第5話:破格のオファー
漆黒のマイバッハは、港区赤坂の再開発エリアに聳え立つ超高層タワーの地下専用車寄せへと滑り込んだ。
一般車両の侵入を拒絶する重厚なセキュリティゲートを二度くぐり抜け、完全なプライベートゾーンへと停車する。
ドアが開いた瞬間、外の湿った冷気とは完全に切り離された、清浄で微かな柑橘と針葉樹のアロマが漂う地下ロビーの空気が流れ込んできた。
「どうぞ、槇野様」
専属ドライバーがトランクから佳乃の濡れたダンボール箱を取り出し、自らの両腕で抱え直す。段ボールの底には、車内に備え付けられていた吸水性の高いマイクロファイバークロスが丁寧に敷かれていた。見下ろせば、あれほどボロボロになりかけていた箱の底はしっかりと保護され、これ以上崩れる心配はなくなっていた。
一介の元秘書の荷物にここまでの配慮を行き届かせる教育の徹底ぶりに、佳乃は改めて息を呑む。
「上へ行くぞ」
誠一郎に促され、ガラス張りのプライベートエレベーターへと乗り込む。
タッチパネルに誠一郎が自らの掌をかざすと、生体認証システムが静かに作動し、最上階である四十八階のインジケーターが白く点灯した。
耳鳴りを感じるほど滑らかな加速。東京の夜景が、眼下に向かって滝のように広がっていく。
先ほどまで雨煙の向こうに小さく見えていた東京タワーが、今は同じ目線の高さで、濡れた闇の中に紅蓮の骨組みを誇らしげに浮かび上がらせていた。
チン、と気品あるチャイムが鳴り、扉が開く。
そこは、フロア全体が一つの要塞のように設計された『タカツカサ・キャピタル』の最上階エグゼクティブフロアだった。
高い天井、足音を完全に吸い込むダークグレーの最高級ウールカーペット、そしてミニマルな現代アートが飾られた静謐な空間。鳴神物産の重厚で古色蒼然とした木目調の役員フロアとは対極に位置する、研ぎ澄まされた合理性と知性が支配する世界だった。
「こちらへ」
誠一郎が案内したのは、CEO執務室に隣接するプライベートゲストルームだった。
三面がパノラマガラスで覆われ、雨に濡れる大都会の夜景を一望できる贅沢な空間。中央にはデンマーク製のスモークドオークの長テーブルが鎮座し、革張りのアームチェアが整然と並んでいる。
「座れ」
誠一郎は佳乃の肩から自らのチェスターコートを受け取ると、壁のクローゼットへと掛け、自らもスーツのジャケットのボタンを外して対面のシートへと腰を下ろした。
その所作には一切の無駄がなく、流れるような優雅さがある。
ドライバーが一礼してダンボールをサイドテーブルに静かに置き、部屋を退出すると、室内には再び二人だけの静寂が降りた。
誠一郎は手元のレザートレイから、金箔押しのエンブレムが刻印されたネイビーのバインダーを滑らせ、テーブルの境界線を越えて佳乃の前へと差し出した。
「我が社のエグゼクティブ・オファーシートだ。目を通せ」
「……失礼いたします」
佳乃は呼吸を整え、両手でバインダーを開いた。
上質紙特有の微かな重みとインクの香りが鼻腔をくすぐる。
そこには、日本語と英語で併記された、極めて厳密かつ整然とした雇用契約条項が並んでいた。
だが、その第一項、第二項、第三項を視線が滑った瞬間――佳乃の息が喉の奥で詰まり、切れ長の瞳が見開かれた。
「っ……これは……」
文字通りの絶句だった。
契約書に記されていた条件は、常識を根底から覆すものだった。
【役職】:シニア・エグゼクティブ・オフィサー(会長直属特命秘書兼戦略補佐)
【報酬】:ベース年俸五千万円(賞与・インセンティブ別)
【諸手当】:専用役員車両および専属ドライバーの無償貸与、都内高級レジデンスの社宅供与、衣装・美容・自己研鑽に関するエグゼクティブ特別経費枠の付与(上限年間一千万円)
