↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/58

第6話:脱皮

翌朝、午前七時。

超高層タワーのゲストルームに差し込む朝日は、昨夜の嵐が嘘のように澄み渡った青空から降り注いでいた。

わずか三時間半ほどの浅い眠りだったが、佳乃の意識は驚くほど冴え渡っていた。清潔なリネンの香りに包まれて目覚めた瞬間、自分の置かれた現実――鳴神物産を不当解雇され、宿敵であるタカツカサ・キャピタルの最高幹部として契約書にサインしたという事実が、冷徹な輪郭を伴って脳内に蘇る。


身支度を整え、昨夜の雨水が完全に乾いたものの、どうしても隠せないくたびれたスーツに再び袖を通す。

鏡の前で髪をきつく引っ張り、後頭部で頑ななお団子に結び直すと、指先で銀縁眼鏡を鼻梁に押し当てた。

七年間、自分を守り、周囲の視線を遮断するための仮面。

それを装着した瞬間、いつもの「感情を持たない黒子」の顔が完成する。

だが、その仮面がわずか一時間後に粉々に砕かれることになるとは、このときの佳乃はまだ予想していなかった。


コンコン、と控えめなノックの音が響く。

扉を開けると、そこにはすでに完璧なダークネイビーのスリーピースを着こなした誠一郎が立っていた。

徹夜同然のスケジュールであるはずなのに、肌には微塵の疲労も浮かんでいない。彫刻のような端正な顔立ちと、氷河を思わせる切れ長の瞳は、朝の光を浴びてなお人を圧するほどの知性を放っていた。


「目覚めは悪くないようだな。車が下で待っている。行くぞ」

「おはようございます、鷹司代表。……昨夜仰っていた、サロンへ向かうのですか?」

「そうだ。時間がない。八時から貸し切りにしてある」


エレベーターで再び地下へ降り、昨夜と同じマイバッハへ乗り込む。

車は朝の澄んだ空気を切り裂きながら、港区赤坂を抜けて南青山の閑静な高級住宅街へと滑り込んでいった。


◇


到着したのは、瀟洒な石造りの低層建築だった。

看板もネオンもなく、ただ黒いアイアンゲートの脇に控えめな真鍮のプレートが埋め込まれているだけだ。政財界のトップや世界的アーティスト、ごく限られたセレブリティのみを受け入れる完全紹介制のプライベートサロン兼ビスポーク・アトリエ。

重厚なガラス扉を潜ると、そこは白大理石とウォールナットの木目が調和した、静謐で洗練された空間だった。


出迎えたのは、無駄のない所作と鋭い審美眼を感じさせる五十代の男性スタイリスト――誠一郎が長年専属として全幅の信頼を置くトップクリエイターだった。


「お待ちしておりました、鷹司代表」

「頼んでおいた件だ。彼女を、完璧に仕上げてくれ」

「かしこまりました。……素晴らしい素材をお連れいただきましたね」


スタイリストの観察するような視線が佳乃の全身を撫で、佳乃は思わず身を縮こまらせそうになった。

戸惑う佳乃の背中に、誠一郎の低く滑らかな声が落ちてくる。


「代表……本当に、このような大層な場に私のような者が来る必要があったのでしょうか。秘書の実務において重要なのは情報管理とリスクヘッジであり、外見に多額のコストをかけるのは本質的ではないかと……」


なおも「黒子の美徳」を盾に防衛線を張ろうとする佳乃に対し、誠一郎は静かに歩み寄り、彼女の正面に立った。

至近距離で見下ろすその眼光には、一切の妥協を許さないプロフェッショナルの厳しさが宿っていた。


「佳乃。今日から君が対峙するのは、世界中の狡猾な機関投資家、百戦錬磨のファンドマネージャー、そして腹に一物を抱えた政財界のフィクサーたちだ。彼らは相手と目を合わせた最初の三秒で、その人間の知性、覚悟、そして『格』を値踏みする」

