第4話:私の隣に来てほしい
促されるままに足を前に進めると、黒革で覆われたマイバッハの後部座席は、まるで外界の嵐を拒絶するために設えられた堅牢なシェルターのようだった。
佳乃が身を滑り込ませた瞬間、専属ドライバーが両手で恭しくダンボールを受け取った。雨水でふやけかけた粗末な箱を、まるで十億円の美術品でも扱うかのように両腕で支え、丁寧にトランクへと収める。
バフン、と重厚な気密音を立ててドアが閉ざされた途端、世界から音が消えた。
叩きつける豪雨の轟音も、吹き荒れる突風の唸りも、アスファルトを打つ泥水の音すらも、厚みのある特殊防音ガラスと厳選された遮音材によって完全に遮断されていた。
車内に満ちているのは、澄み切った空調の柔らかな微風と、本革シートが放つ芳醇な革の香り。そして、佳乃の肩を包むチェスターコートから立ち上る、誠一郎自身の白檀の残り香だけだ。
「……っ」
シートヒーターの心地よい熱が、革を通してじんわりと腰から背中へと伝わってくる。
だが、佳乃の全身はまだ硬直したままだった。
隣には、濡れた黒髪を手櫛で無造作にかき上げた鷹司誠一郎が腰を下ろしている。
ジャケットを脱いだスリーピースのベスト姿。引き締まった逞しい体躯が、薄暗い車内灯の光の下で彫刻のような陰影を描いている。彼がわずかに身じろぎをするたびに、極上のウールが擦れ合う微かな衣擦れの音が、静寂の中に鮮烈に響いた。
「出せ」
誠一郎が低く短く指示を飛ばすと、ドライバーは音もなく車体を発進させた。
滑り出すマイバッハは揺れ一つなく、鳴神物産本社ビルの車寄せを離れ、雨煙に煙る深夜の都心環状線へと合流していく。
窓の外を、濡れた街灯のナトリウムランプがオレンジ色の光の帯となって流れていくのを、佳乃は息を殺して見つめていた。
カチャリ、と小さな金属音が耳朶を打つ。
見れば、シートの間に格納されていたウッドパネルのコンソールから、誠一郎がマットブラックの保温ボトルを取り出し、備え付けの磁器のカップへと琥珀色の液体を注いでいた。
立ち上る湯気とともに、甘いカモミールと微かな林檎の香りが車内にふわりと広がる。
「両手を出せ」
「え……?」
「いいから出せ」
低く、だが決して逆らわせない響きを持った声に、佳乃はためらいながらも両手を前に差し出した。
指先は白く強張り、小刻みに震えている。
誠一郎はその細い両手を包み込むようにして、熱々のハーブティーが満たされたカップをしっかりと握らせた。
陶器の温もりが、かじかんだ皮膚の奥へと染み渡っていく。
それだけではない。カップ越しに佳乃の手を支える誠一郎の大きな手のひらが、火傷しそうなほどの熱を放っていた。
「飲め。身体の芯が冷え切っている。まずは内臓を温めろ」
「……あ、ありがとうございます……」
喉が張り付いて、掠れた声しか出ない。
両手でカップを口元へ運び、ゆっくりと含んだ。
喉を滑り落ちていくハーブティーは、驚くほど柔らかく、乾き切った身体に染み渡っていく。鼻腔に抜ける優しい甘みが、張り詰めていた自律神経を強制的に緩めていくのが分かった。
一口、また一口と飲み下すうちに、ようやく肺の奥まで酸素が届くような感覚を取り戻す。
だが、身体が温まるにつれて、理性は冷酷な疑問を突きつけてきた。
佳乃はカップを胸元に抱えたまま、横顔をじっと見つめる誠一郎へと視線を向けた。
銀縁眼鏡の奥の瞳に、再び秘書としての警戒の色が戻る。
「……鷹司代表」
「なんだ」
「なぜ、私を助けられたのですか」
誠一郎はフロントガラスの向こう、雨に滲む首都高のテールランプを見つめたまま、微動だにしない。
佳乃は言葉を重ねた。
「私はほんの三十分前まで、貴社と激しく敵対していた鳴神物産の人間でした。しかも役員でもなければ、経営陣でもない。ただの、会長付きの一秘書に過ぎません。その私が先代の密葬の夜に解雇されたことなど、社外の人間が知り得るはずがありません。……なぜ、あのような時間に車寄せにいらしたのですか。偶然などとは、とても思えません」
問い詰めるような口調。
普通のエグゼクティブであれば、一介の解雇された事務員にそのような無礼な口を利かれれば不快感を露わにするだろう。
だが、誠一郎は眉一つ動かさなかった。
それどころか、彼の薄い唇が、微かに満足げな弧を描いた。
「やはり、君は面白いな」
「……はい?」
