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13話 個で在れ

 書庫を出ると、閻魔の目の前で亡者が膝をついていた。

 丁度裁判中らしく、獄卒に両脇を抱えられ、地獄行きの扉へ引き摺られていく。


 泣き叫ぶ亡者を閻魔は興味なさそうに手で払うと、黒い表紙の閻魔帳を閉じた。扉から出てきた炎獄と天望に気付いて視線を向ける。


「お、見れた?」

「ああ」

「ありがとうございました……」

「おお、くらってんねえ」


 閻魔は二人を見下ろしたまま、足を組み替える。戻ってきた天望の表情が、予想通りだったことを確認する仕草だった。


「あんま共感しないほうがいいよ。菩薩になりたいんなら」


 閻魔は玉座の肘掛けを指先で叩いた。規則正しくないその音が相槌のように響いている。


「人生何もかも順風満帆、なんてやつ、そうそう居ないからね。一回一回全部自分の事みたいに受け止めてたら、多分釈迦だってキツイと思うぜ」

「……」

「だから悟って、自他切り離して救ってんだから。でもあんた、悟る気あんまねえだろ?」

「……そんなことは」

「いいよ、俺仏じゃねえから言い訳しなくて」


 閻魔は冠の位置を直し、何でもない顔で鉄扇を顎の下へ当てた。


「自分がしんどくても、そうしたいんだろ。やれるとこまでやんな。理想と現実の折り合いつける作業は、生きてようが死んでようが、仏だろうが鬼だろうがついて回るんだよ」


 閻魔の声は、低くなったわけではない。ただ、そこから余計な色がなくなっていた。軽さも、茶化しも、逃げもない。言葉だけがまっすぐ残る。


「閻魔様……」

「ま、釈迦は変な顔すると思うけどね。悟る気ねえ弟子とか多分あんたが初めてだろ」


 閻魔は言いたい事は言った、という顔をして背中を丸めて座り直す。


「そら、行きな。あんたの救い方で出来るとこまでやんなよ。その隣の鬼使ってさ」


 閻魔が鉄扇の先を炎獄に向ける。炎獄は一拍だけ黙る。


「ま、上司だしな」


 強がるような返事になった。そう言ってから、炎獄は天望を見る。

 天望も、炎獄を見ていた。


「なんとかなんだろ。いざとなったらぶん殴ればいい」

「なんとかしましょう。ぶん殴らなくていいように」


 天望が閻魔に頭を下げて、五審を後にする。炎獄も一瞬閻魔に目を向けてから、出口に向かって歩き出す。

 閻魔の足先が、玉座の上でゆるく揺れた。

 何かを裁いているというより、面白い芝居の続きを待つ客のようだった。


 *


 石畳の上を靄が薄く滑っていた。足を出すたび白が裂けるのに、振り返る頃にはもう元に戻っている。


 誰が通った跡も残さない道の先、白く濁った中陰の広場で、今日も東雲唯は壇の上に立っていた。

 昨日より信者が増えている。誰かが誰かを呼んだのだろう。薄い靄の向こうに、亡者たちの影がいくつも揺れていた。

 皆、行き場をなくした顔で、それでも東雲の声だけは聞き逃すまいと前を向いている。


「皆様、個で在りましょう」


 東雲の声は、よく通った。


「生まれながらに与えられた役割、世間に押し付けられた名前、誰かの期待。そういったものに、あなた方の魂は縛られる必要などございません」


 天望達は少し離れた場所で、それを聞いていた。


「おい、結局どうすんだ」

「……そうなんですよね。東雲さんに、教祖をやり切らせる。そのためにどうしたら……」

「やっぱぶん殴った方が早いんじゃねえの」

「そういうわけにいかないでしょう……」


 天望が壇の上の東雲を見る。すると、東雲もちょうど天望を見たらしく視線がぶつかった。


「天望さん、炎獄さん」


 東雲の声で亡者たちの視線が一斉に集まった。

 壇の上から、穏やかな笑みが向けられる。


「お勤め、ご苦労様です。私は転生致しませんよ」

「……」


 天望は、まっすぐ東雲を見上げた。


「どうしても、考え直してはいただけませんか」

「ええ。ここで皆様を導く。それが他ならぬ私という個の選んだ役割なのです」

