20話 彼女が天女でなかった頃
極楽はあまりにも整いすぎていた。
磨かれたような透き通った水面、塵ひとつ落ちていない回廊。
風は柔らかく、金色の粒が時折煌めく空は、どこまでも明るく、影まで淡い。
回廊の向こうを、天女たちが白い衣を揺らして通っていく。
美しく穏やかで、争いとは無縁の世界。
それが、炎獄には吐き気のするほど居心地が悪かった。
「慣れねえんだよな……」
肌に合わないとしか言いようがない。地獄の血の匂いの方が性に合っている。
中陰はまだマシだ。彼処も穏やかと言われれば確かに穏やかだが、ここまで“善”ではない。
極楽に居ると、炎獄は鬼である自分の醜さを突きつけられるような気分になった。
「……で、どこに居んだ……」
「私をお探しでしょうか」
「うおっ!?」
炎獄の背後に、気配もなく釈迦が立っていた。
いつから、とか、どこから、というのを釈迦に問う方が野暮だ。
なんたって、釈迦は如来なのだから。
「急に出てくんなよ……びっくりすんだろ……」
「それは失礼。随分私を探していらっしゃる様子でしたので急いで参りました」
「そりゃどーも……次から探したくねえからあんた普段どこに居んのか教えとけ」
「極楽にはおりませんよ」
「は?」
「ここ、阿弥陀の浄土ですから。私は私の浄土におります」
「……」
炎獄がめんどくせえな、と思った事さえ、釈迦は見通しているのだろう。
慈悲深そうに見える微笑みが、かえって感情を読ませなかった。
「それで、ご用件は」
釈迦が蓮池のふちをゆっくり歩きながら聞くと、炎獄は一度奥歯を噛んだ。
釈迦の前まで来ておいて、まだ口に出すべきか一瞬躊躇したのは、軽い気持ちで聞いていい話ではないことくらい、もうわかっていたからだ。
仏像めいた静かな笑みが、炎獄に向けられたまま言葉を待っている。
炎獄は視線を落とし、ひとつ息を吐いた。それからようやく、痛む場所に自分から手を突っ込むみたいに口を開いた。
「……天望の事を、知りたい」
ぶっきらぼうな言い方だった。だが、投げやりではない。知らなければならないと思っている声だった。
「あんたがあいつを救った……って聞いた。けど、あいつはそれを、負い目みてえな顔しやがる」
「……」
金の瞳が、炎獄の顔をまっすぐ捉える。
答えるかどうかではなく、この鬼がその答えを抱えきれるかを見極めているようだった。
「炎獄鬼、あの子の苦を、共に背負いますか」
その一言の後、釈迦は炎獄から目を逸さなかった。
続きを渡すかどうか、最後の一拍を測るように。
「知らぬ時に戻る事は出来ません。それでも知りたいのですか」
知れば、天望を見る目が変わるかもしれない。
そう思っても、炎獄は引かなかった。
知らないまま隣に立つ方が、炎獄にとって耐え難かった。
「後で聞かなきゃ良かったって思うかもしれねえけど」
炎獄は低く吐き捨てるみたいに言う。
「……今は、俺があいつの責任者だ」
釈迦が頷く。たったそれだけの仕草で、その場の空気がひとつ整った。
「よろしい。では説きましょう。天望天女が、人の身であった時、彼女がどう生き、どう感じたか、その全てを」
釈迦が炎獄に手を翳す。
ゆっくりと瞼を開き、まるで経を読むような静けさで語り始めると、炎獄の脳裏に記憶の断片が駆け抜けた。
*
生まれた村は、裕福ではなかったが、川に囲まれ、緑の多い穏やかなところだった。村の唯一の寺で産まれた時、女だった事に父は落胆したらしい。
優しい母と、厳格な父。兄が一人。
父は「慈悲とは情ではない」といつも言った。
仏壇の前で母が黙って頭を下げると、その横で父は経を唱えていた。祈り方さえ、違っていた。
