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第7話:ゴミ箱行きの手帳

翌朝、午前九時。定刻を迎えた鳴神物産本社ビル最上階の役員フロアには、いつもとは決定的に異なる異様な空気が充満していた。先代・鳴神剛造が五十年にわたり守り抜いてきた、重厚なウォールナットの腰壁と伝統的な油彩画で彩られていた旧会長室――その重々しい空間は、たった一晩の突貫工事によって、軽薄極まりない悪趣味な空間へと塗り替えられていた。中央に鎮座していた黒革の応接セットは無残に撤去され、代わりに運び込まれたのは、六本木のショールームから取り寄せられたばかりの、成金趣味丸出しの真っ白な本革ソファ。壁一面には、海外のスタートアップ企業を真似た八十五インチの超大型壁掛けモニターが取り付けられ、意味もなくリアルタイムの世界株価指数と為替チャートが青や緑の光を明滅させている。部屋の隅に設えられたカウンターには、イタリア製の最新鋭エスプレッソマシンが据え付けられ、挽きたての豆の香りとミルクの蒸気音がシューシューと音を立てていた。「うーん、やっぱりこれだな! 親父の使ってたあの埃っぽいアンティーク家具は、視界に入るだけで気が滅入る。新時代のリーダーには、こういう洗練されたクリエイティブなオフィスが相応しい」新調された白革のソファに深く身を沈め、足を組んでいるのは鳴神貴之だった。昨夜の泥酔と取り乱した様子は綺麗に拭い去られ、特注の明るいライトグレーのスーツに身を包んだ貴之は、まるで時代の寵児にでもなったかのように得意満面でマグカップを揺らしていた。「本当ですねぇ、社長ぉ。前の会長室って、なんだかお線香とおじいちゃんの匂いが染み付いてて、すっごく息が詰まりそうでしたもん。白で統一されて、すっごく映えます!」その隣で、ふんわりとしたカプチーノの泡を口元につけながら甘ったるい声を上げたのは、江藤瑠璃華だ。昨夜のツイードから一転、今日は胸元が大きく開いたアイボリーのタイトワンピースに、ジャラジャラとゴールドのブレスレットを重ね付けしている。とてもではないが、先代の密葬が明けたばかりの企業の秘書がする格好ではなかった。だが、貴之はそれを咎めるどころか、鼻の下を伸ばして瑠璃華の肩を抱き寄せる。「ハハッ、瑠璃華の言う通りだ。これからは見た目からしてスマートでなければ、海外の投資家からも相手にされないからな。DXとペーパーレス、そしてAIによる全自動化――俺が鳴神物産を、日本一スタイリッシュな商社に生まれ変わらせてやるよ」二人が優雅にカフェ気取りの朝を謳歌していた、まさにその時だった。バァンッ!静寂を打ち破り、社長室の白い扉が乱暴に開け放たれた。入ってきたのは、肩で激しく息をし、額にびっしりと汗を浮かべた若い女性だった。総務・秘書課のアシスタントを務める瀬尾千夏――佳乃が七年間の秘書生活の中で唯一、その誠実さと実務への真摯な姿勢を認めて直属の後輩として手塩にかけて育ててきた、二十三歳の女性社員だった。「しゃ、社長……っ!」千夏の顔は、土気色を通り越して真っ青だった。乱れた黒髪を直す余裕すらなく、手には何枚もの連絡メモを固く握りしめている。貴之は眉を露骨にひそめ、持っていたマグカップをガラステーブルの上にカツンと音を立てて置いた。「おい、瀬尾。ノックもなしに飛び込んでくるとは何事だ。これだから昭和の教育を受けた総務の雑魚は困る。もっとエレガントに――」「そんなこと言ってる場合じゃありません!」千夏は貴之の小言を遮り、震える声で叫んだ。「秘書室の佳乃先輩のデスクが、今朝から空っぽになっています! PCのログインアカウントも削除されていて、私物も全部なくなっていて……警備室に聞いたら、昨夜、社長の命令で社員証を取り上げられてビルから追い出されたって……! 嘘ですよね!? 佳乃先輩が解雇されたなんて、何かの間違いですよね!?」千夏の必死の形相に、貴之は心底うんざりしたように鼻を鳴らした。「間違いなわけないだろ。昨夜、俺自ら言い渡してクビにしたんだよ。あいつは親父の威光を傘に着て、俺の経営方針に口答えばかりする目障りな女だったからな」「ク、クビ……っ!?」千夏は信じられないものを見るように目を見開いた。