「ダメなんです。それができるのは、悟りを開いた者だけなんです。でなければ……」

「消えるのでしょう」


 東雲の声が、ひやりとした刃のように割り入った。

 その言葉に、天望は思わず息を呑む。


「……知って……」

「ええ。この通り」


 東雲が袖に隠れていた手を掲げた。その手は、薄らと向こう側を透かしていた。


「東雲さん……!!」

「おおかた予想はついておりましたが、やはりそうなのですね」


 東雲が指先を天へかざして透かし見ながら淡々と言った。

 炎獄が渋い顔で、金棒を肩に担ぎ直す。


「わかってんなら手続きに進めよ。お前、マジでこのままだと跡形も無くなんぞ」


 東雲は揺れもせず立ったまま、ただひとつ瞬きをした。


「……それも結構」

「……え?」


東雲は何でもないことのように微笑み、まっすぐ天望を見返した。


「たとえ世界が許さなくとも、私という個が許せば良い。正しく在る必要はありません、醜くても、それが自らの手で選んだ末ならば、その選択に間違いはない。それでも」


 東雲が胸の前でそっと指を重ね、静かに息を吸う。

 信者を見回し、一人一人の目を見ていた。


「信じられない、自信がない。ならば」


 視線を逸らさず、ただ口元の笑みだけを深くして続ける。

 

「あなたを信じろと言う私を信じなさい」


 天望は息を呑んだ。

 信者たちの目が、東雲へ吸い寄せられていく。

 その光が、救いを見つけた者のものではなく、縋る先を失うまいとする者の光に見えて、背筋が冷えた。


「東雲さん、それは違う」


 天望の声は震えていた。

 けれど東雲は微笑んだままだった。想定内だと言うように、その震えごと救いに変えられると思っている笑みだった。


「あなたはそう言うでしょうね。私がさぞ承認欲求を拗らせた厄介女に見えるでしょう。それも結構。今、私は幸福なのです。消えたとしても、私が私のまま人の心に残る。それのどこに不幸がありましょう! それが私という個の選んだ選択なのです!」

「東雲さん!」


 天望が真っ直ぐ東雲の居る壇上まで上がる。次の瞬間、乾いた音が場を裂いた。天望は最後まで言葉を選べなかった。その代わりみたいに振り抜いた掌だけが、東雲の頬へまっすぐ届いた。


「……は……?」

 

 あまりに突然のことで、炎獄も信者も、その場でただ見つめる事しかできなかった。

 東雲の顔が横を向き、数拍遅れて垂れた髪が揺れる。

 東雲は瞬きひとつせずに天望を見返した。ただ白い頬にだけ、じわりと熱が滲んでいく。

 天望は小さく息を吸った。東雲に向かって、そっと置き直すように言う。


「あなたが……個で在れと唱えたあなたが、それを言うんですか」


 東雲はすぐ反論しなかった。天望の言葉を受け取り、頬を抑えながら静かに口を開いた。


「……信じたいものを信じて、何が悪いんです」


 東雲は言い切る。指先で自分の胸を指すその姿は美しかった。正しいかどうかではなく、そう見えるように磨かれた立ち姿だった。


 信者たちの間に、安堵が広がりかける。酔い掛けた空気に、天望が水を掛けた。


「弱った人が差し出された救いに縋るのは、自由な選択ではありません。ただ生きるための反射です。あなたが、そうであったように」


 東雲の顔が強張った。それと同時に、信者達の空気も少しぴりりとした。

 負けじと、東雲が両手を広げながら大仰に語る。


「っ、この世には他の救いもある。その中で私を選んだのは皆様です」

「選択肢が“ある”ことと、“選べる”ことは違います。追い詰められた人に他を見る余裕なんかあるわけがないでしょう。そうやって選べなかったから、東雲さんはこうして個で在れと叫んでるんじゃないですか」


 間髪入れずに天望は言葉を差し込んだ。東雲が一瞬喉を詰める間に、畳み掛ける。


「あなたがやっているのは救済じゃない」


 天望は一歩も引かなかった。腕が上がり、人差し指で東雲を指す。


「自傷です」


 東雲の拳が握られたのは、おそらく本人も無意識だった。


「私は……」

 