十の頃には読経ができるようになった。
父が毎日仏の前で叩く木魚の音に合わせて、本堂の隣で一緒に唱えた。
母はそんな私を見て、頭を撫でてくれたのを覚えている。得意になって、村人の前でも唱えた。良い声だと褒めてくれた。それを見た父が満足そうにしていた。嬉しかった。兄だけはいつも、難しい顔をしていた。
ある日、兄が父に叱責されているのを見た。お前は跡取りであるのに、何故満足に経のひとつも覚えられないのかと。兄が真面目に仏に向かうのを、見た事はなかった。
時折街に出ては、薄く笑いながら酒の匂いをさせて帰ってきて、決まってこう言った。「女の癖に」と。
静かな夜だった。山の上の寺は、風の音すら吸い込んでいた。
灯明の火が小さく揺れ、木の床は冷たく湿っていた。
襖の向こうで、軋む音がした。足音。ひとつ、またひとつ。
僧衣の裾が、闇の中で擦れる。口元に笑いのようなものを浮かべて、兄の手が枕元に伸びてきた。
着物の裾から腿に入り込む、ぬるい感触。声を出すな、と兄は言った。何故かはわからなかった。ただ、身の毛がよだった。
その時、ぱん、と火の粉の爆ぜるような音がした。
「仏の家に生まれて、何をしているの」
母の声が震えていた。怒りでも、恐怖でもなく。まるで泣きそうに見えた。
兄は何も言わず、唇を噛み、そのまま奥の間へと逃げていった。
母の腕は、どこまでもあたたかかった。声が耳の奥で響く。
「上を向きなさい」
その言葉だけを覚えていた。それだけに縋って生きた。
それから数年経ち、私は十五になった。
隣の村の青年と、縁談の話が出た。
挨拶にと、良い反物と、それから立派な馬をくれた。隣の村は、こちらよりもずいぶんと裕福らしい。
父は笑っていた。母は少し心配そうな顔をしていた。
そうして、顔も名前も知らない人のところへ輿入れが決まった。寺の壊れた雨樋と、村長の家が新しくなった。
しかし、その年の夏はひどく疫病が流行った。
暑くなる前に、雨が降らなかったのだ。
輿入れするはずだった青年は、病で呆気なく召されてしまい、幸か不幸か、結局どうにもならなかった。
父は経を読んだ。兄もこの頃には読経をするようになっていた。
そして、二十を過ぎた。
不吉と思われたのか、あれから縁談の話もとんと無くなった。
いよいよ剃髪して仏門へ入るか、という年、今度は雨が止まなくなった。
空は常に灰色に覆われ、大粒の雨が隙間無く降り続ける。
田畑は泥で使い物にならなくなり、川は水位を増し、轟音を上げ、今にも村を飲み込まんとする勢いだった。
父は何度も仏に祈った。村人は責を求めた。
そしてこの年、母が往生した。病だった。召される直前、母は細い声で繰り返し言った。
「上を見なさい。天は見ている」
そうして私の手を握ったまま心臓を止めた。
小さくなった母を、寺の裏に埋めた。
雨が降りしきる朝だった。
山のふもとの川は、まだ泥の色をしていた。
小さな堂の奥。藁を敷かれた石の上は、ひんやりと冷たかった。
膝の上には白い布。針の跡がまだ新しい。父の背後に、村人たちが沈黙のまま並んでいた。
「これは村のため。お前の身は、仏の道へ還る」
父の表情は何一つ変わらなかった。
責を求めた村人は、穀潰しの娘を生贄に雨を治める判断を下した。
拒否は出来なかった。ただ、村人と父の前で、頭を下げる事しか許されなかった。
嫁にも行かず、跡継ぎにもならない娘が、村のために死ぬことは名誉だと言い聞かせた。
一人が座れる分だけ掘られた土。
そこに御座を敷き、座禅を組む。
鈴だけを持たされ、頭上に木の板の蓋が閉められる。
息をするために開けられた穴に通る竹筒だけが、外界とのつながりだった。