「……」

「謙虚さや地味さは、あの泥舟の社内政治では身を守る盾になったかもしれない。だが、弱肉強食の資本市場においては、ただ『舐めてかかっていいカモ』の看板を掲げているに等しい。外見とは、己の知性と尊厳を相手に知らしめるための、最も雄弁で鋭利な『武装』だ」


誠一郎は佳乃の肩にそっと視線を落とし、言葉を継いだ。


「君が七年間、誰かの影に隠れて削り落としてきた己の誇りを、今ここで取り戻せ。私の隣に立つ者に、貧相な装いは一ミリたりとも許さない」


ぐうの音も出ない正論だった。

外見を整えることは贅沢でも見栄でもない。世界を相手に戦うための、冷徹なビジネス戦略の一環なのだ。

佳乃は深く息を吸い込み、銀縁眼鏡の奥の瞳を引き締めた。


「……承知いたしました。私の認識の甘さを恥じます。すべて、お任せいたします」


その返答を聞き届けた誠一郎は満足げに微かに頷くと、サロンのラウンジスペースにある革張りソファへと腰を下ろし、手元のタブレットを開いた。


「では、こちらへどうぞ」

スタイリストに促され、佳乃は大きな鏡の前に据えられた革張りのチェアへと案内された。


◇


椅子の背もたれに身体を預けた瞬間から、容赦のない「脱皮」が始まった。


「まず、こちらを外させていただきますね」


スタイリストの細くしなやかな指先が、佳乃の後頭部へと伸びる。

何重にも固く巻き付けられていた黒いヘアゴムが解かれ、無数のヘアピンが一本ずつ抜かれていく。

バサリ、と音を立てて、押し込められていた黒髪が一気に肩へと零れ落ちた。

七年間、常にきつく引っ張られ、頭皮を締め付けていた重圧から解放された瞬間、佳乃の喉から微かな吐息が漏れる。


「……とても綺麗で密度の高い、美しい黒髪ですね。ただ、ずっと強い力で結び続けていたせいで、毛先にわずかな緊張が残っています。少しだけ長さを詰め、首筋のラインを美しく見せる前下がりのボブに整えましょう。あなたの端正な骨格を際立たせるスタイルです」


サクッ、サクッ、と小気味よいハサミの音が耳元で歌うように響き始めた。

傷んだ毛先が躊躇なく切り落とされ、重苦しく覆い被さっていた黒髪が、驚くほど軽やかな束となって床へと落ちていく。

スチームを当てられ、選び抜かれたオーガニックのトリートメントが髪の深層まで浸透していくにつれ、パサついていた髪がみずみずしい艶を取り戻し、まるで上質な漆のように光を反射し始めた。


「続いて、こちらもお預かりします」


スタイリストの手が、佳乃の耳元へ伸びる。

銀縁のフレームが持ち上げられ、顔から外された。

視界がわずかに柔らかく滲む。

だが、それ以上に――自分の素顔を覆い隠していた「防壁」が剥ぎ取られたことに対する、剥き出しの羞恥心が佳乃の心臓を跳ねさせた。


「……目立たないように、顔の半分を隠すような大きな眼鏡をずっとかけておられたのですね。こんなに吸い込まれそうなほど美しい瞳を、なぜ隠す必要があったのか……前の職場の方は、よほど節穴揃いだったと見えます」