 東雲は視線を天望から離し、信者へ向ける。


「皆様、惑わされてはいけません。これは分断です。個を奪うための――」

「いいえ!」


 天望の声が、東雲の言葉を切った。強く、逃がさない声だった。


「これは、あなたの教義です」


 東雲の喉が、かすかに動いた。


「誰かに与えられた役割ではなく、自分自身で選び取る……それをあなたが説いたんです」

「そうですよ、ですから——」

「個は、ずっと在るんじゃないんですか。あなたが与えるものじゃない」


 東雲が下唇を僅かに噛む。流れを戻すための台詞を探していた。

 その時。信者の中から、おずおずと手が上がった。


「あの……私の来世、なんですか」

「っ……!!」


 東雲の唇が動きかけた。

 いつもの言葉なら、いくらでも出せる。

 あなたは個です。己を選びなさい。己のままでいなさい。

 けれど、それを言えば、先に進むという選択をした信者の選択を否定することになった。

 教義が矛盾する。何も言えない。

 沈黙の中、天望が帳面を開いた。


「あなたは……カーネーション、ですね。あの、お花の…….」


 信者の声が震える。ゆっくり首を下に傾け、腹の前で指を組んだ。


「カーネーション……息子が小さい時、くれました、母の日に」


 信者が思い出したように、ぽつりと呟く。


「……母親でした。私」


 亡者は袖を握った。

 信者として唱える言葉ではない。ようやく自分の奥から出てきた言葉だった。


「死んでまで、母親でいなきゃいけないと思ってました。恨んじゃいけない、憎んじゃいけない、ちゃんと旦那と息子を愛して死んだ人間でいなきゃって」


 東雲は壇の上から、その女を見ていた。

 教祖として見下ろすのではない。言葉を待つ者として。


「でも、教祖様が……何者でもなくていいって言ったから」


 東雲の顔がわずかに揺れる。


「私は、母親じゃない自分を、少しだけ思い出せたんです」


 信者の目に薄ら涙が溜まっていた。堪えるように、瞼をぎゅっと閉じる。


「でも……母親やってた自分も、嫌いじゃなかった……」


 その言葉に、誰も何も言えなかった。

 役割がたとえ苦だとしても、だからといって愛せないわけではないと知っていた。

 だって、利益の無い小劇場も、結婚できない男と居た日々も、煌めいていた瞬間はあったから。


「教祖様、私は……どうすれば」


 亡者が東雲に縋るように問う。東雲は、ほんの少しだけ苦しそうに息を止めた。

 答えならある。この信者を留める言葉ならいくらでも出た。

 教祖として言うべきだった。「役割を捨て個で在れ」と。

 救いの言葉を与えて、もう一度自分を見上げさせることもできた。


「そ……れは……」


 東雲は首を振った。東雲の中で、教祖の声と、一人の女の声が、ようやく初めて食い違った。

 喋るべき台詞は頭に入っている。なのに、喉が閉じた。

 教祖という役が、東雲唯から手を離す。


「……私が……っ、決めることではありません……」


 その声は、今までのどの説法よりも頼りなかった。

 だが東雲は初めてそこで壇から降り、信者の正面で膝をついた。

 そして、信者の手を取り、両手で包む。


「あなたという個として、あなたの責任で、選びなさい」


 その姿は、どこまでも堂々としていた。

 傷だらけの理屈でも、矛盾を抱えた救いでも、自分の言葉として掲げる強さだけは本物だった。


「信じるべきは、私ではなく、あなた自身です」


 信者は泣いた。けれど、その涙は東雲に縋るためのものではなかった。

 東雲が天望を見る。


「……これが、私の教えです」


 言い切った声は、それまでより不思議とよく響いた。

 作られた説法の声ではなく、ようやく腹の底から出た声のように聞こえた。


「立派だと思います」


 東雲の視線を、天望は真正面から受け止めた。

 東雲が手を離して立ち上がる。ゆっくり信者を見回し、息を吸った。


「個は、消してはなりません。そして、消えるものではありません」


 東雲の声は、熱に浮かされた教祖の声というより、もっと静かに、自分へ言い聞かせるような響きが混じっている。


「それはどこにいても、姿形を変えても、芯たる部分の個は揺らぐ事なく、あなたの中に在る」


 亡者たちは黙って聞いていた。

 昨日のような熱狂はない。だが、そのぶん真剣に耳を傾けている。


「私は選びます。どう在っても、私で在る事を」