「深夜の豪雨に放り出され、婚約者から裏切られ、身ぐるみを剥がされた直後だというのに……最初に出る言葉が自己憐憫ではなく、状況の論理的整合性の追及か。鳴神剛造が手元に置き続けただけのことはある」
誠一郎はゆっくりと首を巡らせ、佳乃の目を真っ直ぐに見据えた。
その瞳の奥にある絶対零度の知性が、至近距離で佳乃を射抜く。
「答えは単純だ。私は三日前から、鳴神物産本社および鳴神家の動向を完全に監視させていた。剛造の死に顔を拝むためではない。君が、いつあの泥舟から吐き出されるかを見届けるためだ」
「私を……?」
「剛造の急逝を知った瞬間から、私は確信していた。あの暗愚な息子――鳴神貴之は、親父の敷いたレールを呪うあまり、親父が遺した最大の資産である君を真っ先に排除するだろう、とな」
誠一郎の口調には、貴之に対する底知れない侮蔑が込められていた。
佳乃は息を呑む。
貴之の浅薄なプライド、父親へのコンプレックス、そしてそれに伴う暴走の予兆を、この男は部外者でありながら完全に予見していたのだ。
「だが、なぜ……そこまでして、私なのですか。私には、貴社に差し出せるような機密データなどありません。私物の持ち出しすら禁じられ、業務用のファイルはすべて置いてきました。情報目当てのスカウトであれば、私はご期待には添えません」
佳乃が頑なに壁を作ろうとした、その時だった。
誠一郎が、低く、滑らかな声で告げた。
「三年前の、シンガポール港湾再開発のコンペを覚えているか」
その単語が出た瞬間、佳乃の心臓がドクリと跳ね上がった。
「……ええ。覚えています。我が社――いいえ、鳴神物産と、タカツカサ・キャピタルが社運を賭けて争った、総事業費三千億円の巨大プロジェクトです」
「あの時、我が社が提示した買収スキームは完璧だった。現地の政府系ファンドを巻き込み、シンジケートローンを組成し、数字の整合性においては一分の隙もなかった。誰もがタカツカサの勝利を確信していた」
誠一郎の視線が、遠い過去を手繰り寄せるようにわずかに細められる。
「だが、最終プレゼンテーションの席上、鳴神剛造が土壇場で放った一手によって、潮目が完全に変わった。現地の港湾労働組合のトップが抱えていた宗教的タブー――特定の海域における埋め立てが、現地先住民族の聖域を冒すという極めてセンシティブな環境破壊リスクを、剛造が突如として指摘したのだ」
「……」
「さらに剛造は、現地の最大手海運コングロマリットの会長と、組合トップが実は異母兄弟であるという、現地の公的記録には一切載っていない血縁関係を提示し、労使双方を納得させる代替ルートの利権を提示してみせた。あれによって、シンガポール政府はタカツカサ案を退け、鳴神物産に優先交渉権を与えた」
佳乃は唇を引き結び、黙って聞いていた。
誠一郎は言葉を続ける。
「市場は騒然となった。『さすがは政財界のフィクサー、鳴神剛造の恐るべき情報網だ』とな。……だが、私はあのプレゼンの壇上で、ずっと見ていた」
「……何を、ですか」
「剛造の背後に控えていた、君の動きだ」
誠一郎の手が、コンソールの上に置かれた。長い指先が、静かにリズムを刻む。
「剛造は演説の最中、三度だけ背後の君を振り返った。そのたびに君は、一切表情を変えず、完璧なタイミングで一枚の小さなインデックスカードを差し入れ、剛造の指の動きに合わせて無言のアイコンタクトを送っていた。剛造が語った現地の宗教的禁忌も、裏の血縁関係も……すべて、君の手帳から引き出された情報だったはずだ」
佳乃の背筋に、冷たい戦慄が走った。
あの大規模なプレゼンテーションの場には、各国の閣僚、巨大投資銀行の首脳陣、錚々たるメガプレイヤーがひしめき合っていた。剛造の堂々たる演説に誰もが圧倒される中、壇上の隅に直立していた地味な秘書の指先の動きに、この男は気づいていたというのか。
「……あれは、秘書としての当然のサポートです。現地の宗教的背景や労働環境を事前調査するのは、商社として――」
「誤魔化すな」
誠一郎の声が、一段と低く、鋭く響いた。
「あれだけの一次情報を、現地の官報にも載っていない泥臭い人間関係の機微を、机の上のリサーチだけで手に入れられる人間が世界に何人いる? 君はコンペの半年前、剛造の極秘出張に同行したわずか三日間の間に、現地の老舗茶館や港湾の荷揚場に自ら足を運び、生身の人間の懐に飛び込んであの情報を掘り起こしたはずだ。違うか?」
「っ……」
反論の言葉が、喉の奥で詰まった。
