21話 怒って良い
翌日の中陰は、やけに静かだった。朝だというのに、光は薄い。
晴れているのか曇っているのかも曖昧なまま、白い靄だけが堂の周りをゆっくり流れていた。
獄楽部輪廻転生推進課の木札は、昨日と同じように斜めに掛かっている。
炎獄はいつもより少し早く来ていた。
机に肘をつき、湯呑みの中で冷めかけた茶を見下ろしている。
書類は開いたまま、ほとんど進んでいない。
堂の外で足音がした。
観音開きの扉が開き、天望が入ってくる。
いつも通りの顔だった。髪も、衣も、乱れなく整っている。だが、目の下にだけ薄く疲れが残っていた。
「おはようございます」
いつもの表情。いつもの敬語。
炎獄はその声を聞いてから、ようやく顔を上げた。
「……おう」
天望は炎獄の返事に少しだけ足を止めたが、すぐに何事もなかったように自分の机へ向かう。
「お休み、ありがとうございました」
「……ああ」
天望が荷物を置き、椅子を引き、座る。
書類の紙を捲る度に、擦れる音がした。
中陰の堂は狭いのに、なんだか今朝は妙に遠い。
炎獄が湯呑みに口をつけたが、もう茶は冷めていた。それでも一口飲んで、置き、また持ち上げる。飲むためではなく、手の置き場を探しているみたいだった。
「やっぱり、修羅道詰まってますね」
天望が転生保留リストを眺めながら言った。
修羅道、という単語だけが少し硬く落ちる。
「少しずつでも輪廻に乗ってもらわないとこのままだと新規受け入れが難しくなっちゃいますし、なんとか方法は考えないといけませんよね、それに――」
「天望」
仕事の段取りを読み上げようとする声を、炎獄が低く遮った。
上っ面で滑るような、何でもないふりが白々しくて、炎獄には耐えられなかった。
天望が顔を上げると、炎獄は天望の目をじっと見る。
炎獄は角の付け根を二度掻いた。苛立っている時の癖だが、今は怒っているわけでもなく、ただ言葉の出し方がわからないだけだった。
少し間が空いて、炎獄が息を吸った。
「怒っていいんだぞ」
声は低く、顔も険しいままだった。それでも炎獄は天望をまっすぐ見ている。
天望の喉が、言葉を作る手前で止まった。
口を開きかけたまま、何ひとつ出てこない。
ただ、風に煽られた前髪が視界をかすめて、それすら遠い。
「ムカつくならキレていいし、許せねえ奴がいるなら許さなくていいんじゃねえの」
そこまで言って、炎獄は一瞬言葉を切る。
勢いではなく、ちゃんと届く言葉を探しているようだった。
「過ぎたことかどうかは、周りじゃなくてお前が決めりゃいい。阿修羅に何も言えねえとかも考えなくていい。お前はお前で、あいつはあいつだろ」
天望が炎獄を見る。半開きの唇から、息だけがかすかに漏れた。
炎獄は天望の視線を受けて、不器用に眉を下げる。
「悪い、俺あんま上手く言えねえな……」
炎獄がわざわざ言葉を選んでいる。
それだけで、天望には十分だった。ああ、そうか、と遅れて理解が落ちてくる。
「炎獄、なんか聞きました?」
「…………あー……いや……悪い」
炎獄が気まずそうに視線を外すと、天望の表情もわずかに止まった。
「あんまり愉快な話でもなかったでしょう?」
「ああ、まあ」
炎獄の顔が露骨に曇る。
「すっげえムカついた」
そう言う炎獄の口の端は、下がって牙が見え、顔の真ん中が不機嫌に縮んでいた。
天望が瞬きを忘れる。その怒りは、天望に向けられたものではない。だからこそ、天望は余計に面食らった。
「……なんで炎獄が怒ってるんですか」
「いや腹立つだろあれ。お前の事何だと思ってんだよ。お前の親父も兄貴も村人も意味わかんねえ。勝手しやがってクソ坊主ども」
炎獄が指で前髪を押し上げて乱暴に後ろへやる。
釈迦に言った言葉は何だったのか。頭で分かっていても腑は煮えていた。
思い返せば返すほど虫唾が走る。
「あんな奴ら全員地獄だろ」
炎獄の視線が一瞬だけ泳ぐ。今のが余計だったことに、遅れて気づいたようだった。
「……悪い、お前の家族だよな」
炎獄の表情が、ひどく不味いものを噛んだように歪んでいる。
「いえ、大丈夫です」
天望は一度だけ息を吸い、すぐには吐かなかった。
胸の奥で引っ掛かっていたものを、どうにか言葉の形へ押し出そうとしている。
しばらく黙ったあと、天望はようやく唇を開く。
「私、生まれてきちゃいけなかったんだって思ってたんです」
天望の声は穏やかだった。
「生まれた時から愛されてなかったので。父上がこちらを見てくれた事、一度もなかったですし。きっと皆、私を何かの駒だと思っていたんでしょうね」
淡々とした口調で天望は語る。だんだん頭が下を向いて、髪が顔を覆うように肩から滑った。
「だからせめて、役に立とうと……誰かのためになれるなら、それは幸せな事なんだと……」
天望が少しだけ黙ると、机の下で組んだ指先が、ぎゅっと皮膚に皺を作る。
「でも死ぬ時、何で私が、って思っちゃったんです」
言葉尻が震えた。それでも、口は止まらなかった。