 東雲はゆっくりと息を吸った。


「では皆様、個で在れ。アイ、ザイ、スーヴァ」


 東雲が頭上に指先で作った菱形を掲げ、最後の真言を静かに落とす。

 天望は壇から降りて、東雲の後ろ姿をじっと見つめた。

 中陰の光が東雲を照らし、それはまるでカーテンコールのようだった。

 東雲が指先をほどくと、その横を炎獄が無遠慮に歩いていく。


「いらねえだろ、もう」


 金棒を振り下ろし、乾いた音を立てて教祖の立っていた場所が崩れる。

 東雲は割れた壇を見て、それから炎獄を見た。


「……これで終わり……かあ、私の人生……」


 語尾だけが少し頼りなく沈んだ。

 東雲は足元の欠片を、つま先で小さく転がす。

 何者でもない女の、行き場のない手持ち無沙汰だった。


「……教祖じゃなくなったら、私に何が残るんやろね……」


 声に熱はない。東雲は息混じりに、自嘲しながら空に投げる。


「もうだぁれも私の事なんか見んやろなあ。そらそうよ。知らんやつに興味ないもんな、誰も」


 東雲は肩を竦めた。笑っているようでいて、目の奥だけがまるで笑っていなかった。

 東雲の声が低く沈む。天望は小さく首を振った。


「……東雲さん、後ろ」


 東雲が振り返る。そこには、まだ東雲を見ている信者達がいた。


「教祖様……」


 信者達が頭を下げる。それは祈りではなく、感謝だった。


「どんな思惑があったとしても、あなたのした事は残ります。あなたはやりたい事をした。選ばれたいと叫んだ。結果、誰かが救われた。それが、あなたの個在教(しゅうきょう)で良いと思います」


 東雲の瞳から、一粒だけ涙が溢れた。信者達は、それを見てもう一度頭を下げた。


「後はお前が決めろ。てめえの責任は、てめえで取れ」


 あまりにも飾りのない言葉だった。慰めでも励ましでもない。不器用な肯定。


「……せやんなあ。そう言ったの、私やしなあ……」


 東雲は一度、息を止める。それから肩の力を抜いて、小さく空を仰いだ。


「なあ、私、来世なんだっけ」

「メジロです」

「……そっかー」


 東雲はしばらく黙る。

 沈黙の中、炎獄がぽつりと落とした。


「悪くねえよ。鳥」


 東雲が鼻で笑う。


「どうだか。仕事で言っとんやろ」

「いや。割と本心」

「信用なるかい、夜中に女と会うような鬼の言う事」


 東雲はそのまま天望の前まで歩み寄った。

 天望がはっとして、気まずそうにもごもごしながら手をさすった。


「すいませんでした。殴っちゃって」

「いいよ。なんか昼ドラっぽかったし」

「……あの」


 天望は東雲にだけ聞こえるくらいの声で言う。


「メジロって、一生つがいを変えないらしいですよ」


 東雲の目が、わずかに見開かれる。

 そのまましばらく何も言えず、ようやく小さく笑った。


「なんそれ」


 東雲はさっきまでより、ずっと人間らしい顔をしていた。


「じゃあな」


 炎獄が承認印を押す。東雲が振り返って、肩をすくめるようにして笑った。


「……うん」


 東雲はそのまま輪廻の流れの方へ向き直る。

 その手前で、ふと天望の方を見た。


「私もごめんね、彼にちょっかいかけて」


 天望は一瞬だけ目を丸くした。

 そして東雲唯は、今度こそ迷いなく輪廻の流れへ身を預ける。

 今度はきっと、うまくいく。そう思えた。


「ほらな」


 炎獄が金棒に体重を預け、東雲の消えた先を見ながら言った。


「ぶん殴った方が早えこと、あったろ」


 天望は小さく息を吐いた。結局、説法だの教義だのと格好をつけても、最後は平手打ち一発だったのだから締まらない。


「炎獄がそんな事ばっかり言ってたせいですからね」

「はっ、ほざけ。殴ったのお前だろ」


 天望は、はあ、と呆れたように息を吐いた。

 地獄の鬼といるうちにどんどん菩薩が遠のくような気がしていた。なのに最後に東雲の足を前へ出させたのが、その乱暴さだったと思うと、素直に嫌だとも言い切れない。


「役割って、捨てれば済むものじゃないんですね。」

 

 炎獄は天望の背中をぱしんと叩いてから、親指で信者の方を指す。


「ほら、残りもとっとと回すぞ。ガンガン殴れ」

「殴りません、もう!」


 春、桜の枝の上で、緑色の鳥が鳴く。

 二羽連れ立って、最後までずっと共に。

個在教編でした。

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