プロのアシスタントたちが、手際よくスキンケアに入った。

先代が倒れてからの三日間、水分すら奪われて乾燥しきっていた肌に、冷たいローションと濃密な美容液が吸い込まれるように馴染んでいく。

丁寧なフェイシャルマッサージによって血流が促され、青白かった頬に、桃の花のような淡い血色が差していく。


施されたメイクは、決して派手なものではなかった。

ラメや強い原色は一切使わず、佳乃が生まれ持った陶器のような透明感のある肌質を極限まで引き立てるベースメイク。

眉は、意志の強さを感じさせる自然なアーチを描くストレートに整えられ、切れ長の瞳のキワには、深みのあるショコラブラウンの繊細なラインが引かれた。

唇には、知性と品格を漂わせる落ち着いたローズベージュのリップが薄く重ねられる。


「終わりましたよ。……鏡を、ご覧になってみてください」


スタイリストの声に促され、佳乃は恐る恐る、伏せていた瞼を持ち上げた。


「あ……」


小さな、掠れた声が口をついて出た。

そこに映っていたのは、佳乃自身が一度も見たことのない「女」の姿だった。


首筋を白くすっきりと見せる、毛先が内側に美しくカーブした洗練された前下がりボブ。濡れたような艶を湛えた黒髪が、顔周りを華やかに縁取っている。

野暮ったい眼鏡の奥に隠されていたのは、澄み切った秋の夜空のように深く、知性と意志の強さを秘めた切れ長の大きな瞳だった。

整った鼻筋、知的な唇、そして内側から光を放つような透明な肌。

華美に飾り立てた安っぽさは微塵もない。

そこにいたのは、誰もが息を呑むような気品と、近寄りがたいほどの凛とした美しさを宿した、一人の完成されたエグゼクティブ・ウーマンだった。


(これが……私……?)