「そんな……! 社長、正気ですか!? 佳乃先輩がいらっしゃらないと、今日の業務すら回りません! 午後は、先代の時代から我が社の最大口の取引先である東都重工の役員の方々が、訃報を受けて弔問にいらっしゃる予定なんですよ!? どなたをどの部屋にお通しして、どんな席順でお迎えすればいいのか、佳乃先輩以外に分かる人はいません!」「ああん? 東都重工だぁ?」貴之はせせら笑い、背もたれにふんぞり返った。「たかが下請け上がりの重工メーカーのじじい共が何人か来るだけだろ。適当に大会議室にでも放り込んで、紙コップでお茶でも出しときゃいいんだよ。いつまでも親父の古い人脈にペコペコ頭を下げてる暇はないんだ。大体な、槇野は自己都合で勝手に辞めたんだよ。これからはそこにいる瑠璃華が秘書室長だ。文句があるならお前も今すぐクビにしてやるぞ?」「ひ、秘書室長……!?」千夏がおそるおそる視線を横へ向けると、瑠璃華が勝ち誇ったような艶然たる笑みを浮かべて、ソファからすっと立ち上がった。カツ、カツ、カツ。耳障りなピンヒールの音を鳴らしながら、瑠璃華は社長室の隅――オフィスの備品として新設されたばかりの、大型業務用シュレッダーの前へと歩み寄った。その巨大な機械の足元を見て、千夏は息を呑んだ。そこには、見覚えのあるバインダーや書類ケースが、膝の高さまで無残に積み上げられていたのだ。黒や紺の革表紙。背表紙には、佳乃の極めて丁寧で美しい手書きの文字で、几帳面にインデックスラベルが貼られている。『政財界要人・嗜好及び禁忌カルテ(2021〜2026)』『各省庁・許認可折衝プロトコル及び過去係争覚書』『主要金融機関・包括融資契約特約条項確認マニュアル』『全国港湾倉庫・優先使用枠更新管理簿』それは、佳乃が七年間の激務の合間を縫って、自らの足と頭で集め、誰が見ても一目で理解できるようにと、昨夜の追放の直前にデスクの上に整然と残していった、鳴神物産の『命の結晶』――完璧な引き継ぎ資料一式だった。「千夏ちゃぁん、朝からギャーギャーうるさいわよ」瑠璃華はわざとらしく耳に手を当てながら、積み上げられたバインダーの最上段の一冊を、汚い虫でもつまむように指先で持ち上げた。「これ、見てよ。今朝、あの地味なおばさんの机の上に山積みになってたんだけどさぁ、何これ? 手書きのインデックス? 取引先の役員の家族の誕生日とか、どこのお茶が好きだとか、いつの時代の話をしてるわけ? 紙のファイルなんてオフィスに置いておくだけでスペースの無駄だし、埃っぽくて不潔極まりないわ」「な……何を言ってるんですか!」千夏の全身から血の気が引いた。「それは佳乃先輩が、先代会長と一緒に泥水を啜るようにして集められた、鳴神物産の心臓部ですよ!? ネットをいくら検索したって載っていない、最高機密の実務データなんです! それをどうする気ですか!?」「どうするって……決まってるじゃない」瑠璃華はフッと冷酷に唇を歪めると、バインダーのリング金具をバチンッと乱暴に外した。何百枚もの上質紙が、バラバラと音を立てて瑠璃華の手元に広がる。「貴之社長が仰ったでしょ? これからはDXとペーパーレスの時代なの。スケジュールなんてスマホの共有カレンダーに入れれば十分だし、取引先の情報なんてAIにネットからスクレイピングさせれば一瞬でしょ? こんな昭和の遺物の紙ゴミ、新しい鳴神物産には一ミリも必要ないのよ」「やめてぇぇぇっ!!」千夏が悲鳴を上げて駆け寄ろうとした。しかし、その制止よりも早く、瑠璃華は無造作に数十枚の書類の束を、業務用シュレッダーの細長い投入口へと滑り込ませた。ウィィィィィィィン……ガガガガガッ!獰猛な機械の唸り声とともに、鋭利な鋼鉄の刃が回転を始める。佳乃が夜を徹して書き綴った、端正な文字。取引先の体質、アレルギー情報、親族の確執、契約条項の盲点――会社の危機を幾度となく未然に防いできた門外不出の知恵が、無慈悲な刃に噛み砕かれ、幅二ミリの無意味な紙片となって、下のダストボックスへと雪崩のように吸い込まれていく。「やめて! お願いですからやめてください!!」千夏は涙をボロボロと零しながら、瑠璃華の腕に縋り付こうとした。