↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/29

20話 彼女が天女でなかった頃

 極楽はあまりにも整いすぎていた。

 磨かれたような透き通った水面、塵ひとつ落ちていない回廊。

 風は柔らかく、金色の粒が時折煌めく空は、どこまでも明るく、影まで淡い。


  回廊の向こうを、天女たちが白い衣を揺らして通っていく。

 美しく穏やかで、争いとは無縁の世界。

 それが、炎獄には吐き気のするほど居心地が悪かった。


「慣れねえんだよな……」


 肌に合わないとしか言いようがない。地獄の血の匂いの方が性に合っている。

 中陰はまだマシだ。彼処も穏やかと言われれば確かに穏やかだが、ここまで“善”ではない。

 極楽に居ると、炎獄は鬼である自分の醜さを突きつけられるような気分になった。


「……で、どこに居んだ……」

「私をお探しでしょうか」

「うおっ!?」


 炎獄の背後に、気配もなく釈迦が立っていた。

 いつから、とか、どこから、というのを釈迦に問う方が野暮だ。

 なんたって、釈迦は如来(全知全能)なのだから。


「急に出てくんなよ……びっくりすんだろ……」

「それは失礼。随分私を探していらっしゃる様子でしたので急いで参りました」

「そりゃどーも……次から探したくねえからあんた普段どこに居んのか教えとけ」

「極楽にはおりませんよ」

「は?」

「ここ、阿弥陀の浄土ですから。私は私の浄土におります」

「……」


 炎獄がめんどくせえな、と思った事さえ、釈迦は見通しているのだろう。

 慈悲深そうに見える微笑みが、かえって感情を読ませなかった。


「それで、ご用件は」


 釈迦が蓮池のふちをゆっくり歩きながら聞くと、炎獄は一度奥歯を噛んだ。

 釈迦の前まで来ておいて、まだ口に出すべきか一瞬躊躇したのは、軽い気持ちで聞いていい話ではないことくらい、もうわかっていたからだ。


 仏像めいた静かな笑みが、炎獄に向けられたまま言葉を待っている。

 炎獄は視線を落とし、ひとつ息を吐いた。それからようやく、痛む場所に自分から手を突っ込むみたいに口を開いた。


「……天望の事を、知りたい」


 ぶっきらぼうな言い方だった。だが、投げやりではない。知らなければならないと思っている声だった。

 

「あんたがあいつを救った……って聞いた。けど、あいつはそれを、負い目みてえな顔しやがる」

「……」


 金の瞳が、炎獄の顔をまっすぐ捉える。

 答えるかどうかではなく、この鬼がその答えを抱えきれるかを見極めているようだった。


「炎獄鬼、あの子の苦を、共に背負いますか」


 その一言の後、釈迦は炎獄から目を逸さなかった。

 続きを渡すかどうか、最後の一拍を測るように。


「知らぬ時に戻る事は出来ません。それでも知りたいのですか」


 知れば、天望を見る目が変わるかもしれない。

 そう思っても、炎獄は引かなかった。

 知らないまま隣に立つ方が、炎獄にとって耐え難かった。


「後で聞かなきゃ良かったって思うかもしれねえけど」


 炎獄は低く吐き捨てるみたいに言う。

 

「……今は、俺があいつの責任者だ」


 釈迦が頷く。たったそれだけの仕草で、その場の空気がひとつ整った。

 

「よろしい。では説きましょう。天望天女が、人の身であった時、彼女がどう生き、どう感じたか、その全てを」


 釈迦が炎獄に手を翳す。

 ゆっくりと瞼を開き、まるで経を読むような静けさで語り始めると、炎獄の脳裏に記憶の断片が駆け抜けた。


 *


 生まれた村は、裕福ではなかったが、川に囲まれ、緑の多い穏やかなところだった。村の唯一の寺で産まれた時、女だった事に父は落胆したらしい。

 

 優しい母と、厳格な父。兄が一人。

 父は「慈悲とは情ではない」といつも言った。

 仏壇の前で母が黙って頭を下げると、その横で父は経を唱えていた。祈り方さえ、違っていた。

 

