15話 修羅道へ
中陰を抜けるほど、道は荒れていった。
白く平らだった靄の道は、いつしか乾いた土と砕けた岩に変わっていく。
草も木もない。あるのは、踏み固められた地面と、どこまでも続く赤茶けた空気。
「修羅道は、この世界で人の魂が巡る道のひとつでございます」
前を行く地蔵が、振り返らないまま言う。
「六道輪廻か」
「左様。天道、人間道、修羅道、畜生道、そして地獄。それぞれに苦がございます」
地蔵の錫杖が鳴る。
しゃん、しゃん、と響く涼やかな音は、ひび割れた景色から妙に浮いていた。
「今から向かう修羅道は天に近く、地に近い。力を持ちながら、安らぎを持てぬ者達の行き着く場所。けして、呑まれませぬよう」
炎獄が肩の金棒を少し持ち直す。
足元の石を踏み砕きながら進む横で、天望は乾いた風から顔を庇った。
「……と、いうか……あの……遠くないですか?」
三人が中陰の堂を出てから、軽く一時間は経っていた。
休みもせずすたすたと前を行く地蔵に着いて来たが、炎獄はともかく、天望のふくらはぎはすでにパンパンだった。
「そうですね」
地蔵はあっさり頷いた。
「乗り物とか……あの、ほら、お釈迦様は蓮とか乗ってらっしゃいますし……」
「私は六道全て徒歩移動です」
「徒歩ぉ……」
天望が小さく肩を落とす。地蔵が思ったよりフィジカル思考で、ついていくだけで精一杯だった。
「衆生と同じ視線でなければ、救えぬものもございますので。散歩とでも思ったらよろしいかと」
地蔵は変わらず、一定の歩幅で進んでいく。その袈裟の裾だけが、乾いた風を受けて静かに揺れていた。
歩くうち、生ぬるかった空気に、今度は鉄の匂いが混じる。
遠くで何か硬いもの同士が打ち合う音がした。
幾重にも重なった響きが、地の底から這い上がるように届いてくる。
天望は知らず足を止めた。
「……今の」
「着きましたよ」
地蔵がようやく振り返る。
その背後に広がっていたのは、世界そのものが怒りで出来ているような場所だった。
あちこちで土煙が上がり、怒号が絶え間なくぶつかり合う。
「絶対奴の首取るぞ!!」
「そんなんで勝てると思ってんのか! 歯食いしばれ!!」
亡者達があちこちで罵り合い、殴り合っている。刀の打ち合う金属音や、矢が放たれた時の裂かれた空気の音がひっきりなしに上がっていた。
遠くで怒鳴り声が上がるたび、足元の小石がかすかに跳ねる。誰かの怒りが空気を震わせ、その震えが地面にまで染みている。
炎獄は目の前の光景を見渡して、目の端に呆れに似たものを滲ませた。
「地獄よりうるせえな」
「地獄は罰の場所でありますから。ここは、自ら燃え続ける場所でございます」
地蔵はそう言って、修羅の荒野へ目を向けた。
「怒りは足を止めます。怒り続ける限り、彼らがここから動く事はありません」
袈裟が風で流れ、指の端で笠を抑える。
「そこであなた方に頼みたいのは、この戦火を止め、魂を輪廻へ導くこと」
天望がすぐさま地蔵を振り返る。
聞き間違いかと思って、天望は地蔵に一歩寄ってゆっくり聞いた。
「今、なんと?」
地蔵はさらりと、なんでもないことのように答える。
「この戦を終わらせていただければと」
声音は柔らかいのに逃げ場がない。
天望と炎獄が同時に息を吸う。
「無理では!?」
「無理だろ」
珍しく二人の声が揃う。
地蔵は少しだけ困ったように微笑んだ。
「やはり、そう思われますか」
「思いますよ! だってこれ、どう見ても個人案件じゃないでしょう! 国とかなんかそういう規模の話じゃないですか!?」
「俺らの仕事、転生拒否した魂の説得だぞ。戦争止めろって何段飛ばしだよ」
「ごもっともです」
地蔵は素直に認めて、湯呑みでも置くみたいな自然さで錫杖を鳴らした。
しゃん、と音がひとつ響く。
「しかし、閻魔大王と、何より、釈迦如来の見込んだおふたり。この怒りを収めることもできるのではないかと」
天望と炎獄は揃って視線を外した。
期待値が大きすぎる。
見込まれてるわけではなくて押し付けられたのだと喉元まで出かかった言葉を二人して飲み込んだ。
地蔵は何も言わない二人を見て、ゆっくり頷く。
「では後は頼みました」
「あっ、ちょっと待っ――」
天望が手を伸ばした時には、もう遅かった。
乾いた風がふっと巻き上がり、砂塵が視界をさらう。袖で目元を庇って一瞬顔を逸らし、再び前を見た時には、そこに地蔵の姿はなかった。
