第八十一話 邪悪な笑い
魔術師にとって異界の空気は魔力が偏在しているように感じる。
自分の魔力と外側の魔力の感覚が混濁し、
頭痛や嘔吐などの症状を引き起こす。
薬で感覚を鈍らせるなどの対処法はあるが、それでは
魔術の行使もままならない。
確実な対処は船酔いと一緒だ。
とにかく慣れ。
自身の内に流れる魔力をしっかりと意識し、自分の身体と
魔力を独立した領域としてイメージを構築する。
どんなに予備知識があっても実際に異界の空気に触れるまでは
なかなか身につかないのだけど、ミカはこれがうまい。
ほんの少しのレクチャーで起き上がれるまでに回復した。
口からよだれが糸引いててかなり辛そうだけど。
「ここ、なんですか? 私たちどうなっちゃったんです?」
「未知の異界の生物の腹の中ってとこかな。なんと、これが今まで
解明されなかったニトクリスの鏡の原理よ」
「つまり、特定の時間に異界生物の腹の中に繋がる、と。
なんだか嬉しそうですね。ニトクリスの鏡で失踪して
戻って来た人はいないはずでは?」
「記録にないだけよ。二人ならなんとかなる。
でも、私たち以外に飲み込まれてないのは不幸中の幸いね。
犠牲者の遺体、生存者、どれも大事な証拠になるから」
「どうなんでしょう? 私たちがいなかったら死体でもネコでも
食い散らかしたのかもしれません」
ミカは不気味そうに自分を模した水の塊を見ている。
周囲のシナプスがビリビリ反応してるねぇ。
強い感情もおいしいようで。
「あまり動かないほうがいい。心もね。動けば動くだけ、
消化されるのが早くなる。こいつが消化してるのは私たちの
存在そのもの。知られることが食われること、かな」
「消化はやめてくださいよ、余計に怖くなります。
クルスさんはずいぶん余裕みたいですけど、
なにか脱出の方法があるんですか?」
軽くうなずいただけで、私を模した形は何度もうなずいてる。
もうそれヘッドバンギング。
けど、かなり効く。
唾を飲み込むのも辛くなった。
「思ったより持ってかれてる、急いだほうがいい。
身体を動かさずに聞いてね。部屋の配置からして私たちの後方に
鏡がある。そこを通り抜ければ出られるはずよ」
「確かに。魔力に流れを感じます。決められた時間が過ぎるまでは
閉じないのでしょうか?」
「だとしてもそれがいつかはわからない。問題は──」
「そこまでたどり着けるか、ですよね。走るにしても歩くにしても、
身体を大きく動かしますから」
「身体強化の術式はお得意?」
「急に何ですか。……まあ、できますよ。
それほど強力なものではありませんが。クルスさんは?」
「当然。作戦はシンプル。自身に身体強化を施し、順番にお互いを
抱えて走ればそれぞれの動作を半分にできる」
「の、脳筋だった……」
「他にスマートなソリューションがあるなら聞くわよ?」
「なんなんですか、ときどき言うその意味わかんない言葉。
ええ、ええ、ありませんよ。でもそれ、私の負担のほうが
大きいですよね? クルスさんのほうが明らかに──」
「それ以上言うな! 筋肉! 筋肉って重いから」
「重いって自分で言っちゃってる……。
じゃあ、クルスさんが先に走る。行けるとこまで行ったら私に交代。
それでいいですね?」
「任せて」
ミカが術式を編み、私は術式を綴る。
とはいえ、私にできる身体強化なんて『痛覚遮断』しかありません。
セシリアさんにまた怒られるだろうなあ。
もちろん生きて帰れたらだけど。
そう考えるとセシリアさんの間延びした声で叱られるのが楽しみに
なってきて顔がにやけた。
私を模した形も笑ってて、ミカが両方にドン引き。
「辛いときこそ笑うのが勇者だよ! さあ行こう!」
行こう! って気合入れたのに……笑えねえぇぇ~~~。
二人で勢いよく振り返ったら子供倒れてるじゃん。
現在地と鏡の中間よりちょっと向こう側。
絶妙に無理ゲー。
あれ? でもあの銀色の肌、見覚えが……。
「まさか、ヤルル?」
「知ってる子ですか?」
「旧市街で染色やってる家の子。あの角のある夜鬼にさらわれたんだ」
助けたい。
ヤルルのお姉ちゃんの記憶を覗いたとき、そう強く願った彼女の想いが
私の胸に火を灯す。
でもどうする?
