12話 東雲唯という題名
書庫へ一歩入った途端、背後の閻魔の声が遠くなった。
天井まで届く棚には、赤と黒の背表紙が隙間なく並んでいた。数えようとするだけで気が遠くなるほどの数。
生まれて、死んで、裁かれた者たちの記録が、静かに背を向けている。
天望は思わず声を落とした。
「……ここにあるのが、全部……」
「閻魔帳だ」
炎獄の声も、さっきまでより少し低かった。
「赤が転生。黒が地獄。第五審通ったやつは大体ここに残してる」
「人の生きた記録が、こんなに」
「まあな」
そう言って炎獄は、入り口近くの棚に指を滑らせる。
天望はその背中を見ながら、胸の奥に小さな重さを覚えた。
「なんか、見るの悪い気もしますね」
「でも、救いてえんだろ」
炎獄は迷わず棚を探し続ける。
乱暴なようでいて、その手つきだけは妙に丁寧だった。人の生を記したものだと、炎獄もちゃんとわかっている。
「あった」
炎獄が一冊の赤い帳面を引き抜いた。
表紙の端に、細い字で東雲唯と書かれている。
天望は無意識に背筋を伸ばした。
炎獄が帳面を開く。
紙が擦れる音が、書庫の奥まで静かに響いた。
東雲唯。享年32。
日本の首都、東京の比較的裕福な家庭に生まれる。
幼い頃から児童劇団に入り、母親に女優への道を期待されて育つ。
何本かのテレビコマーシャルや舞台に立ち、雑誌の広告モデルなどにも掲載されたが、名前が売れる事は無く子役としてのキャリアを終える。
高校生以降、学校に通いながら活動。しかし大きな役を掴む事はなく、卒業以降はいわゆる小劇場の舞台に立ち、チケットノルマをこなすため知り合いに売っていた。
生活費を稼ぐ為にキャバクラのアルバイトに従事。昼間に舞台稽古、夜に出勤の生活を続ける。
客として来た経営者と名乗る男と交際を始める。首都圏のマンションで同棲をしながら五年交際。
三十歳で結婚を約束したが、男に妻子が居ることが判明。愛人として囲われていた事を知り破局。実家に戻る。
母の「女優で大成しなかったならせめて結婚をしろ」という言葉で家を飛び出した際に運悪く飲酒運転の車に撥ねられ、全身を強く打ち生を終える。
炎獄はそこで一度、頁を捲る手を止めた。
帳面に書かれているのは、ただの記録だ。
感情は書かれていない。痛みも、惨めさも、恨みも、どこにも文字としては残らない。
それでも、並んだ事実だけで十分だった。
天望は帳面から目を離せなかった。東雲唯という女は、最初から最後まで、誰かに何かを期待される形で立たされていた。
役割が先にあって、その中に自分を押し込める息苦しさだけは、天望にも少しわかった。
「何かの飾りとして、生き続けた人……」
天望の声は小さい。
怒っているのか、呆れているのか、どちらともとれる声色だった。
「役割を捨てろ、って……そう言いたくもなりますね」
炎獄は帳面を見たまま、奥の棚へ視線を向けた。
赤い背表紙が並ぶ中で、東雲唯の人生だけが急に重く見える。
「で、死んでから教祖か」
天望は何も言わなかった。その一言で、東雲のしていたことが少しだけ形を変えた気がした。
教祖という役割を選んだのではない。
今度こそ、自分で選んだ役割だと思いたかったのだ。
「彼女、ずっと見られ方で生きてきたんですね」
天望が呟く。
「可愛い子役。売れない女優。夜の女。誰かの愛人。結婚できなかった娘。可哀想な人」
言葉にするほど、東雲の自虐が別の響きを帯びていく。
笑い話にしていたのではない。笑い話にしないと、先に誰かがそれを傷に変えるからだ。
「だから、自分で先に言う」
炎獄は頁の端に指をかけた。だがすぐには捲らなかった。
「個在教は、あいつが欲しかった言葉ってわけか」
「たぶん」
天望は頷く。
「何者でなくてもいい。役割を果たさなくていい。ただ個であればいい。……彼女が一番、誰かに言ってほしかった言葉なんだと思います」
人の生を記した帳面は、ただ静かにそこにあるだけなのに、時々、声よりも雄弁だった。
「今も教祖って役割に縛られてるように見えるけどな」
「……そうですね」
天望は指先を袖の中で握った。
「多分ですけど……個でありたいというより、選ばれたいんですよ」
そう思った瞬間、天望の中で何かが噛み合った。
東雲は役割を捨てたいのではなく、役割でしか呼ばれなかった自分を、どうにか救おうとしていたのだ。
「本当は飾った自分じゃなく、ありのままの自分を」
「じゃあ、取り繕わなきゃいいじゃねえか」
炎獄は天望を見た。そんなに難しい顔をするほどのことか、という疑問が顔に出ていた。
天望はすぐには頷かなかった。炎獄の言うことは正しい。たぶん、一番早い。けれどそれが一番難しい事を、天望は知っていた。
「……怖いですよ。本当の自分を出して、必要ないって言われるかもしれないのは」
炎獄が黙って赤い帳面を棚へ戻す。
天望はしばらく、東雲唯と書かれた背表紙を見ていた。
「捨てろと言われても捨てられないから、ああやって教義にしたんです。無理に剥がしたら、また別の役に逃げるだけです」
「じゃあ何すんだよ」
炎獄の声には苛立ちより、考えるための重さがあった。
天望はようやく炎獄を見る。
「降ろすんです」
必要なのは敗北ではなく、終演だった。
「でも、突き落とすんじゃなくて」
天望の目に、少しだけ光が戻る。
「自分で降りなきゃ意味ないんです」
炎獄はしばらく黙った。
東雲唯を否定するのではない。個在教を壊すのでもない。
東雲唯という演目の、幕を下ろす。
二人はしばらく、東雲の閻魔帳の背表紙を見つめていた。