「……お地蔵様?」
「消えやがったな」
炎獄が低く吐き捨てる。
天望はしばらく呆然と立ち尽くしていたが、やがて両手で頭を抱えた。
「いや、どうせぇと!!」
「おい、あの菩薩救うどころか丸投げしやがったぞ」
天望が顔を上げて修羅道を眺めた。
拳を振り上げる影、倒れてもなお立ち上がる影。どれも輪郭が熱で揺らぎ、ひとつの争いが終わる前に、もう別の場所で次の争いが始まっている。
「戦争反対ってプラカードとか持って歩き回ります?」
「意味あるか? この状況で」
「何もしないよりは……」
「んな事より、こいつらが何で争ってんのか知らねえと手出しようがねえだろ」
炎獄が土煙の上がる大地へ進む。
天望が袖で鼻と口を押さえながら、時折咳をした。
細かい砂埃が目に痛い。
二人が争う人々の声を聞こうとした時、近くで怒鳴り声が飛んできた。
「おい、天人がいるぞ!」
反射的に二人がそちらを向くと、岩場の向こうから数人の亡者が駆けてくるのが見えた。
皆、まともな武具ですらない木の棒や石を握りしめ、目だけぎらぎらと血走っている。
「天人だ!」
「極楽の野郎が来やがったぞ!」
「ぶっ殺せ!!」
唐突に物騒な言葉をまともに喰らい、天望が目を見開く。
「え、私!?」
何のフィルターもかかっていない悪意をストレートに投げられるなんて、天望には初めての経験だった。
ましてそれが突然“殺せ”まで来ると尚更だ。
「お前なんかしたのかよ」
「いやいやいや心当たりないですよ!!」
炎獄が一歩前へ出て天望を背に隠す。
先頭の亡者が腕を振り上げ、ろくに狙いもつけずに石を投げつけた。
石は天望に向かって軌道を描き飛んできた。当たる直前で炎獄が石を手の甲で弾く。
砕けた石が乾いた地面に散って、砂利となって跳ねた。
「は?」
炎獄が亡者の群れを睨む。次の瞬間には、炎獄の姿が一歩ぶん前へ滑っていた。
炎獄が金棒の石突きを地へ落とす。地面を抉るように振り上げると、無数の砂と石が亡者へ向かう。
亡者達が怯む。気づいた時には、炎獄が亡者の胸ぐらを掴んでいた。
足の付かなくなった亡者が必死につま先を伸ばすが、炎獄はもう一度揺らすように握り直した。
「何してんだお前ら。俺の部下に」
天望は思わず息を止めた。いつも隣で茶を淹れている鬼と、今目の前に立っている鬼が、同じものだと一瞬わからなかった。
揺らされた亡者が炎獄の腕を掴みながら喚く。
「お前こそなんなんだよ!! 鬼の癖に天人の味方しやがって!!」
「んだよ。いけねえのかよ」
「天のやつはみんな敵だろうが!!」
天望が炎獄の後ろで裾を掴む。炎獄はちらと背後を一瞬見てから、亡者を乱暴に床へ捨てた。
「俺らは天じゃねえ。中間だ」
「うるせえ!! 天人は敵だ!!」
尚も騒ぐ亡者に、炎獄は埒が開かないと舌打ちをした。
話が通じているのか通じていないのかも怪しい。
怒鳴っている内容のわりに、誰一人、天望個人のことは何も言わない。ただ“天人だから”だけで、熱に浮かされたように敵意を向けてくる。
「炎獄……」
「顔出すな。隠れてろ」
亡者のひとりが、まるで合図みたいに叫ぶ。
「阿修羅様を苦しめに来やがったんだろ!!」
天望がその言葉に、はっと顔を上げる。
「……阿修羅?」
炎獄は亡者たちの前に立ち塞がったまま、苛立たしげに眉を寄せた。
「阿修羅って、あの阿修羅か。戦神の」
阿修羅。三つの顔と六つの腕を持ち、怒りに身を任せた結果天部を追われ、修羅道へ堕ちた神。
かつて天を巻き込み盛大に戦争を起こした存在は、炎獄でも、その名を知っていた。
「そうだ、阿修羅様はこんな所に居るべき方じゃないのに」
「全部天のせいで」
「阿修羅様に詫びろ!!」
炎獄が金棒を僅かに上げようとした瞬間、天望が炎獄の服を掴み、少し引く。炎獄が天望に視線を向けると、天望は炎獄を見上げて唇を噛んでいた。
「炎獄、行きましょう」
「あ? こいつらシメなくていいのか」
「この人たち、転生拒否というより、阿修羅様の怒りに乗っかってる感じがします。根から解決しないと、転生の話すらできません」
乾いた風がまた強く吹いた。
天望は舞い上がる砂の向こうを見つめたまま、小さく呟く。
「会いに行きましょう。阿修羅様に」
その声は震えていなかった。だが、背中越しに感じた天望の体温が、炎獄にはあまりにも脆そうに見えた。




