18話 帝釈天と話をしよう
天部へ続く廊下はやけに静かで、数日前のあの騒ぎが嘘みたいだった。
その中を、炎獄は一定の速度で進み続ける。
天望もそれに倣って、何も言わず後を追った。
「一応時間通りには着くな」
「閻魔様の名前、本当に使ったんですか」
「おう。話早かったからな」
「後で怒られても知りませんからね」
炎獄が「上等」と悪い笑みを浮かべる。
少し歩いた後、二人は天部と書かれた扉の前に着いた。
その横には無人電話が置いてあり、ご用の方はこちらと記されていた。
「……会社だ」
天望が小さく呟く。
炎獄が受話器に手を伸ばしながら鼻先で笑った。
「神の集まりってよりな」
炎獄が受話器を耳に当てる。小さく呼び出し音が聞こえる。
「二の鐘にお約束しております獄楽部輪廻転生推進課の炎獄鬼です。帝釈天様お願いいたします」
天望が炎獄を二度見した。
炎獄は、“お前敬語使えたのかよ”とか思われてんだろうな、なんてことを考えながら受話器を戻した。
しばらくして扉が開く。
そこに立っていたのは、筋肉ではなく、摂理だった。
「……ああ、君達か。入りたまえ」
梵天が扉を開け、温度のない声で部屋の中へ促す。
通されたのは、会議室の隣にある応接のような小部屋だった。
先日の本会議室に比べればいくらかこぢんまりとしているが、それでも中陰の堂など比べものにならないほど整っている。
几帳面に並んだ机、艶のある床、壁際に置かれた書棚。
いかにも“必要な話だけをするための部屋”という顔をしていた。
炎獄が座っていいのか一瞬迷うみたいに椅子を見下ろし、結局どかりと腰を下ろす。天望もその隣へ浅く座った。
「すまないな、帝釈天だが少し遅れている。しばらくお待ちいただきたい」
梵天が正面に腰掛ける。吉祥天が後ろから盆に湯呑みを乗せてついてきた。
「わ、マジで鬼! やばぁ」
輝く長い爪が茶を差し出す。
「……ども」
「あ、そっか閻魔くんのとこの鬼だ!」
「ああ、そうだったな」
天望は少しばつが悪かった。名前だけお借りしましたなんてことはとても言えないので、湯呑みを抱えながらちらりと横の炎獄を見た。炎獄は何も気にしていない様子で茶をすする。
梵天が背筋をぴんと伸ばしたまま、炎獄に言った。
「折を見て閻魔に伝えてくれ。たまには天部に顔を出せと」
「ああ。そのうち。今は一応別部署でな。この案件は地蔵菩薩の依頼で動いてる」
「……ああ、どちらでもいいが。とにかくあれは“焔摩天”でもあるのだから少しくらい来いと言ってくれ」
「ま、伝えるだけ伝えとく」
気まずさを誤魔化すように、天望は茶を飲んだ。
閻魔の名前で通した手前話題が出るのは当然だが、あまり広げられると困る。
だが炎獄にしてみれば、閻魔の名前は畏まって拝むものではなく、必要な時に雑に引っ張り出す類のものだった。
多少筋違いでも扉が開いたのだからそれでいい。
「で、帝釈天は」
「……ああ……」
梵天の目がすぅっと遠くなった。
宇宙の向こうでも見るように、感情が消えた。
「伝えてはいるのだが……」
「すまぁん!!!!!!!!」
バン! というか、ブァン!!! みたいな音がした。
扉をぶち破って現れた暑苦しさの化身。
帝釈天が良い汗を流した顔で髪をかき上げている。
「いやあ悪い悪い!! 妻抱いてたら遅れた!!」
別に聞きたくなかった。悪い事ではないが、大っぴらに言う事でもない。
梵天の横にどっかりと座ると、何一つ悪びれていない顔で炎獄と天望を見た。
「おお、君たちは覚えているぞ! この間阿修羅と共に居たな!」
白い歯が眩しい。
帝釈天の圧に一瞬だけ気圧され、それでも炎獄は必要な言葉だけを並べた。
「なら話が早い。帝釈天、阿修羅に謝罪してくれねえか」
「ほう! なんで!」
「なんでじゃねえ。あいつの怒りに引っ張られて魂が転生出来てねえ。あんたが一言言ってくれればあいつの溜飲も多少下がると思う」
「ふむ!」
帝釈天が腕を組む。
「謝罪というのは、舎脂のことか」
「それが阿修羅の娘の名前なら、そうだな」
「失礼ですが、あなたが攫って……その……無理矢理ものにした、と……」
「うむ、しかし謝罪も何も」
その時、応接室の扉が叩かれた。
扉が開き、豊かな胸を揺らして、気の強そうな女が包みを持って入ってくる。
「あなた、弁当忘れたわよ」
「おお、すまんな舎脂!」
ん? と炎獄と天望が同時に固まった。
「今日は遅くなるの?」
「いや終わればすぐに帰る!」
「寄り道しないでよ?」
炎獄は一度だけ天望に目をやった。
多分、今まったく同じ顔をしている。
「ああ紹介しよう、妻の舎脂だ!!」
「あら、ごめんなさいお話中だったのね」
天望は口を開きかけて、やめた。
何をどこから確認すればいいのか、一瞬わからなくなる。
