしては上出来だった。

 薬湯の匂いが、修羅道の乾いた風に混じる。

 張りつめていた肩が落ち、握っていた拳がほどけ、湯の中で力なく指先が揺れる。

 だがもちろん全員が全員素直に受け入れたわけではない。

 修羅道の亡者たちの中には、露骨に顔をしかめる者もいた。


「……天人の作ったもんだろ」

「極楽の手先がよ」

「どうせ何か企んでんだ」


 好き勝手に囁き合う声が、乾いた風に乗って流れていく。

 だが、言いながらも、何人かは鼻先をひくつかせていた。

 温かい湯の匂いは、それだけで警戒を鈍らせる。

 怒っていようが、恨んでいようが、冷えきった身体と張りつめた神経は、湯気を前にするとどうしても一瞬揺らぐ。

 天望はその揺れを見逃さなかった。

 すう、と一つ息を吸い、両手を口元へ当てる。


「どうもー!! 獄楽湯でーす!!」


 亡者たちの肩がびくりと跳ねた。

 炎獄が横で顔をしかめる。


「そのテンションで行くのかよ」

「最初が肝心ですよ!」


 そう言って天望は胸を張り、湯屋の前へ一歩出た。


「利用は自由! 強制一切なし! 入浴一回、なんと無料!」

「無料……?」

「なんと! あの薬師如来様監修! 心身安楽、疲労回復、苛立ち緩和! 美容に病気治癒にメンタルヘルスまで!」


 薬師如来が印刷されたポスターを天望が張り出す。

 亡者たちはまだ疑っていた。だがその疑いの隙間に、別の感情が少しずつ入り込んでいる。

 怒りでも敵意でもない、もっと単純なもの。

 湯気の向こうを見てしまう、人として当たり前の欲だった。

 修羅道の空に、白い湯気がのぼる。

 怒りで煮えたぎるばかりだった荒野に、その日初めて、別の熱が生まれていた。


「な、なにが温泉だ! 俺たちの場所を好き勝手しやがって!!」

「ところがどっこい! なんとこちらの土地はあなたたちのものではありません!!」


 亡者がぐぅ、と唸る。


「如来三尊、加えて閻魔大王のお墨付き! 温泉の前では天も地獄もありません! ゆったりたっぷりのんびり!」


 天望はにこやかに亡者へ近寄り、刷ったばかりのチラシを押し付けた。


「だから……お前の作ったもんなんて……」

「あの! 聞きたかったんですけど、私あなたになんかしましたっけ!?」


 亡者が目を見開いた。先日震えて泣き帰った天女から、まさか反撃されると思っていなかったのだろう。

 亡者は口を開きかけたが、それが言葉になるより早く天望の追撃が飛ぶ。


「多分お会いするの初対面か2回目くらいだと思うんですけど、そんなに恨まれるほどあなたと関係構築しました!?」

「……だから、天は阿修羅様を……」

「私、帝釈天様に見えます!? ていうか帝釈天様もあなたになんかしたんですか!? 阿修羅さんが可哀想なの、あなたになんか関係ありますかね!?」

「ギャンブルやってる天女なんかどうせ不正……」

「証拠ありますかそれ!? ていうかギャンブルってダメなんですかね!? 私が悟れないだけでなんか迷惑かけてます!? あ、悟って欲しいから怒ってるみたいなことですか!? 私にめちゃくちゃ期待してくれてるって事でいいですか!?」


 亡者の顔に、あきらかな困惑が浮かぶ。自分が責める側だったはずなのに、気づけば追い詰められていた。

 遠巻きに見ていた亡者たちまで、一瞬だけ声を失う。天望はそこでようやく息を継いだ。


「お湯に罪はないんで、ぜひ浸かってってください!」


 天望がにっこりと亡者に微笑む。極楽観光課仕込みの天女の笑みは、営業百%だがよく効く。

 さすがの炎獄も、今は口を挟まなかった。挟む隙がなかったとも言う。

 怒っていいとは言ったが、煽っていいとは言ってない。


「……出来たのか」


 修羅道の乾いた地を、阿修羅が音もなく踏んでくる。

 荒々しくもなく、急ぎもしない。ただそこへ向かって歩いてくるだけなのに、誰もが道を空けた。


「阿修羅様、おかげさまで!」

「そうか」


 阿修羅が温泉施設をじろりと見渡す。

 遠巻きにしていた亡者たちのざわめきが、すっと細った。


「……温泉……か……」


 阿修羅は湯屋を前に、怒るでも笑うでもなく立ち尽くした。

 その声は呆れたようにも、感心したようにも聞こえた。

 すかさず天望に絡んでいた亡者が声を上げる。


「阿修羅様! 天人なんかの良いようにされていいんですか! こんなんで絆されちまって、復讐するんじゃねえんすか!?」


 阿修羅は亡者をじっと見た。三つの顔が視線を止める。


「僕は選んでここに居る。許されるより、怒り続ける事を選んでいる」


 阿修羅は湯船に浸かっている亡者たちを見て、それからひどく静かな声で呟いた。


「天へ戻るよりも、あのクソ筋肉をボコボコにする方が大事だ。だがそれに君たちを巻き込むつもりはない。怒りが晴れるなら、それに越したことはない」


 亡者はそれから、何も返してこなくなった。納得しているのかいないのか微妙な顔で、手の中のチラシをぐしゃぐしゃに握ってその場から去る。

 阿修羅は看板の文字を読み、肩の力を抜くでもなく、ただ小さく零した。


「……迷惑をかけた。すまない」


 それだけ言って、阿修羅はしばらく無言で湯屋を眺めていた。


「いえ、許せない事ってあります。阿修羅様がそれで良いなら、いいんです」


 天望が阿修羅へ駆け寄り、チラシを一枚手渡す。


「阿修羅様も、いつかご利用下さい。すぐである必要はないと思うので。お湯、逃げませんし」


 阿修羅がチラシを受け取る。ポップな装飾で楽しげにデザインされた、修羅道の施設とは思えないそれに、阿修羅はほんのわずかに口の端を上げた。


「ああ、そうだな。あのゴミを打ちのめした後に入る風呂は、さぞ心地良いだろうな」


 天望がウッと息を詰める。阿修羅は視線を白い湯気の向こうに向け、指を鳴らした。


「奴を殺して風呂に浸かり、祝盃を上げるのは悪くない。……いかん腹が立ってきた。行くか」


 そう言って阿修羅は一度屈伸して、次の瞬間には走り出していた。

 天望と炎獄が顔を見合わせる。


「……追います?」

「いや、あいつらにしかわかんねえもんとか、あんだろ多分。知らねえけど」


 阿修羅の怒りが解ける日が来るのかどうか、誰にもわからない。

 だがいつか、阿修羅がゆっくり肩まで浸かる日が来るのかもしれない。

 そんな予感を胸に、天望が顔を上げた。その時。


「おぉ、本当に出来たらしいな!! これは良い!!」


 底抜けに明るく、圧の強い声。

 修羅道の亡者も、炎獄も言葉を失った。


「……帝釈天様……!?」


 何もかもの元凶が、目の前にやってきたのだから。

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