「そのファイルの中には、今週中に更新手続きをしなきゃいけない銀行の契約書も入ってるんです! それを捨てたら、会社が取り返しのつかないことになります!!」「痛っ! ちょっと、触らないでよ安月給の平社員が!」瑠璃華は千夏の肩を乱暴に突き飛ばした。千夏は床に尻餅をつき、膝を激しく打ち付ける。「おい、瀬尾! 瑠璃華に怪我をさせたらただじゃ済まさんぞ!」ソファから貴之が立ち上がり、千夏を上から睨みつけて怒鳴りつけた。「お前はさっきから何を喚いているんだ! 無駄な書類を処分して身軽になることの何が悪い! 無能な前任者のやり方にしがみつくことしかできないお前のような老害予備軍がいるから、この会社はいつまでも古い体質から抜け出せないんだ!」「社長……っ、違うんです、本当に違うんです! 佳乃先輩は、会社を守るために……!」「黙れ! いいか、今の秘書室長は瑠璃華だ。瑠璃華の判断は俺の判断だ。これ以上騒ぎ立てるなら、お前も懲戒免職にして今月の給料も全額カットするぞ!」貴之の理不尽極まる怒号に、千夏は唇を噛み締め、床に突っ伏したまま震えることしかできなかった。その千夏の目の前で、瑠璃華は小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、次から次へとバインダーから書類を引き抜き、シュレッダーの口へ放り込んでいく。バリバリバリ、ガガガガガッ……!紙が裂け、切り刻まれる音が、まるで鳴神物産という巨大な船の竜骨がきしんで軋轢を上げている音のように、社長室に響き渡る。その中の一枚。まさに今、刃の隙間に吸い込まれようとしていた黄色の付箋紙がついた書類の端には、佳乃の筆跡で、赤く二重線が引かれた警告が記されていた。『※最重要・至急確認事項※大東京フィナンシャルグループとの包括融資契約(コミットメントライン300億円)第7条特約。代表取締役の交代時、30日以内に「経営健全化計画書」を添えて九条副頭取へ事前説明・承認を得ること。手続きを怠った場合、融資枠の即時凍結、ならびに既存融資残高の全額期限の利益喪失条項が発動するリスクあり。更新申請期日:今週末金曜日必着』――ガガッ、シャリシャリシャリ……。その警告もまた、誰の目にも留まることなく、無惨に千切りとなってダストボックスの底へと消え去った。二十分後。大型シュレッダーのランプが『満杯』を示して赤く点滅した。佳乃が残した七年分の防壁は、文字通り、復元不可能なゴミ屑の山となって消滅したのだ。「ふぅ〜、スッキリしたぁ! これでデスク周りもすっごく広くなりますね、社長!」瑠璃華は満足そうに両手をポンポンと払い、貴之に甘えた声を出した。「ああ、素晴らしいよ瑠璃華。これぞ真の業務効率化だ。無駄な書類をなくすことこそ、スマート経営の第一歩だからな」貴之は白いソファに座り直し、カプチーノを喉に流し込みながら、床でうずくまる千夏を冷たく見下ろした。「おい、瀬尾。いつまでそこに突っ伏してるんだ。そのゴミ袋を縛って地下のゴミ集積場へ捨ててこい。それから、今日の午後の来客の対応は全部お前が一人でやれ。瑠璃華は午後から、俺と一緒に銀座で新しいオフィスのインテリア選びがあるからな」「……っ」千夏はぎゅっと拳を握り締めた。爪が手のひらに食い込み、血が滲みそうだった。床に散らばったわずかな紙の破片を見つめる。そこには、佳乃が愛用していた万年筆のインクの青い滲みが、微かに残っていた。(佳乃先輩……っ)千夏の胸に、底知れない絶望と、そしてこの傲慢な二人に向けた激しい憤りが渦巻いていた。彼らは何も分かっていない。自分たちが今、どれほど取り返しのつかない大罪を犯したのか。鳴神物産をこれまで守り続けてきた唯一無二の防波堤を、自らの手で爆破してしまったという事実に――。時計の針が、午前九時三十分を指していた。外の空はどこまでも青く晴れ渡っていたが、鳴神物産の頭上には、目に見えない巨大な破滅の暗雲が、音もなく確実に立ち込め始めていた。

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なんか改行が消えちゃった感じですかね?
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