震える指先で、自らの頬にそっと触れる。

地味で、お茶汲みしかできず、誰にでも代わりが務まる女――鳴神貴之が投げつけた呪いの言葉が、鏡の中の自分を見た瞬間、跡形もなく霧散していくのを感じた。


「お気に召していただけましたか? ですが、まだ完成ではありません。次は、あなたのための一着です」


◇


サロンの奥に併設されたビスポーク・アトリエへと案内される。

そこには、昨夜のうちに誠一郎が佳乃のサイズを目測で割り出し、夜を徹して仮縫いと調整を完了させていたという、最高峰のスーツが用意されていた。


「どうぞ、こちらのフィッティングルームへ」


渡されたのは、英国の名門マーチャントが織り上げた最高級ウールを用いた、深いチャコールグレーのパンツスーツだった。

インナーには、肌に吸い付くような純白のシルクデシンで仕立てられたボウタイブラウス。

佳乃は震える手で、それらの布地に身を滑り込ませた。


驚愕した。

量販店で買った吊るしのスーツとは、重さの分散が根本から違っていた。

肩に乗る感覚が一切ない。まるで自分の皮膚の延長であるかのように吸い付き、身体の動きを何一つ邪魔しない。

ハイウエストのストレートトラウザーズは、佳乃のすらりとした長い脚のラインを完璧に補正し、ウエストのくびれを嫌味なく強調している。

ジャケットに腕を通し、ボタンを一つ留める。

胸元でふわりと結ばれたシルクのボウタイが、マニッシュなスーツスタイルに極上のエレガンスと女性らしさを添えていた。


足元には、完璧に調整された上質なカーフスキンの黒いポインテッドトゥパンプス。

七センチのヒールが、佳乃の視界を普段より高く押し上げる。


カチャリ。

佳乃はフィッティングルームの真鍮の鍵を開け、厚手のカーテンを左右に引いた。


コツン。

ヒールの硬質な音が、静かなアトリエに響き渡る。


ラウンジのソファでタブレットを操作していた誠一郎は、その足音に反応し、何気なく顔を上げた。

だが――

視線を向けたその瞬間、誠一郎の指先が、画面の上でピタリと凍りついた。


「…………」


沈黙が落ちた。

呼吸の音すら消え去ったかのような静寂。


誠一郎の切れ長の瞳が、かつて見せたことのないほど大きく見開かれていた。

チャコールグレーの完璧なスーツを纏い、背筋を凛と伸ばして立つ佳乃。

揺れる黒髪の艶、首筋の白さ、そして眼鏡を外したことで露わになった、理知の光を湛える濡れた瞳。

それは、彼がこれまで見てきたどんな政財界の令嬢よりも、どんな外資系のトップエグゼクティブよりも、圧倒的な気品と美を放っていた。


誠一郎の視線が、佳乃の足先から、引き締まったウエスト、豊かな胸元のシルクタイ、そしてその潤んだ唇へと、ゆっくりと、貪るように這い上がっていく。

ゴクリ、と。

常に絶対零度を保ち、感情の揺らぎすら見せないはずの男の喉仏が、明確に、微かに上下した。


「……あ……の、鷹司代表……」


誠一郎のあまりに熱く、射抜くような凝視に耐えかねて、佳乃の頬がカッと紅潮した。

思わず視線を泳がせ、組んだ指先を胸元で弄ぶ。


「やはり……似合いませんでしょうか。このような華美な装いは、私の身の丈に合わないのでは……」


不安げに問いかける佳乃の声に、誠一郎はようやく我に返ったように、わずかに息を吐き出した。

そして、手元のタブレットをテーブルへ無造作に放り出すと、長い脚を運んで、佳乃の目前へと大股で歩み寄ってきた。


ザッ、と距離が詰まる。

佳乃が見上げるほど至近距離に立った誠一郎は、彼女の顔をじっと見つめ、やがて――自らの大きな手をそっと伸ばした。

革の手袋を外した素肌の指先が、佳乃の耳元にかかった黒髪の毛先を、壊れ物でも扱うかのように優しく撫でる。


「っ……」

触れられた耳朶から、電流のような熱が背筋を駆け抜け、佳乃の肩が微かに跳ねた。


「……身の丈に合わないだと?」

誠一郎の口から紡ぎ出された声は、掠れ、微かに熱を帯びて震えていた。

「冗談を言うな。……完璧だ」


誠一郎は佳乃の瞳を真っ直ぐに覗き込み、一言ずつ、噛み締めるように言った。


「これこそが、私が欲していた私の右腕の姿だ。……誰一人として、君をただの秘書などと侮ることはできない。いや……目を奪われすぎて、商談に支障が出ないか心配になるほどだな」


「え……?」

予想もしなかった賛辞に、佳乃の心臓が激しく鐘を打ち鳴らす。

誠一郎の唇の端に、いつもの冷徹さとは違う、独占欲を孕んだ微かな笑みが浮かんでいた。

男の瞳の奥に灯った熱い光の正体に気づきそうになり、佳乃は慌てて伏し目がちに頭を下げた。胸の奥が、熱い波に洗われたようにざわめいてやまない。


「あ、ありがとうございます……」


「礼には及ばない。言ったはずだ、これは武装だと」

誠一郎は名残惜しそうに髪から指を離すと、背筋を伸ばし、冷徹な総帥の表情へと戻った。

「準備は整った。これから本社へ向かう。今日の午前十時から、役員フロアのメインボードルームで幹部会がある」


誠一郎の瞳が、獲物を狩る冷徹な光を取り戻す。


「我が社の法務トップである真鍋苑子と、COOの梶原が君を待っている。彼らは極めて論理的で、実力主義の怪物たちだ。君が私の個人的な趣味で雇われた無能な飾り物ではないかと、血眼で値踏みしてくるだろう」

「……」

「返り討ちにしてやれ、佳乃。君のその新しい鎧と、内に秘めた知性で」


佳乃は胸元のシルクタイにそっと手を添え、前を向いた。

迷いは、すでに微塵もなかった。

鏡の中にいた新しい自分が、背中を強く押してくれる。


「はい、鷹司代表。タカツカサ・キャピタルのシニア・エグゼクティブ・オフィサーとして……全力を尽くしてまいります」


南青山の柔らかな朝の光を背に受け、二人は新たな戦場――タカツカサ・キャピタル本社へと向かうべく、アトリエの一歩を踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。