第8話:タカツカサの洗礼
午前九時五十分。
南青山のアトリエを出発したマイバッハは、赤坂の超高層タワーへと戻っていた。
地下の専用車寄せから、直通のプライベートエレベーターで四十七階の『エグゼクティブ・ボードフロア』へと上がる。
エレベーターの扉が開いた瞬間、佳乃の耳に届いたのは、無機質で乾いたオフィス環境音だった。
電話の呼び出し音など一つも鳴っていない。受話器を取って大声で怒鳴る者も、バタバタと書類を抱えて走り回る者もいない。
ガラスで四方を区切られたコンパートメントの中で、世界各国のマーケットモニターを前にしたアナリストたちが、キーボードを叩く規則正しい音だけが、低く波のようにフロアを満たしている。
鳴神物産が「人情と怒号と泥臭い社内政治」で動く昭和の巨大タンカーだとすれば、ここは最新の電装システムと冷徹なアルゴリズムで武装した「深海巡航潜水艦」だった。
「緊張しているか」
並んで歩く誠一郎が、前を見据えたまま低く問いかけてきた。
佳乃は、足元のポインテッドトゥパンプスの小気味よいヒール音を乱すことなく、静かに首を横に振った。
「いいえ。緊張というよりは、背筋が伸びる思いです。……このフロアの空気には、嘘や誤魔化しが一切通用しない冷徹さを感じます」
「当然だ。ここにいる全員が、年俸数千万円から数億円の成果報酬を勝ち取るために世界中から集まった、強欲で極めて合理的なプロフェッショナルたちだ。肩書きや家柄、ましてや性別や涙など、ここでは一円の価値も持たない」
誠一郎の口元に、冷たい笑みが浮かぶ。
「これから入るメインボードルームにいる二人は、その中でも特に扱いにくい怪物たちだ。覚悟して扉をくぐれ」
「はい」
佳乃は深く息を吸い込み、胸元の純白のシルクタイにそっと手を添えた。
鏡の前で手に入れた新しい装い――チャコールグレーのスーツと、洗練された前下がりボブ。野暮ったい眼鏡を外した素顔は、すでに戦う者の凛とした光を湛えている。
突き当たりに現れたのは、磨き抜かれたフロストガラスとチタンフレームで構築された巨大な両開きの扉だった。
誠一郎が手をかざすと、シューッという気密解除音とともに、重厚な扉が静かに左右へと開いた。
◇
メインボードルーム――タカツカサ・キャピタルの最高意思決定機関。
二十人は優に座れる楕円形の黒大理石テーブルの向こう側は、床から天井まで届く全面ガラス張りとなっており、眼下に広がる東京の街並みが一望できた。
壁面の巨大なマルチディスプレイには、複雑な財務モデリングのグラフと英文のディールシートが幾重にも投影されている。
その部屋の奥、上座に近い席に、すでに二人の人物が着席していた。
一人は、完璧に撫で付けられたショートヘアに、プラチナフレームのシャープな眼鏡をかけた女性。三十代後半とおぼしきその肌には微塵の緩みもなく、黒の細身のスリーピーススーツを隙なく着こなしている。胸元に光るのは、日本の弁護士バッジとニューヨーク州弁護士のクレデンシャルピン。
タカツカサ・キャピタルの法務・コンプライアンス統括副社長(VP)、真鍋苑子だった。
もう一人は、三十代前半の筋骨逞しい男。上質のイタリアンコットンのシャツの袖を腕まくりし、ネクタイをわずかに緩めている。手元のタブレットを高速でフリックしながら、片手でエスプレッソのカップを弄んでいる。彫りの深い精悍な顔立ちに、飄々とした、しかし決して油断を許さない肉食獣のような光を宿した瞳。
タカツカサ・キャピタルの最高執行責任者(COO)、梶原康平だった。
誠一郎が部屋に足を踏み入れた瞬間、二人は手元の作業を止め、鋭い視線を入り口へと向けた。
そして、誠一郎の半歩後ろに従う佳乃の姿を認めた刹那――室内の気圧が急激に下がったかのような錯覚を覚えるほどの、強烈な緊張感が部屋を満たした。
「……定刻だ。全員揃ったな」
誠一郎はテーブルの最上席へと歩み寄り、椅子を引かずに立ったまま告げた。
「議題に入る前に、紹介しておく。本日付で、タカツカサ・キャピタルのシニア・エグゼクティブ・オフィサー、ならびに私の特命秘書兼戦略補佐として着任した、槇野佳乃だ」
