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19話 群衆の悪意

 修羅道へ足を踏み入れた瞬間、天望は小さく息を止めた。

 話を聞きに行ったからといって荒野に渦巻く怒りが鎮まっているわけもなく、あちこちで怒号が飛ぶ。

 炎獄が舌打ちをひとつ落とす。


「……嫌な空気だな」


 天望は返事をしなかった。

 天部で聞いた話をどう飲み込めばいいのか、まだ整理がつかない。

 謝れば済む話ではない。怒っている本人も、その相手も、もう同じ場所にはいない。

 それでもここでは、怒りだけが燃え続けている。


「また来やがったのか腐れ天女が!」


 声が飛ぶ。

 いくつもの視線が、一斉に天望へ突き刺さった。

 天望が息を詰める。炎獄が前に出ようとしたのを、天望は静かに手で制した。


「天望」

「大丈夫です……。対話をすれば、人は分かり合えます」


 天望が一歩前に出て、静かに目を伏せる。

 必死に何気ない顔を保とうとしていたが、内側ではしっかり揺れていた。

 目を開くと、むき出しの敵意が目の前に広がっている。


「……みなさん、私達は、何も危害を加えるつもりは――」

「こいつ、俺見たことあるぞ!」


 天望の言葉を遮って、亡者の一人が声を上げる。


「この天女、賭場に居たぞ」


 その一言で空気が変わる。

 天望の喉が空気を吸って、詰まった。


「この女、罪人ダービーで見たぞ」

「見た事ある、煙草吸ってた!」

「はぁ? 天女の癖に!?」

「賭けなんかする天女はろくなやつじゃねえ!」


 一人が声を上げると、また一人が乗っかる。

 風が肌を撫でるたびに、ざらついた苛立ちまで一緒に擦りつけてくるようだった。


「おい、こいつの趣味は関係ねえだろ!」


 炎獄が亡者に向かって吠えたが、一度火のついた流れは止まる事を知らず、余計に燃え広がるだけだった。


「あんなのが天女になるなんて、やっぱ極楽の奴らは腐ってんだ!」

「体でも使ったんじゃねえの?」

「女はいいよな、簡単に極楽行けてよ!!」

「私はあんなに苦労してもこんなところにいるのになんでこいつが!?」

「そこの鬼とも出来てんだろ? 阿婆擦れが!」


 いつしかそれは大義名分すら外れ、ただの個人攻撃になる。

 天望の目の前が眩む。何もかも事実無根だ。

 だがいくら口で否定したところで、この手の亡者は納得しないのもわかっていた。

 事実かどうかなんて、どうでもいいのだ。

 叩きたい奴に、叩く理由がある。それだけ。


「こんな奴が天女になれんのに、阿修羅様が戻れねえのはおかしいだろ!!」

「絶対不正だろ!!」

「してないならしてない証拠を出せよ!!」


 轟々と浴びせられる無責任な糾弾に、天望はただ俯くしかなかった。

 やっている証拠ならともかく、やっていない証拠などどう出せと言うのか。

 炎獄が奥歯を噛む。金棒に力を込めて構えかけた時、天望が息を吸った。


「私は……生前の行いにより、今があります。皆様も、この修羅道で怒りを鎮めれば、来世良き生を……」

「だからぁ!! 証拠出せっつってんだよ!!」

「……」

「なんだよ生前の行いって!!」

「……それ……は……」


 天望が下唇をぎゅっと噛む。言葉を紡ぎたいのに喉でつかえた。泣きたくなんてないのに、鼻の奥が痛い。


「答えられねえじゃねえか!! やっぱり不正だ!!」


 胃のあたりが、じわりと重くなる。くだらない、と切って捨てるのが正解だったのに、できなかった。


 ーーだって、自分でも“そう”だと思っていたから。


「てめえら、いい加減に」

「……っ、ごめんなさい」


 炎獄が反論する前に、天望は走り出していた。

 その場にいられなかった。降り注いでくる暴言が、ひとつひとつ石を投げられているみたいに痛くて、雑だからこそ余計に抉ってきた。

 天望を傷つけようとして放たれた言葉は、しっかり役目を果たしていた。それが、ちゃんと悔しい。


「天望!!」


 炎獄が叫ぶ。天望は振り返れなかった。

 背後で「逃げた」「後ろめたい事があるから逃げるんだ」と聞こえてくる。

 反論したい、できない。乾いた空気より、亡者の言葉の方がずっと息苦しかった。

 炎獄は振り返りもせず、金棒を地面へ叩きつけた。

 乾いた大地が鳴り、その割れ目から一瞬炎が上がる。

 亡者たちの声が一瞬だけ途切れた。