「死ぬの、怖くて。死にたくなくて。なんで死ななきゃいけないんだろうって。私が何をしたんだろうって」
天望の目から一粒ずつ涙が溢れて落ちていく。頬を伝い、顎から水滴が滴る。
「うん」
炎獄が頷いて、それだけ言う。
天望が手の甲で涙を拭うのを、ただ黙って見ていた。
「神でも仏でも誰でも良いから、助けて欲しかった」
「うん」
「そしたら、本当にお釈迦様が助けてくれちゃったんですよね。凄くないですか、私。だから今度は私が、お返ししなきゃって……」
いつの間にか、炎獄は天望の横で膝をついて目線を合わせていた。
座る天望の背中をゆっくりさする。
「ちゃんと凄いよ、お前は」
鬼の高い体温がじんわりと天望の背に伝う。
天望が炎獄の方を向く。息を吸い、吐く度に震える。
天望の手が炎獄の羽織をぎゅっと握った。
「ああ……そっか、私、嫌だったんだ……」
その言葉が落ちた後、堰を切ったように天望は泣いた。
子供のように、何度か途切れた息を吐きながら、声も呼吸もぐしゃぐしゃにして、ぼろぼろに嗚咽をあげた。
炎獄が天望の身体を引き寄せる。
肩を抱くようにして、倒れ込んできた天望をそのまま胸元へ収めた。
「こわかった」
「うん」
「みんな私が死ねばいいって」
「んな訳ねえ」
「しあわせに、なりたかった」
「うん」
炎獄が天望の背中を叩く。一定の間隔で、あやすみたいに軽く。
「うぇ、え、ぇっ」
天望が炎獄に顔を埋めたまま、しゃくりあげる。
炎獄は抱く力を少しだけ強めた。
「……うん」
それしか言わない。
それしか言わないのに、泣いていいのだと、そう言っているみたいだった。
天望の泣き声が薄い堂の壁に当たってやわらかく返り、中陰の静けさの中で広がっていく。
泣くまいとして余計にしゃくれる息を、炎獄は急かしもせず、ただ背中を撫でて受け止める。
炎獄は、その間ずっと腕を緩めなかった。
やがて天望が炎獄の胸元に顔を押しつけたまま、小さく息を吸う。
泣いたあとの熱がまだ声に残っていた。
「……なんか、すっきりしました」
炎獄は少しだけ手を止めて、それからまた背をさすった。
「おう」
短い返事だった。
天望は炎獄の羽織を握っていた手の力を少しだけ緩める。
「ムカついてたんですね。私」
言ってから、自分で少しだけ可笑しくなったみたいに、天望の肩が震えた。
笑ったというより、泣き終わりの息にたまたま笑いが混ざったような揺れ方だった。
「そりゃそうだろ。あんなん」
炎獄があまりにも当然みたいに言うので、天望は今度こそ少しだけ笑った。
「……ふふ、そうですね。でも、炎獄の方がキレてるんですもん……なんか、だから、ふふ」
天望がようやく顔を上げる。目元も鼻先も赤くなっていて、ひどい顔のはずなのに、炎獄にはさっきよりずっとましに見えた。
「……ありがとうございます、炎獄」
真正面からそう言われて、炎獄は一瞬だけ言葉に詰まる。
こんな時に何を返せばいいのか、やっぱりよくわからない。
だから結局、ぶっきらぼうに肩を竦めるしかなかった。
「別に。なんもしてねえよ」
そう言いながらも、天望の背に置いた手だけはまだ離さなかった。
天望はそのまま、もう一度だけ炎獄の胸元に額を預ける。
今度は泣くためではなく、ただ少しだけそうしていたかった。
少し焦げたような匂いがする。中陰の堂は、もうさっきまでみたいな苦しい静けさではなかった。
窓の外を白い靄がゆっくり流れていく。
炎獄は天望の髪に触れないよう気をつけながら、もう一度だけ背中をぽん、と叩いた。
「落ち着いたか?」
「はい、お手数おかけしました」
天望の背から炎獄の手が離れて、天望が指で目元に残った涙を拭う。
天望は机の中から小さな鏡を取り出して、ぐしゃぐしゃの顔を少し整えた。
「怒るのって体力使いますね。なんか、もう疲れました」
「あー、そうだな」
「皆疲れてるんですね、きっと」
鏡の中で、天望の瞼が開く。
「阿修羅様も……修羅道のみなさんも……」
天望が鏡を下ろす。
天望の顔が、ゆっくり炎獄の方へ動いた。
「炎獄、あの、炎獄って地獄で何担当してたんですっけ?」
「は? 閻魔の裁判補佐だっつの」
「その前は? ほら、なんか言ってたじゃないですか、真鍋さんの時に」
「その前……現場管理……獄卒の指導と血の池の温度調整とかか……?」
訳がわからないという顔をしている炎獄を尻目に、天望が立ち上がる。戸棚からファイルを取り出し、突然ばたばたと何かを探し始めた。
「……電話番号……直接は無理か……いや、お釈迦様経由すれば多分いける……」
「おい、何を」
「炎獄、ちょっと試したいことがあるんです、協力してください」
「試したいこと……?」
天望は書類をぱちんとバインダーに挟み、小脇に抱えて振り返った。
「仏ってのはこういう時のためのもんですよ!」
まだ赤い目のくせに、天望の声はすっかり力強かった。
炎獄はただ、ぽかんと口を開けていた。