 十の頃には読経ができるようになった。

 父が毎日仏の前で叩く木魚の音に合わせて、本堂の隣で一緒に唱えた。

 母はそんな私を見て、頭を撫でてくれたのを覚えている。得意になって、村人の前でも唱えた。良い声だと褒めてくれた。それを見た父が満足そうにしていた。嬉しかった。兄だけはいつも、難しい顔をしていた。

 

 ある日、兄が父に叱責されているのを見た。お前は跡取りであるのに、何故満足に経のひとつも覚えられないのかと。兄が真面目に仏に向かうのを、見た事はなかった。

 時折街に出ては、薄く笑いながら酒の匂いをさせて帰ってきて、決まってこう言った。「女の癖に」と。

 

 静かな夜だった。山の上の寺は、風の音すら吸い込んでいた。

 灯明の火が小さく揺れ、木の床は冷たく湿っていた。

 襖の向こうで、軋む音がした。足音。ひとつ、またひとつ。

 

 僧衣の裾が、闇の中で擦れる。口元に笑いのようなものを浮かべて、兄の手が枕元に伸びてきた。

 着物の裾から腿に入り込む、ぬるい感触。声を出すな、と兄は言った。何故かはわからなかった。ただ、身の毛がよだった。

 

 その時、ぱん、と火の粉の爆ぜるような音がした。

 

「仏の家に生まれて、何をしているの」

 

 母の声が震えていた。怒りでも、恐怖でもなく。まるで泣きそうに見えた。

 兄は何も言わず、唇を噛み、そのまま奥の間へと逃げていった。

 母の腕は、どこまでもあたたかかった。声が耳の奥で響く。

 

 「上を向きなさい」

 

 その言葉だけを覚えていた。それだけに縋って生きた。


 それから数年経ち、私は十五になった。

 隣の村の青年と、縁談の話が出た。

 挨拶にと、良い反物と、それから立派な馬をくれた。隣の村は、こちらよりもずいぶんと裕福らしい。


 父は笑っていた。母は少し心配そうな顔をしていた。

 

 そうして、顔も名前も知らない人のところへ輿入れが決まった。寺の壊れた雨樋と、村長の家が新しくなった。

 

 しかし、その年の夏はひどく疫病が流行った。

 暑くなる前に、雨が降らなかったのだ。

 輿入れするはずだった青年は、病で呆気なく召されてしまい、幸か不幸か、結局どうにもならなかった。

 父は経を読んだ。兄もこの頃には読経をするようになっていた。

 

 そして、二十を過ぎた。

 不吉と思われたのか、あれから縁談の話もとんと無くなった。

 いよいよ剃髪して仏門へ入るか、という年、今度は雨が止まなくなった。

 空は常に灰色に覆われ、大粒の雨が隙間無く降り続ける。

 田畑は泥で使い物にならなくなり、川は水位を増し、轟音を上げ、今にも村を飲み込まんとする勢いだった。

 

 父は何度も仏に祈った。村人は責を求めた。

 そしてこの年、母が往生した。病だった。召される直前、母は細い声で繰り返し言った。

 

「上を見なさい。天は見ている」

 

 そうして私の手を握ったまま心臓を止めた。

 小さくなった母を、寺の裏に埋めた。


 雨が降りしきる朝だった。

 山のふもとの川は、まだ泥の色をしていた。

 小さな堂の奥。藁を敷かれた石の上は、ひんやりと冷たかった。

 膝の上には白い布。針の跡がまだ新しい。父の背後に、村人たちが沈黙のまま並んでいた。

 

 「これは村のため。お前の身は、仏の道へ還る」

 

 父の表情は何一つ変わらなかった。

 責を求めた村人は、穀潰しの娘を生贄に雨を治める判断を下した。

 拒否は出来なかった。ただ、村人と父の前で、頭を下げる事しか許されなかった。

 嫁にも行かず、跡継ぎにもならない娘が、村のために死ぬことは名誉だと言い聞かせた。


 一人が座れる分だけ掘られた土。

 そこに御座を敷き、座禅を組む。

 鈴だけを持たされ、頭上に木の板の蓋が閉められる。

 息をするために開けられた穴に通る竹筒だけが、外界とのつながりだった。

 

