14話 お地蔵様のお願い
新章です。よろしくお願いします
地獄。十王裁判所第五審。
閻魔の玉座が見下ろす先には、薄く霧が立ち込めている。
輪郭を曖昧にするようにぼやけた床の上、金色の光が柔らかく浮かんでいた。
「いい感じじゃない? あの二人」
「焔摩天……」
釈迦の声は、穏やかというよりも半ば呆れたような色を含んでいた。
「あなたが修行者の悟りを妨げるようになってはなりません。それは魔の所業ですよ」
「大丈夫だろ。炎獄ついてるし」
閻魔は片手で扇子を開いてくるりと回す。
釈迦が表情を崩さぬまま、閻魔の玉座の方向へ一歩近づいた。その足元に小さな蓮がひとつ咲く。
「彼も不安定な火です。どちらも引っ張られて共倒れになっては元も子もありません」
「結構相性いいと思うけどな、俺は。それに――」
閻魔がぱちんと扇子を閉じる。
その目は真っ直ぐに釈迦を射抜いていた。
「お前が、あのお嬢を菩薩にしてえんだろ?」
釈迦が押し黙る。
へらりとした口調のくせに、閻魔の言葉はいつも妙に芯を食ってきた。
釈迦は顎を上げて、高い位置の玉座に正面から向かう。
「私が天望天女を菩薩に望んでいる、というのは少し違いますね。彼女にもその資格がある。それだけです」
「にしては、妙に肩入れしてるような気すっけどね?」
閻魔は肩を竦めて見せる。
「ま、わかるよ。あのお嬢に炎獄が影響されてる。俺の所に居た時は実務と効率の鬼だった癖に、思いやりなんつうもんを覚えやがった」
「良い変化ではないですか」
「感心してんの、俺は」
閻魔の釈迦を評価でもするような口ぶりは、端から見れば不敬そのものだ。しかし、二人の間ではすでに呼吸の一部であり、釈迦にとっては今更諌めるようなものでもなかった。
「さて、じゃ、あとひと押ししてやろっかな」
釈迦の袖が静かに揺れた。釈迦はしばし目を閉じる。
再び開いた時には、もう答えは決まっていた。
「……何が起きても、諸行無常です」
釈迦の言葉に、閻魔が玉座で指を組み笑う。
それだけで、釈迦にはろくでもない予感がしていた。
*
ところ変わって中陰。獄楽部輪廻転生推進課。
昼休みのゆるんだ空気の中、天望が机の上に風呂敷つづみをことりと置く。
曼荼羅柄の包みを開いて現れた小ぶりな弁当箱。
その前で静かに手を合わせた時、堂の扉が開いて、炎獄が地獄コンビニの袋を片手に戻ってきた。
「何、今日弁当?」
「ええ。たまには」
「へえ、料理とかすんのな、お前」
天望が弁当箱の蓋を開いたので、なんとなく炎獄が後ろからその中身を覗き込んでみる。そこには具も色もついていないモヤシが、ギチギチに詰められていた。
「……今から食うんだよな? 食った後じゃないよな?」
「え?はい」
「それ、おかずの下に敷いてあるもんだろ、大体」
「炎獄」
天望が、わかってねえな、みたいな顔をしている。
「昨日、何の日だったかわかります?」
「昨日?」
「阿弥陀記念ですよ。罪人ダービー」
「……スったんだな……」
炎獄はもう突っ込む気も起きなかった。
机に座って袋から肉まん二つとカップ麺を取り出す。炎獄が肉まんを手に取ると、天望がじっと見た。
「んだよ。やらねえぞ」
「いや、そうじゃなくて」
天望は少し感心したような、馬鹿にしたような、その中間の顔で頷いた。
「やっぱ丸いのが二つ並んでるのが良いんだな、と思いまして」
「……」
炎獄が黙る。先日の東雲の件から、たまに天望はこういう刺し方をしてくるようになった。
「柔らかくて丸くてあったかいもの、二つあったらいいですもんね」
「……あのさあ、お前なんか怒ってんの?」
「いいえ? 全然。ただの感想です」
炎獄が肉まんを齧ろうとするのを、まだ天望が見ている。なんとなく食べにくかった。
「やっぱこう、頂点から食べるんですか」
「いねえだろそんなやつ」
ぴーっ、とやかんが呼ぶ。炎獄が机に肉まんを置いて立ち上がった。
「茶淹れるか…」
「あ、私にもください」
「図々し」
炎獄が茶筒を手に取る。
午後の光は弱く、畳の上に淡く広がっていた。
紙をめくる音だけがぽつりと落ちる。
炎獄が湯を沸かす横で、天望がその姿をぼんやり見ながら机に肘をついた。
「炎獄」
「あ?」
「炎獄は、まだ戻りたいんですか。地獄に」