阿修羅の怒りだけを聞いていたせいで、天望の中ではとっくに破綻した関係なのだと思い込んでいた。
だが、目の前の二人はそうではない。
「……あの……」
「あんた……阿修羅の娘か……?」
炎獄もおなじだったのだろう。ひくつきながら問いかけると、舎脂はぱっと炎獄に顔を向けた。
「パパの知り合い? ごめんねぇ、すっごい扱いにくいでしょ?」
「扱いにくいというか……」
炎獄の喉が詰まる。
阿修羅の話では、もっとこう、取り返しのつかない何かだと思っていた。
「謝るも何もなあ!? 舎脂は俺の妻で満足しているだろう!?」
「何よ急に、もー」
「はっはっはっは!!」
話が違う。雨降った後とっくに地固まっていたなんて聞いていない。
「じゃあ阿修羅様は……何にあんなキレてるんですか……?」
「知らん!!!!」
帝釈天がカラッと笑う。舎脂は帝釈天に腕を回しながら、困ったように笑った。
「パパ、まだ怒ってるのよね。でも私、今は幸せよ」
その言葉に、帝釈天が少しだけ瞬きをした。
梵天は何も言わず、ただ視線を落とす。
「きっと、いつか許してくれるわ。私のパパ、本当は優しいもの」
横で聞いていた梵天が指を組み直す。
「こちらとしても無用な争いは避けたい。これが頭を下げてどうにかなるのならば、とっくにそうさせている」
「……そう……ですよね……」
天望が俯く。
応接室に、妙な沈黙が落ちた。
ここへ来て急に底が抜けてしまったような、そんな気がした。
「まあ大体俺が悪いのだろうがな!!!」
帝釈天が大きな口で豪快に笑う。これはこれで底抜けに明るい、というより、底という概念が存在しない。
言葉と裏腹に、申し訳ないという気持ちはカケラも伝わってこない。深刻ぶっている方が馬鹿らしくなってくるようだ。
帝釈天はいつだって全力で前向きだった。前向きすぎて周囲が被害を受けるだけで。
謝罪させたところで、「あっすまんすまん!」とか言いそうで、多分阿修羅が余計に沸騰するのが目に見えた。
「というかな! 俺も何回かあいつにすまんとは言っているのだが! 何故か余計怒るばかりでな!!」
もうやってた。炎獄も天望も同時に天を仰ぐ。
その明るさには裏がない。ないからこそ、たちが悪い。
梵天が指を組み直す。
「こちらからすればあれは既に終わった話」
静かな声だった。だが、突き放す響きはなかった。
「怒りの矛先を失い、振り翳した拳を納めることができずに暴れる者に付き合ってやる義理もない」
梵天が立ち上がり、応接室の扉を開く。
それは明確に、“帰れ”の合図だった。
「君達にも為すべき仕事があるのだろう。それは理解する。だが、天部は一人の感情に寄り添って撫でてやるほど暇ではない」
梵天が軽く顎を上げる。
炎獄はちらりと帝釈天を見て、ただ笑顔を返された。
「……お時間いただき、ありがとうございました」
椅子の脚が床を擦る。
炎獄は不機嫌を一つ持ったまま立ち上がり、それをそのまま胸の奥へ押し込んだ。
次に振り返った時には、もう仕事の顔になっている。
天望はその切り替えを見て、慌ててお茶を飲み干し、帝釈天と舎脂に頭を下げた。
炎獄が扉を過ぎる間際、梵天がすれ違いざまに言う。
「閻魔……ああ、いや、地蔵菩薩だったか。彼によろしく頼む」
炎獄は梵天に軽く会釈をし、そのまま応接室を出た。
天望もその後ろを小走りでついて行く。
梵天が二人の背を見ながら、静かに扉を閉めた。
天部を出てしばらく、二人は無言で歩いた。
さっきまでの応接室の整った空気が、まだ服にまとわりついている気がする。
「……なんか思ってたのと違いましたね」
天望が言う。
「違いすぎて逆に笑えてくるな」
炎獄が低く返した。笑えるわけがなかった。
謝罪で収まると思っていたものが、最初からそんな段階ではなかったのだ。
にもかかわらず、修羅道にはまだ怒りに引っ張られた魂が溜まり続けている。
炎獄が歩みを緩めないまま言った。
「でも、俺もあんま好きじゃねえ」
「はい?」
天望が隣を見上げると、炎獄は天望の方を見ずに続ける。
「梵天も帝釈天も、強えやつの理屈で喋りやがる。実際強えから別に良いんだろうけど、俺は好きじゃねえ」
炎獄は投げるみたいな言い方で、妙にまっすぐ言った。
乱暴な言い方だからこそ、余計な飾りなく本音だとわかる。
「でもどうしましょう。帝釈天様があの感じだと、『はいお互い謝って仲直り』なんてとても……」
「めんどくせえが、亡者一人一人に言ってくしかねえか? 阿修羅の怒りは阿修羅のもんだ。あいつらが便乗する道理ねえだろ」
「そうですね……根気よく話せばわかっていただけるかもしれません
天望は小さく息を吸った。戻る先は、答えのない怒りが渦巻く修羅道だった。