鈴を鳴らしながら、読経を続ける。
水害による村人の苦しみを一身に引き受け、平穏を願うために。
読経の声と鈴が聞こえなくなったら、それが仏の所へ還った合図になる。
氾濫する川の程近く。暗い土の中は雨の匂いがした。竹筒ひとつぶん差し込む光からだけ、空が見えた。
読経の声を上げる。鈴を鳴らし続ける。線香の匂い。鳥の羽音。雨の名残。竹筒の向こうは、どこまでも遠い。
やがて、声が出なくなった。唇は切れ、顔を上げていられなくなる。鈴の音を鳴らす力さえ、もう入らない。
――ああ、終わる。
最後に天を見た。母の言葉の通り。雨は降っていない。
代わりに月が見下ろしていた。丸く差し込む光が落ちる。
どうして、私が。
産まれた時から愛されなかった。父がこちらを見てくれた事が、一度としてあっただろうか。顔よりも、仏像に向かう背ばかりが浮かぶ。
兄のぬるい手が何をしようとしたのか、幼い頃はわからなかった。今になってやっと、あれの意味に気付く。
母もいなくなってしまった。伴侶は持てなかった。
きっと皆、私を何かの駒だと思っていた。好き勝手に動かして、一度も自分の意志で盤面に立てなかった。
怖い。怖い。こわい。死にたくない。
まだ何も知らない。愛される事も、愛する事も。私が何をしたって言うんだ。何の罪で死ななくちゃいけないんだ。もし、もし望んでも良いなら、この地獄から出して欲しい。南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏。見ているのなら誰でも良い、何でも良い。天へ。極楽へ。
その時、ふと、風が通った。
光が形を持ったような、柔らかいまなざし。その奥に、誰かが笑った気がした。
声ではなかった。けれど、あの時確かに聞こえた。
上を見た。天を望んだ。竹筒の向こうに月が見えた。
今、あの光の続きに立っている。
極楽の風は絹のように薄く、肌を撫でても冷たくない。
*
炎獄は暫く言葉が出なかった。
今見た記憶と、あの軽い天望を、関連付けたくなかった。
だが無情にも、釈迦の声が耳に入る。
「これが、生前の彼女です」
炎獄が拳を強く握る。
ずっと不思議だった。あいつがどうして、妙に人を見抜く力があるのか。
そうしないと、生きていけなかったからだ。
顔色を伺い、何を求められているのか、自分がどう動く事を望まれているのか。
そうやって自分の望みを押し殺し続け、最後まで誰かのためになると信じて、死んでいった。
紙のざらつきが掌に残る。
炎獄の周囲の空気が僅かに焦げる。
釈迦は嘘をつかない。今見せられたものは間違いなく天望なのだろう。
だが、どうしても納得がいかなかった。
――何が成り行きだ。何が大したことはないだ。
――この生が地獄でなくて、なんなんだ。
釈迦が指を組み、少し首を傾けると、肩から髪がさらりと落ちた。
「同情しましたか。それとも、怒りを持ちましたか」
それは返事の中身より、そこへ辿り着くまでの顔を見ている。そんな問い方だった。
「……わかんねえ。けど」
炎獄は値踏みするような視線の前で、言葉を曲げなかった。
濁すこともせず、釈迦の目を正面から受けて口を開く。
「あいつの怒りを、俺が奪っちゃいけねえ。これはあいつ自身の感情だ」
釈迦の口元がゆっくり上がる。素直な笑い方だった。試すような問いの答えとしては、十分だったらしい。
「それでよろしい」
そう言って、釈迦は蓮の中へ姿を消した。
残された炎獄は、自分の手のひらを一度見て、拳を握る。
まだ全部は見えていない。
それでも、次にどこへ行くべきかだけは掴めた。
炎獄はくるりと踵を返し、極楽を後にした。