その通りだったからだ。
当時、数字の美しさだけで押し切ろうとするタカツカサの動きを察知した佳乃は、シンガポールの現場で泥水を啜るようにして現地の古老たちと信頼関係を築き、あの一枚のメモを剛造に託したのだ。
「私はあの時、底知れない敗北感を味わうと同時に、歓喜していた」
誠一郎の瞳に、獲物を見定めた獣のような、昏く熱い光が宿る。
「鳴神物産の異常な危機回避能力、そして政財界を手玉に取る剛造の強靭な手腕――その真の心臓部が、剛造本人ではなく、背後に控える『槇野佳乃』という一人の黒子の知性によって駆動していることを見抜いたからだ」
車内を満たす静寂が、佳乃の耳に痛いほど響く。
誠一郎は窓の外へ視線を向け、冷え切った声で吐き捨てた。
「あの時から、私は君を欲していた。剛造の目の黒いうちは引き抜く隙など万に一つもないと思っていたが……まさか、あの愚息が自ら会社の心臓を抉り出し、雨の路上に放り出すとはな。喜劇を通り越して滑稽ですらある」
「……社長は、仰いました」
佳乃の声が、微かに震えた。
胸の奥底に押し殺していた痛みが、熱い塊となって喉元までせり上がってくる。
「私のやってきたことなど、お茶汲みとカレンダーへの予定の書き込みに過ぎないと。誰にでも代わりが務まる雑務であり……お前程度の代わりなど、いくらでもいる、と」
その瞬間。
ドン、と低い音が車内に響いた。
誠一郎が、コンソールの革張りのアームレストを拳で叩きつけた音だった。
見れば、普段は感情を氷の彫像のように凍りつかせている男の眉間が、激しい怒りによって深く歪んでいた。青白い額に、微かに青筋が浮かび上がっている。
「愚劣極まる」
吐き捨てられた言葉は、氷刃のように冷たく、重かった。
「感情労働を、リスク管理を、組織の歪みを未然に防ぐ無数の配慮を……『見えない仕事』であるがゆえに雑務と見下し、搾取する。現場で泥を啜ったこともない無能な二世が最も陥りやすい、救いようのない傲慢だ」
誠一郎は身を乗り出し、佳乃の瞳を逃さぬよう、正面からその顔を覗き込んだ。
至近距離で交わる視線。
その瞳の中にあるのは、哀れみなどでは断じてなかった。
一人の一流のプロフェッショナルが、同等の力を持つ戦友へ捧げる、最大級の敬意と熱狂だった。
「君の七年間は、雑用などではない」
その一言が、車内の空気を震わせた。
「日本屈指の総合商社を裏から動かし、数々の破滅から救い続けてきたのは、君の卓越した観察眼と、類まれなる知性だ。誰一人として代わりなど務まるはずがない。君を失った鳴神物産がどうなるか……遠からず、市場が残酷な答えを下すだろう」
「あ……」
息が、止まりそうだった。
胸の奥深く、七年間ずっと押し殺し、誰にも見せないように固く鍵をかけていた場所。
「黒子なのだから評価されなくて当たり前」「感謝されなくても会社が回ればいい」と、自分自身に言い聞かせて麻痺させていた心の痛みに、この男は迷いなく手を差し伸べ、その存在を、価値を、誇りを、完璧な言葉で肯定してくれたのだ。
「君が削ってきた身を、今度は私が最高の値で買い取る。……私の隣に来てほしい、佳乃」
低く、甘く、だが絶対の確信に満ちた声。
誠一郎の手が、そっと伸びてきた。
そして、カップを握る佳乃の冷えた指先の上に、自らの温かな手を重ねた。
その瞬間、佳乃の瞳から、ポロリと一筋の雫が零れ落ちた。
止めようとしても、止まらなかった。
通夜の席でも、解雇を告げられた瞬間でも、雨の中でダンボールを抱えていた時でも、決して流すことのなかった涙が。
熱い塊となって、次から次へと頬を伝い、膝の上に広げられたカシミアのコートへと吸い込まれていく。
声を上げて泣くことすら忘れ、佳乃はただ無言で、ボロボロと涙を零し続けた。
七年間の孤独が。
搾取され続けた誇りが。
凍え切っていた魂が、男の放つ圧倒的な熱量によって、音を立てて融解していく。
誠一郎は何も言わず、ただ佳乃の手を強く握り締めていた。
涙を拭えとも、泣き止めとも言わない。
ただ、彼女の痛みがすべて流れ出るのを待つように、静かにその温もりを分け与え続けていた。
首都高速の長いトンネルを抜け、マイバッハは港区の超高層タワー群が聳え立つエリアへと滑り込んでいく。
雨脚は依然として激しかったが、窓の外に見える高層ビルの灯りは、先ほどまでの冷たい夜の底とは違い、新しく始まる戦いの烽火のように煌々と輝いていた。