「次、誰か一言でも喋ってみろ」


 低い声だった。空気は熱されたはずなのに、冷えていた。


「全員地獄の一番下まで堕としてやる」


 亡者たちを睨み据え、炎獄は舌打ちをひとつ落とす。

 脅しだったが、炎獄は本当にそれが出来る。その気配を察してか、亡者達は生唾を飲み込んだ。



 中陰の堂に戻ると、夕方とも夜ともつかない薄い光が畳の上に落ちていた。

 天望は窓を少しだけ開け、そこに肘をつくみたいにして煙草を咥えていた。

 火はもう半分ほどまで落ちている。吸っているというより、ただ燻らせている。


 堂の中には、紙と畳と、少し冷えた煙の匂いが混ざっていた。

 炎獄は戸口のところで一度だけ足を止める。

 声を掛けるべきかどうか迷ったのではない。こんな顔の天望を見るのが、少しだけ想定外だった。

 炎獄は何も言わず、堂の中へ入る。

 机の脇まで来て、それ以上は近付かなかった。


「大丈夫か」


 その一言で、天望の肩がほんの少しだけ止まる。

 煙草の先が赤くなる。吸い込んだ息の分だけ、火が生き返った。


「……すいません、上手く出来なくて」


 そう言って吐き出した煙は、思ったよりまっすぐ飛ばなかった。


「最初の頃、炎獄言いましたよね。理想語るより折り合いつけろって。皆が極楽の甘ちゃんじゃないって」


 天望は振り返らないまま、煙だけが細く流れて、開けた窓の向こうへ逃げていく。


「……本当、そうですよね。わかってたつもりだったんですけど」


 天望はそう言って笑ったが、その笑いは少しも軽くなかった。

 炎獄が隣で窓枠に肘を掛け、懐から煙草を取り出して吸う。


「お前、悪い事なんか一個もしてねえんだろ。なら気にすんな」

「……悪い事」


 天望の手元から灰が落ちる。指先が少し震えていた。

 窓枠に置いた灰皿に吸い殻を押し付けて、また新しく一本火をつける。


「どうなんでしょう。お釈迦様に拾われて、天女になって……ずるいのかもしれませんね」

「……何にもねえやつを拾い上げるほど、あの仏は甘くねえだろ」

「そうですね。でも、私は本当、成り行きみたいな……なので大した話ではないんですよ」


 天望は遠くを見ていた。煙草の煙が目の前を薄く横切っていくたび、少しだけ世界に膜が張る。

 その曖昧さが今は必要だった。


「でもどう話しても、恨み言になってしまうので」


 窓の外から入った風が天望の髪を揺らした。

 揺れた煙が空気に溶けて消え、微かに甘い香りがまとわりつく。


「尼にすらならずにお釈迦様に救われたんだから……今度は私が報いなきゃいけないんですけど、ね……」


 天望が一度深く煙草を吸うと、火の残りを確かめるみたいに、灰皿へ深く押し付けた。


「すいません……私、午後休貰います。今日あんま仕事にならない気がするんで」

「……おう。お疲れ」


 天望は小さく笑った。笑ったというより、口元だけをそういう形にしただけだった。


「じゃ、失礼します」


 煙草の箱とライターを掴み、天望は炎獄の横をすり抜ける。

 その肩が、ほんの少しだけ丸まって見えた。


 堂の扉が閉まる。

 反動で木の板が小さく鳴って、それきり静かになった。


 炎獄は窓辺に残された灰皿を見た。

 吸い殻が二本。どちらも、最後まで綺麗には吸われていない。

 火を消す時に押し付けた跡だけがやけに深かった。


「……んな顔、すんのかよ……」


 誰に聞かせるでもなく、炎獄は低く吐いた。

 修羅道で飛んだ声が、まだ耳の奥にこびりついている。

 不正だの、阿婆擦れだの、体を使っただの。

 どれも中身は空っぽで、一人じゃ何も出来ない癖に、集団で人を傷つける時だけ妙に形を持つ。

 炎獄は舌打ちをして、窓を閉めた。

 細く残っていた煙が、閉じ込められまいとして隙間から逃げていく。


「……仕事にならねえ、か」


 無理に引っ張り出してもろくなことにならない。だが、放っておいて勝手に回復するような顔でもなかった。

 炎獄は少しだけ考えてから、机の上に置かれた書類をひとつ手に取った。めくるでもなく、すぐにまた置く。

 違う。今欲しいのはこれじゃない。


「……」


 他人の過去を覗く趣味はない。

 だが、知らないまま次を外す方が、炎獄には気持ちが悪かった。


「行くか」


 炎獄は金棒を肩に担ぎ、堂を出た。

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