茶の粉を掬う手が一瞬止まる。だが、何でもなかったかのように湯呑みの底に粉を落とすと、炎獄は天望に視線を向けないまま答えた。
「当たり前だろ。鬼は地獄のもんだ」
天望は炎獄の横顔をじっと見る。黒い角、尖った爪、喋る度に覗く牙。それは確かに恐ろしい鬼の形相ではある。
だが、茶筒に蓋をする手つきに、鬼も天もなかった。
「似合ってますよ。お茶淹れてるのも」
「ほざけ。鬼ってのは、罪人責めて沈めて潰してなんぼだ」
炎獄がやかんの取手を掴み、沸騰した湯を湯呑みに注ぎ入れる。
湯呑みの底でじわりと粉が溶けた。
「俺は本来そのためだけの存在なんだよ」
やかんの口から一滴、湯呑みの中に水滴が落ちて水面が広がる。
「ほらよ」
天望の目の前に炎獄が湯呑みを置く。ふわりと白い湯気がのぼり、緑茶の香りが少しだけした。
「どうも」
炎獄が音を立てて茶をすする横で、天望は両手で湯呑みを持った。
まだ熱くて飲めやしない。ただ手のひらの中でじんわりと熱が伝わってくる。
「炎獄って、熱いの平気なんですね」
「火の鬼だから」
「あ、そっか」
「ライターいらねえから便利だぞ」
炎獄が指をぴんと立てると、その爪の先から小さな火がぱちんとつく。
「それちょっといいですね」
「だろ。服のタグとかも切れる」
「うわ、めちゃくちゃ羨ましい」
「だろ」
炎獄が言った、その時だった。
「ごめんください……転生推進課とは、こちらで合っておりますかな」
中陰の堂が開き、しゃん、と清涼な音が響く。
入り口に静かな影が立っていた。
中陰の空気がわずかに凪いだような、異質な静けさを纏っている。
修行僧のような法衣と袈裟から、ほのかに線香のような匂いがした。
錫杖に軽く手を添え、深く影を落とす笠。
地蔵菩薩が、穏やかな笑みで立っていた。
「お地蔵様!?」
天望が慌ててタバコを灰皿に押し付け、立ち上がって駆け寄る。地蔵は傘を外し、軽く頭を下げた。
「お忙しいところ、失礼いたします」
錫杖の輪がかすかに触れ合う。微かな響きが、地蔵の微笑みにだけ寄り添った。
天望が椅子を引きながら、座布団を上に置く。
「お掛けになって下さい、今お茶を淹れます」
「いえ、お気遣いなく」
地蔵が微笑む。釈迦の全てを見通すような微笑みともまた違う、柔らかくてただ寄り添うような微笑み。
「炎獄鬼さん、地獄からこちらへいらしていたのですね」
「……ああ」
炎獄は仏法に詳しくないし、仏になりたいとも思わないが、地蔵にはなんだか大きく出られなかった。
それはきっと、この菩薩が誰よりも“仏らしい”からだ。そして、そういう“らしさ”が、なんとなく炎獄は苦手だった。
「……で、どうしたんすか」
地蔵がふう、と息を吐く。
「一切衆生、悉皆成仏……」
地蔵の目が、ひどく遠い所を見ていた。
炎獄が眉を寄せ、聞き返すように片耳を向けて地蔵菩薩の方へ乗り出す。
「……なんて?」
「全ての存在は皆仏になれる、って意味ですよ」
天望が横から地蔵にお茶を差し入れながら言う。
炎獄が小さくあぁ……と喉を鳴らした。
地蔵は持っていた錫杖を立て掛けて湯呑みを持ち、ずず、と音を立てている。
「その通りでございます。私はそれを信条に、衆生救済を掲げて参りましたが……」
地蔵菩薩が、長めに息を吐いた。
「ちょっ……と……無理かなあと……」
菩薩から絶対出ちゃいけない言葉が出てきて、空気が凍る。
天望と炎獄がそれぞれ言葉を探しながら、どこまで突っ込んで聞いていいのかを探っていた。
「無理とか言うなよ、と思われましたね」
「いやっ……!!」
「んな事は……」
「良いのです。承知の上でございます」
地蔵は湯呑みを傾けお茶を飲む。
「あなた方はあの閻魔大王が手を焼いた魂さえ輪廻に乗せたと聞き及びましたので、もしかすると、あそこをお救いになられるかもしれないと、思い及んだのです」
「あそこ?」
炎獄が首を傾げると、それを見た地蔵が頷いて立ち上がり、笠を被り直す。
「見ていただいたほうが早いかと……」
地蔵が錫杖で一度床を叩いて鳴らすと、袈裟を翻して歩き出した。
「どうぞついていらしてください。……ただし、お気をしっかり持って、決して自己を見失わぬよう……」
「あの、どちらへ?」
天望がおずおずと尋ねると、地蔵は背を向けたまま答えた。
「修羅へ」
錫杖の音が、しゃんと響いた。