 鈴を鳴らしながら、読経を続ける。

 水害による村人の苦しみを一身に引き受け、平穏を願うために。

 読経の声と鈴が聞こえなくなったら、それが仏の所へ還った合図になる。

 

 氾濫する川の程近く。暗い土の中は雨の匂いがした。竹筒ひとつぶん差し込む光からだけ、空が見えた。

 読経の声を上げる。鈴を鳴らし続ける。線香の匂い。鳥の羽音。雨の名残。竹筒の向こうは、どこまでも遠い。

 

 やがて、声が出なくなった。唇は切れ、顔を上げていられなくなる。鈴の音を鳴らす力さえ、もう入らない。

 

 ――ああ、終わる。

 

 最後に天を見た。母の言葉の通り。雨は降っていない。

 代わりに月が見下ろしていた。丸く差し込む光が落ちる。

 

 どうして、私が。

 

 産まれた時から愛されなかった。父がこちらを見てくれた事が、一度としてあっただろうか。顔よりも、仏像に向かう背ばかりが浮かぶ。

 兄のぬるい手が何をしようとしたのか、幼い頃はわからなかった。今になってやっと、あれの意味に気付く。

 母もいなくなってしまった。伴侶は持てなかった。


 きっと皆、私を何かの駒だと思っていた。好き勝手に動かして、一度も自分の意志で盤面に立てなかった。

 

 怖い。怖い。こわい。死にたくない。

 

 まだ何も知らない。愛される事も、愛する事も。私が何をしたって言うんだ。何の罪で死ななくちゃいけないんだ。もし、もし望んでも良いなら、この地獄から出して欲しい。南無阿弥陀仏。南無釈迦牟尼仏。見ているのなら誰でも良い、何でも良い。天へ。極楽へ。

 

 その時、ふと、風が通った。

 光が形を持ったような、柔らかいまなざし。その奥に、誰かが笑った気がした。

 

 声ではなかった。けれど、あの時確かに聞こえた。

 上を見た。天を望んだ。竹筒の向こうに月が見えた。

 

 今、あの光の続きに立っている。

 極楽の風は絹のように薄く、肌を撫でても冷たくない。


 *


 炎獄は暫く言葉が出なかった。

 今見た記憶と、あの軽い天望を、関連付けたくなかった。

 だが無情にも、釈迦の声が耳に入る。


「これが、生前の彼女です」


 炎獄が拳を強く握る。

 ずっと不思議だった。あいつがどうして、妙に人を見抜く力があるのか。

 そうしないと、生きていけなかったからだ。

 顔色を伺い、何を求められているのか、自分がどう動く事を望まれているのか。

 そうやって自分の望みを押し殺し続け、最後まで誰かのためになると信じて、死んでいった。

 紙のざらつきが掌に残る。


 炎獄の周囲の空気が僅かに焦げる。

 釈迦は嘘をつかない。今見せられたものは間違いなく天望なのだろう。

 だが、どうしても納得がいかなかった。

 

 ――何が成り行きだ。何が大したことはないだ。

 ――この生が地獄でなくて、なんなんだ。

 

 釈迦が指を組み、少し首を傾けると、肩から髪がさらりと落ちた。


「同情しましたか。それとも、怒りを持ちましたか」


 それは返事の中身より、そこへ辿り着くまでの顔を見ている。そんな問い方だった。


「……わかんねえ。けど」


 炎獄は値踏みするような視線の前で、言葉を曲げなかった。

 濁すこともせず、釈迦の目を正面から受けて口を開く。


「あいつの怒りを、俺が奪っちゃいけねえ。これはあいつ自身の感情だ」


 釈迦の口元がゆっくり上がる。素直な笑い方だった。試すような問いの答えとしては、十分だったらしい。


「それでよろしい」


 そう言って、釈迦は蓮の中へ姿を消した。

 残された炎獄は、自分の手のひらを一度見て、拳を握る。

 まだ全部は見えていない。

 それでも、次にどこへ行くべきかだけは掴めた。

 

 炎獄はくるりと踵を返し、極楽を後にした。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。