私の力じゃ二人同時は無理。ミカは?
私の視線に気づくとミカは首を振る。
ミカの身体強化でもそこまでの強度を出せない。
思いつく方法は一つだけ。
ああもう、私ってどうしてこんなやり方しか思いつかないの。
「私を信じる?」
「もちろんです。なんでも言ってください」
私の胸に灯った火がそのままミカの目にも宿ったみたいじゃない?
いい顔、いい返事。
私はミカを抱きかかえてヤルルのもとへ全力ダッシュ。
ミカは驚いてるけど、私の腕の中でじっと動かない。
『私を信じる?』
『もちろんです。なんでも言ってください』
言葉までが模倣され、消化され始めた。
ミカの表情を見る限り、事態の深刻さに気付いてるね。
言葉は知恵。
この水の化け物が私たちを本格的に理解し、咀嚼する兆候。
最後の三歩はジャンプでヤルルの傍らに飛び込む。
キツイ。全身が痛い。
でもその甲斐があった。
ヤルルは生きてる。かろうじて息してる状態だけど。
「ほとんど消化されてますね。これじゃ記憶も……」
「行って! その子を連れてここから出て!」
ミカが驚いて目を見開いてる。
そうよね、私の言ってることはたんなる自殺だものね。
「期待して損しました。この子はもうダメです、あなたを
連れていきます」
「そう言うと思った。でも残念、あれを見て」
鏡の入り口が遠ざかっていく。
言葉を知り、私たちの行動を知った。
「そんな……。私たちがやろうとしてることを理解してる⁉」
「私はおっもいよ~~。こんなの抱えてちゃあれに追いつけない。
迷ってる暇はない。この子を連れて行きなさい」
ミカは歯を食いしばり、殴りつけそうな目で睨んだけど
ヤルルを抱き上げてくれた。
「この子を運んだら戻ります。むこうで『牽引』の術式を──」
「ノエルを連れてきて。あなたじゃ役に立たない」
「でも……」
「さっさと行けよ! せめてその子を救ってみせろ!」
ミカの顔が真っ赤。そんで涙目。
怒鳴られて怯えた? 怒った?
違うな。
私がわざと乱暴なこと言ってるのなんてバレバレ。
泣いてくれるんだね、私のために。
……いい子。
「クルスさんも走ってください。クルスさんなら追いつけます」
はいはい、がんばりますよ。
あっというまに遠ざかっていくミカの背中を追いながら、
自分の身体の重さにうんざりしてる。
倒れて、眠り込んでしまいたい。
そう思ったら、もう倒れてた。
かろうじてミカが鏡をくぐるのは見届けた。
そしたら胸に灯ってた火も消えちゃって、仰向けになったら
死の直前の最後の吐息みたいに口から空気が抜けてった。
完全に午後の微睡み状態。
ぼんやり夕飯のこと考えながら、遠くに遊んでるオトの声が
聞こえたりしててね。
こんな最後なら悪くない。
私を模した形に上から覗き込まれてさえいなければ。
「まるで子供だね。私たちに興味津々。好奇心だけで私を見てる。
私たちの存在そのものを奪ってくのも、子供が虫の羽や足をちぎって
遊ぶのと変わらないんだ」
私が指さすと、向こうも私を指さす。
「違いすぎる。本来交わるべきじゃないんだ。でも、こうやって
繋がってしまってる。
その事実こそが、邪悪と呼ばれるものだと思わない?」
『邪悪と呼ばれるものだと思わない?』
「言葉を扱えるけど、意味を理解するのはまだ先か……。
AIみたいなものだね。残念だよ、
もうちょっと時間があれば意思疎通ができたかもしれないのに、
それまでは私がもたないや」
私を模した形が笑い出した。
嘲るような、悪意をもって相手を否定するような、
たぶんこれも邪悪だと言っていい笑い声だ。
悪い笑い方をするようになったなぁ。
十年前の私とは別人みたい。
悩みながらも手放さなかった純粋さももはやない。
そう、笑ってるのは私だ。
だっておかしいんだもの。私を矮小な虫けらみたいに見下ろしてる
こいつが、全然状況がわかってないってことが。
「あのね、私が怖いのはあの白装束の連中で、あいつらは異界からの
侵入者を警戒してる。そしてここはあなたの領域、異界そのもの。
これどういうことかわかる?」
なんでこんな私にこの力はいつまでも応えてくれるんだろう?
手を掲げてこう言えば、すぐ来てくれるのがわかるんだ。
「こい、ドリームコンパクト」
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