【決裁権限】:代表取締役CEO(鷹司誠一郎)に次ぐ社内第2位の決裁権限。ならびに、総額十億円未満の投資案件における『単独拒否権(Veto権)』の付与
「……鷹司代表」
佳乃は震える指先を膝の上で強く握り締め、顔を上げた。
「桁が……間違っていませんか。私は、鳴神物産での年俸は手当を含めても五百万円前後でした。その十倍……ベースだけで五千万円など、外資系投資銀行のマネージングディレクターや、上場企業の専務取締役クラスの報酬です」
「間違いではない」
誠一郎は平然と、一切の誇張を含まぬ声音で告げた。
「五千万円はあくまで固定のベースラインだ。君の助言やリスクヘッジによって成立したM&A、あるいは未然に防いだ巨額損失のインパクトに応じて、業績連動インセンティブを上乗せする。初年度の総報酬は一億円を超える設計になっている」
「一億円……!?」
「驚くことではない。先ほども言ったはずだ。三年前のシンガポール案件で、君の一手によって我が社が奪われた利権の総額は数百億円だ。鳴神物産が先代の存命中に回避してきた訴訟リスク、政界からのペナルティ、労務トラブルの総額を算定すれば、年間数十億円の損失回避に相当する。君の能力に対する対価として、五千万円などむしろ格安だ。私は慈善事業で金を出しているのではない。純粋な投資家として、適正な時価を提示しているに過ぎない」
理路整然とした説明だった。
数字の根拠、バリュエーションの論理において、一分の隙もない。
だが、佳乃をさらに戦慄させたのは、報酬の額以上に、その【決裁権限】の欄だった。
「この……十億円未満の投資案件に関する単独拒否権とは、どういうことでしょうか。私は財務アナリストでも、ファンドマネージャーでもありません。一秘書に、投資の生殺与奪を握る拒否権を与えるなど、株主や他の共同経営陣が納得するはずがありません」
「納得させる必要はない。タカツカサ・キャピタルの株式の八割は私が個人で保有している。私のファンドにおいて、私の決定こそが絶対だ」
誠一郎の切れ長の瞳が、獲物を狙う猛禽のように鋭く光る。
「我が社には、ウォール街やロンドンで腕を鳴らした優秀な数字のスペシャリストたちが山ほどいる。彼らは財務諸表を分析し、キャッシュフローを予測することにかけては超一流だ。だが――生身の人間が引き起こす泥臭いスキャンダル、隠蔽された労務トラブル、政治的な利害の対立といった『数字に表れないリスク』を嗅ぎ分ける嗅覚においては、君の足元にも及ばない」
誠一郎は身を乗り出し、机の上に組んだ手を置いた。
「彼らがどんなに『買い』だと主張する案件であっても、君の直感と調査が『ノー』を出したなら、その案件は止める。君のその手帳と頭脳を、タカツカサの最終防衛ラインとして機能させたいのだ。そのための権限と責任が、このシートに記されたすべてだ」
胸が激しく波打った。
ただの「お茶汲み」。
ただの「カレンダーへの予定記入係」。
鳴神貴之が唾を吐きかけて捨てた自分の能力に、この男は自らの帝国の門番としての全幅の信頼を、そして莫大な対価を支払おうとしている。
しかし――佳乃の知性は、歓喜に溺れることを許さなかった。
彼女は深く息を吐き、静かに視線を落とすと、契約書からそっと手を引いた。
「……申し訳ありません、鷹司代表。この契約を結ぶことは、現時点では不可能です」
誠一郎の眉が、わずかにピクリと動いた。
「理由を聞こう」
「鳴神物産の就業規則、および私が先代と取り交わした雇用契約書には、厳格な『競業避止義務』が課されております」
佳乃は感情を排し、自らの記憶の中にある条文を正確に諳んじた。
「『従業員は退職後二年間、同業種および競合関係にある法人への就職、役員就任、またはこれに類する実質的助言業務を行ってはならない』。タカツカサ・キャピタルは、鳴神物産にとって国内外の案件で直接競合する筆頭のライバル企業です。私が今夜ここでサインをすれば、鳴神物産から契約違反として差し止め請求、ならびに巨額の損害賠償請求訴訟を起こされます。そうなれば、タカツカサの名誉を傷つけ、代表ご自身にも多大なご迷惑をおかけすることになります」