紹介の言葉が落ちた瞬間。
メインボードルームの空気は、比喩ではなく、完全に氷点下まで凍りついた。
「…………」
苑子の眼鏡の奥の瞳が、薄く細められた。
値踏みするような、皮膚の表面をメスで切り裂くような冷徹な視線が、佳乃の足先から頭頂へと走る。
梶原はといえば、呆れたように小さく息を吹き出し、エスプレッソのカップをソーサーの上へカチャリと音を立てて置いた。
沈黙を破ったのは、苑子の氷のように冷ややかな声だった。
「代表。……ご冗談はおやめください」
苑子は組んでいた指を解くこともせず、誠一郎を真っ直ぐに見据えた。
「昨夜、代表が独断でエグゼクティブ契約書を発行し、法務の事前審査を通さずに社印を押印されたとシステムからアラートが上がった時は、何かのシステムエラーかと思いました。ですが……本当に、この方をその席に座らせるおつもりですか?」
「契約は正規の手続きを経て締結された。何か瑕疵があるか、真鍋」
誠一郎が感情を交えずに問い返す。
苑子は冷笑を浮かべ、手元のクリアファイルを指先で弾いた。
「手続き上の瑕疵なら山ほどあります。第一に、我が社は完全な実力主義を掲げる独立系投資ファンドです。マネジメント層に名を連ねる者は、アイビーリーグのMBAホルダーか、国際金融法務の専門家、あるいは世界的大手投資銀行で数千億のディールを成立させてきたトップバンカーのみ。……失礼ですが、槇野さん」
苑子の矛先が、鋭利な切先となって佳乃へと向けられた。
「あなたの経歴書を拝見しました。国内の私立大学を卒業後、鳴神物産に一般職として入社。以降七年間、先代会長の秘書室に勤務。……学術的な金融バックグラウンドは皆無。外資系でのトラックレコードもゼロ。国家資格も持たない、ただのドメスティックな商社の事務員です。しかも昨夜、敵対関係にある鳴神物産から解雇されたばかりの身」
苑子の舌鋒は、容赦がなかった。
一分の感情論も交えず、ただ客観的なスペックの不足だけを整然と並べ立てる。
「いくら敵対企業の内部事情に詳しい元社員とはいえ、そのような人物に『シニア・エグゼクティブ・オフィサー』の肩書きと、代表に次ぐ社内第2位の決裁権限、さらには年俸五千万円という破格のパッケージを与えるなど……我が社に出資してくださっているリミテッド・パートナー(機関投資家)たちに対する、明確な背任行為です。コンプライアンス統括として、断固として承認できません」
正論だった。
一介の外資系ファンドの役員として、これほど真っ当で、忠誠心に溢れた反論はない。
さらに、隣の席から梶原が苦笑混じりに肩をすくめて追撃をかけた。
「誠一郎、俺からも言わせてもらうぜ。お前が個人的にどんな女を囲おうが、プライベートの金でやる分には文句は言わねえよ。だが、今はタイミングが最悪だ。お前の気まぐれな道楽に付き合ってる暇は、ウチには一分一秒もないんだぞ」
梶原はテーブルの上に置かれた大型タブレットを乱暴に叩いた。
「知ってるだろ? いまウチが総力を挙げて進めている、ドイツの総合物流企業『ライン・ロジスティクス』のM&A案件だ。投資総額は七百億円。クロージング予定日は来月末だというのに、相手方の経営陣が突如として頑なに態度を硬化させ、破談寸前の泥沼に陥ってる。こっちのアナリストチームは三週間不眠不休で原因を洗い出してるが、一向に糸口が掴めねえんだ。ファンドの看板が吹き飛ぶかどうかの瀬戸際に、お前は何を考えて『お人形さん』を連れてきたんだ?」
お人形さん。
かつて鳴神物産で「お茶汲みしかできない地味女」と罵られたのと、本質的には同じ侮蔑の響き。
だが、佳乃は眉一つ動かさなかった。
彼らが怒るのも当然だった。自分の実力も知らないまま、突然降って湧いたような高待遇で現れた部外者に対して、プロフェッショナルが警戒と拒絶を示すのは組織として極めて健全な反応だからだ。
「……言いたいことはそれだけか」
誠一郎は腕を組み、微動だにせず二人を見下ろしていた。