プロフェッショナルとしての冷徹な自制。
どんなに甘美な救済であっても、法的な地雷を踏み抜いて雇い主に泥を塗るような真似は、彼女の矜持が許さなかった。
だが、その言葉を聞いた誠一郎の反応は、佳乃の予想を遥かに超えていた。
「フッ……」
低い、乾いた笑い声が漏れた。
誠一郎は背もたれにゆったりと身体を預けると、酷薄な笑みをその端正な唇に浮かべたのだ。
「心配いらない。そんな紙切れの脅しなど、最初から百パーセント無効だ」
「……無効、ですか?」
佳乃が小首を傾げると、誠一郎はスラスラと、まるで裁判官が判決文を読み上げるかのような流暢さで語り始めた。
「労働法、ならびに我が国の最高裁判例――例えばフォセコ・ジャパン・インテク事件や、新谷運輸事件を引くまでもなく、労働者の職業選択の自由(憲法第二十二条)を制限する競業避止義務が法的に有効と認められるには、厳格な四つの要件を満たす必要がある」
誠一郎は長い指を一本ずつ立ててみせた。
「第一に、企業の正当な利益の保護に値するか。第二に、労働者の地位や職務内容。第三に、禁止される期間や地域の妥当性。そして――最も重要かつ決定的な第四の要件が何だか、君なら分かるはずだ」
佳乃の頭の中で、労働法の知識が瞬時に閃いた。
「……競業避止に対する、『相応の代償措置』の有無……」
「その通りだ」
誠一郎の口元が、嘲弄の形に歪む。
「退職後の生活を保障するだけの十分な退職金の割り増し、あるいは在職中の破格の手当といった『代償措置』が伴わない競業避止の誓約は、公序良俗に反し、民法第九十条によって無効とされるのが司法の絶対の原則だ」
誠一郎の眼光が、冷徹な光を増す。
「あの愚息――鳴神貴之は、今夜君に何をした? 解雇予告手当を支払ったか? 退職金を一円でも上乗せしたか? それどころか、正当な解雇予告期間すら置かず、深夜のオフィスで暴言を浴びせ、自己都合退職を強要してダンボール一つで叩き出した。代償措置どころか、労働基準法第二十条に明確に違反した違法解雇の現行犯だ」
「あ……」
「代償措置が皆無である以上、鳴神物産の競業避止条項など、ただのインクの染みに過ぎない。裁判所へ持ち込まれれば、一秒で門前払い(却下)だ」
誠一郎は冷笑を深め、続けた。
「それに、もしあの愚か者が裁判を起こしてきたなら、それは我々にとって最高のボーナスステージだ」
「ボーナスステージ……ですか?」
「そうだ。我が社の法務統括である真鍋苑子率いるトップ弁護団が、即座に鳴神物産を反訴する。不当解雇の無効確認、ならびに地位確認請求、さらには深夜のハラスメントと自己都合強要に対する巨額の損害賠償請求だ」
誠一郎は楽しそうに目を細めた。その表情は、まさに市場で「死神」と恐れられる怜悧なハゲタカの素顔そのものだった。
「上場企業である鳴神物産が、先代の密葬の深夜に創業家の新社長自ら女性幹部へ違法なパワハラ解雇を仕掛けたという事実が公になればどうなる? 東証のコンプライアンス委員会が動き、メインバンクは融資姿勢を硬化させ、翌日の寄り付きから株価はストップ安だ。あの愚息は、訴訟を起こした瞬間に自らの首を絞めることになる。……奴に、我が社を訴える度胸などあると思うか?」
完璧だった。
法の論理、判例の網、そして企業ガバナンスと市場心理を利用した絶対のカウンター包囲網。
貴之が感情に任せて佳乃を追い出したその浅薄な行動のすべてが、タカツカサ側から見れば「法的に完膚なきまでに叩き潰せる致命的な隙」に変換されていたのだ。
「君が背負うリスクなど、何一つない」
誠一郎は内ポケットから、一本の重厚な万年筆を取り出した。
深みのある漆黒のエボナイト軸に、純銀のクリップが鈍い輝きを放つ、名門メーカーのヴィンテージ品だった。
カチャリ、と小さな音を立ててキャップが外され、佳乃の目の前、契約書の署名欄のすぐ脇へと置かれる。
「君を縛り付けていた鎖は、すべてあの愚息自らが断ち切ってくれた。もう、先代の遺言に殉じる義理も、鳴神の泥舟に付き合う義務もない」
誠一郎の声が、夜の帳を震わせるように低く、だが甘やかに響いた。
「君の知性を、君の時間を、君の人生のすべてを、私に預けてくれ。私の隣で、君を無能と嘲笑った連中に、本物のビジネスの厳しさと――君の本当の価値を証明して見せろ」
万年筆のペン先が、間接照明の光を浴びて金色に瞬いていた。
佳乃は、自らの震える右手をじっと見つめた。
この七年間、黒子として生きるために、自分の感情を殺し、爪を隠し、誰かの影になり続けてきた手だ。
どんなに理不尽な要求にも頭を下げ、どんなに過酷な仕打ちにも笑顔を貼り付け、「都合のいい女」「都合のいい事務員」として消費されてきた手。
その手を、今、この男は「世界を動かすための武器」として求めている。
(……私は)
佳乃の胸の奥底で、熱い焔がチロチロと燃え広がり始めた。
もう、泣き寝入りするだけの哀れな犠牲者には戻らない。
雨の中に放り出されたあの瞬間、自分の中の「鳴神物産の槇野佳乃」は死んだのだ。
ならば、今ここで生まれ変わる。
自分を正当に評価し、必要としてくれるこの男の隣で、プロフェッショナルとして、冷徹な戦士として、もう一度立ち上がるのだ。
すっと、背筋が伸びた。
佳乃は迷いなく右手を伸ばし、重厚な万年筆を指先で握り締めた。
掌に伝わる、ずっしりとした金属と漆の重み。
契約書の最終ページ。
【署名欄】の白銀の余白に、ペン先を落とす。
サラ、サラサラ……。
上質なインクが紙の繊維へと滑らかに吸い込まれていく。
一分の乱れもない、美しく端正な筆致で、自らの名を刻み込む。
『槇野 佳乃』
最後の払いを終え、ペン先を離した瞬間、佳乃は万年筆を両手で揃えてテーブルの上に置き、誠一郎に向かって深々と、完璧な角度で頭を下げた。
「タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO、鷹司誠一郎様。本日付をもちまして、シニア・エグゼクティブ・オフィサーを拝命いたします。私の知性、人脈、そして手腕のすべてを、貴殿の勝利のために捧げることをお誓い申し上げます」
淀みのない、凛とした誓詞。
それを見届けた誠一郎の口元が、かつて誰にも見せたことのない、深く、満足げな笑みに解きほぐされた。
「よく決断した、佳乃」
誠一郎は契約書を引き寄せ、自らの欄にサインを走らせると、パチンとバインダーを閉じた。
「契約は成立だ。……さて、明日の朝から早速動いてもらうが、その前に一つだけ、片付けねばならない重大なタスクがある」
「はい。どのような案件でしょうか。資料の読み込み、あるいは関係各位への根回しでしょうか」
即座に実務モードへ切り替わった佳乃の問いに、誠一郎はわずかに苦笑交じりに首を横に振った。
「いや、実務ではない」
誠一郎の視線が、佳乃の野暮ったい銀縁眼鏡、きつく結い上げられたお団子ヘア、そして雨水で湿った黒のタイトスーツへと向けられた。
「明朝八時、南青山のプライベートサロンとテーラーを押さえてある。まずはその『黒子の殻』を破棄してもらう」
「……え?」
「言ったはずだ。君は私の隣に立つ。私の右腕が、敵に舐められるような装いをしていることなど許されない。……明日の朝、君を最高の鎧で武装させてやる」
冷徹な総帥の瞳に宿る、抗いがたい熱い意志。
佳乃の新しい人生の幕開けは、想像もしなかった「外見の革命」から始まろうとしていた。