その瞳の奥には、彼らの反発を最初から織り込み済みであるかのような、底知れない静寂が湛えられている。
「私への反論は終わったようだな。ならば――彼女の価値を、彼女自身の口から証明させよう」
誠一郎は佳乃を一瞥することすらなく、ただ前を見据えたまま言った。
「佳乃を試せ。ただし、一度きりだ。彼女が答えを出せなければ、私は即座に契約を破棄し、全責任を取って私財からファンドへ違約金を支払う。だが――もし彼女が答えを出したなら、二度と彼女の権限に口を挟むな」
誠一郎の退路を断った宣言に、苑子と梶原がわずかに息を呑んだ。
誠一郎がそこまで言い切るほどの人間なのか。
苑子の瞳に、怜悧で冷酷な光が宿る。
「……いいでしょう。代表がそこまで仰るなら」
苑子は椅子の横に置いてあった、革張りの分厚いブリーフケースから、ドサリと鈍い音を立てて書類の束を取り出した。
一件の案件に関する資料とは思えない厚み。
三百ページを超える、極めて難解な専門用語で埋め尽くされた英文のM&A契約書、デューデリジェンス(資産査定)報告書、ならびにドイツ連邦共和国の公認会計士による財務監査調書の一式だった。
バシィィンッ!
苑子はそれを、佳乃の目の前の大理石テーブルの上へと叩きつけた。
風圧が、佳乃の前髪をわずかに揺らす。
「ライン・ロジスティクスの買収案件に関する、すべての一次資料よ」
苑子は腕を組み、氷のような視線で佳乃を射抜いた。
「我が社のトップアナリストとフランクフルトの提携法律事務所が、三週間かけて徹底的に精査しても、相手方がなぜ突如として態度を硬化させ、買収合意書のサインを拒否しているのか、その根本原因を特定できなかったわ。財務諸表にも、事業計画にも、数字の上では何の欠陥もない」
苑子は冷酷に宣告した。
「もしあなたが、代表の隣に座るに相応しい知性をお持ちだというのなら――この資料のどこに、交渉を停滞させている『致命的な地雷』が潜んでいるのか、今この場で答えてみなさい。それができなければ、今すぐその仕立ての良いスーツを脱いで、このビルから立ち去ることね。タカツカサに、無能な飾りの席は一つもありません」
突きつけられた試練。
それは、ウォール街の一流バンカーですら音を上げるほどの、悪意に満ちた無理難題だった。
三百ページにおよぶ英文の法律・財務文書を、予備知識もない状態で今すぐ読み解き、プロが見落とした盲点を突けというのだ。常識的に考えれば、ただの「体裁のいい追い出し工作」に過ぎない。
梶原が「おいおい苑子、さすがにそれは……」と苦笑混じりに口を挟もうとした。
だが、誠一郎は微動だにせず、腕を組んだまま静観している。
佳乃を庇う言葉は、一切発しない。
それは冷酷さからではない。
佳乃の能力を、その頭脳に宿る怪物の本質を、誰よりも信じ切っているからこその沈黙だった。
室内に、針の落ちる音すら聞こえそうな静寂が降りる。
三人の視線が、佳乃の全身へと集中した。
試されている。
自分がこれまで培ってきた七年間のすべてが。
誰にも評価されず、「お茶汲みの雑務」と切り捨てられてきたあの見えない実務の価値が、今、日本最高峰の金融のプロたちの前で、天秤にかけられている。
(……逃げる理由なんて、どこにもないわ)
佳乃の胸の奥底で、冷たく澄み切った覚悟が、青い炎となって静かに燃え上がった。
怯えも、怒りも、焦燥もない。
ただ、驚くほどの静けさが、彼女の知性を研ぎ澄ましていく。
佳乃は背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、テーブルの上の分厚い書類の束へと、ゆっくりと視線を落とした。
そして、苑子と梶原に向かって、非の打ち所のない完璧な角度で一礼した。
「拝見いたします」
澄んだ、鈴の鳴るような声が、重苦しいボードルームの空気を清冽に切り裂いた。
「……三分だけ、お時間をいただけますでしょうか」
静かな宣戦布告とともに、万能秘書の反撃の幕が、今まさに切って落とされようとしていた。




