第3話:雨の車寄せ
深夜零時三十分。
一階エントランスホールの自動ドアを抜けた瞬間、叩きつけるような突風とともに、氷のように冷たい雨粒が横殴りに佳乃の全身を打ち据えた。
「っ……」
季節外れの低気圧がもたらした豪雨は、大気を根こそぎ冷やし、まるで冬の底へと引きずり戻されたかのような寒気を呼び寄せていた。
わずか数歩、風が吹き抜けるエントランスホールの軒先へ足を踏み出しただけで、履き古した黒のプレーンパンプスはぐっしょりと水分を吸い上げ、足先からじわじわと感覚を奪っていく。
両腕に抱えた無地のダンボール箱に、大粒の雨がバタバタと無遠慮な音を立てて落下した。茶色いクラフト紙の表面が、見る見るうちに濃い斑点模様を描き、湿気でふやけて強度が失われていく。
佳乃はとっさに背を丸め、自分の身体を傘の代わりにして、胸元の箱を覆い隠した。中に収められているのは、七年間のささやかな私物――何より、先代から託され、自らの手で書き継いできた大切な手帳が入っているのだ。これだけは、濡らすわけにはいかなかった。
(早く、タクシーを……)
かじかむ指先でスーツのポケットを探り、私用のスマートフォンを取り出す。
画面をスワイプして配車アプリを立ち上げようとした、その刹那だった。
ピロン、という無機質な電子音とともに、バッテリー残量を示すアイコンが赤く点滅し――画面が真っ暗に沈黙した。
「……嘘でしょう」
小さく呟いた声は、ゴウゴウと唸る雨音にあっけなく掻き消された。
先代が倒れてからの三日間、病院と本社を往復し、関係各所との連絡に忙殺され続けていたのだ。充電器を挿す暇すらなく、酷使し続けたバッテリーはとっくに限界を迎えていた。
傘はない。
貴之に私物以外の持ち出しを一切禁じられ、オフィスに置いてあった置き傘すら持たされずに追い出された。
手持ちの現金はある。だが、この大雨と深夜という時間帯では、流しのタクシーなど滅多に通らない。ましてや鳴神物産の本社ビルは、巨大なビジネス街の区画の奥深くに位置しており、大通りまで出るにはこの豪雨の中を数百メートル歩かなければならなかった。
ずぶ濡れになって歩けば、抱えたダンボールは確実に底が抜ける。
かといって、背後の本社ロビーへ戻ることは許されない。ガラス扉の向こう側では、当直の守衛が申し訳なさそうに、しかし貴之の指示に従ってガラス越しに佳乃を監視しているのが見えていた。
逃げ場は、どこにもなかった。
佳乃は車寄せの太い円柱の陰に身を寄せ、冷たいコンクリートの壁に背中を預けた。
ガタガタと、膝が震え始める。
寒さのせいだけではなかった。三日間一睡もしていない疲労、先代を失った底知れない喪失感、そして何より――信じ抜いてきた男から受けた、無慈悲な裏切りの毒が、今になって遅効性の劇薬のように全身を蝕んでいた。
(……代わりなど、いくらでもいる)
耳の奥底で、貴之の甲高い嘲笑が何度も、何度もリフレインする。
お茶汲みしかできない地味女。
誰にでもできる雑用。
お前のやってきたことなど、派遣の女の子やアプリ一つで秒で片付く。
(本当に……そうだったのかしら)
視界が、滲む。
眼鏡のレンズに跳ね返った水滴のせいなのか、それとも、こらえきれずに溢れ出した涙のせいなのか、自分でも判別がつかなかった。
二十歳で鳴神物産に入社し、先代会長・剛造の鋭い眼光に見出されて秘書室へと配属されたあの日。
『佳乃、商社の仕事はな、書類を右から左へ動かすことじゃない。人の心を動かすことだ。相手が何を求め、何を恐れ、どこにプライドを持っているか……その見えない急所を誰よりも早く見抜き、先回りで塞ぐ。それができる者だけが、本当の黒子だ』
剛造の教えを、一言一句違わず胸に刻み込んできた。
政界の重鎮たちの気難しい嗜好を調べ上げ、好む茶葉の産地から愛犬の命日に至るまで頭に叩き込んだ。
法務部が見落としかけた海外契約の落とし穴を深夜のオフィスで一人見つけ出し、相手国の判例を洗い出して修正案を先代のデスクへ差し入れた。
剛造が心臓の発作を起こしかけた夜、誰にも悟られぬよう薬湯を差し入れ、役員たちの動揺を防いだ。
それらすべてを、佳乃は「自分の仕事」だとは思っていなかった。手柄を誇ることもなく、ただ剛造の、そして鳴神物産の盾となり、心臓となり、影となって支え続けることだけが、自らの生きる意味だと信じていたのだ。
けれど――剛造の息子である貴之の目には、それはただの「無駄飯食らいの雑務」にしか映っていなかった。
七年間のすべてが、彼の一言で否定された。
青春のすべてを投げ打って捧げてきた時間は、何の意味もない紙屑だったのか。
自分という存在は、誰からも必要とされていなかったのか。
指先が、白く凍りついていく。感覚が麻痺し、ダンボールを抱える腕の力が抜けそうになる。
身体の芯から熱が失われ、冷たい悪寒が背筋を駆け上がる。
もう、どうでもいいのかもしれない。
このまま雨に打たれ、泥水の中に倒れ込んでしまえば、この耐え難い屈辱と絶望から解放されるのではないか――。
暗い諦念が、佳乃の意識を黒く塗りつぶそうとした、その時だった。
キィィィィン……。
激しい雨音のカーテンを切り裂いて、低く、しかし極めて精密な機械だけが放つ、澄んだ重低音が鼓膜を震わせた。
続いて、白銀の光芒が夜の闇を鋭く射抜く。
雨煙を切り裂き、車寄せの緩やかなスロープを駆け上がってきたのは、二筋の強烈なLEDヘッドライトだった。
「……っ?」
眩しさに、佳乃は思わず目を細めた。
滑り込んできたのは、雨粒の一粒すら美しく弾く、完璧な鏡面仕上げが施された漆黒のリムジン――メルセデス・マイバッハ。
全長五メートル半を超える長大な車体は、深夜の豪雨の中にあっても異様なまでの威容と気品を漂わせていた。深海魚のように音もなく、滑らかに、そして正確無比な制動で、佳乃が立ち尽くすわずか数歩手前のアスファルトへとピタリと停車する。
鳴神物産の役員車両ではない。
現在、鳴神物産が保有している社用車は国産の最高級セダンで統一されており、このような威圧的な超高級輸入サルーンなど一台も存在しない。
ましてやここは、深夜には外部車両の進入が固く禁じられている本社ビルの車寄せだ。守衛の許可なく乗り入れてくる車など、通常では考えられなかった。
訝しむ佳乃の視線の前で、マイバッハの運転席のドアが素早く開いた。
降りてきたのは、仕立ての良い漆黒のスーツを着た、身の丈百八十センチを優に超える屈強な専属ドライバーだった。男は豪雨に眉一つ動かさず、後部座席へと回り込むと、手にした特大の黒傘を音もなくバサリと広げた。
そして、恭しく後部座席のドアハンドルに手を掛け、引く。
カチャリ、と重厚なロック解除音が夜空に響いた。
開かれたドアの奥。間接照明に照らし出された最高級ナッパレザーの空間から、まず姿を現したのは――磨き抜かれたジョン・ロブの漆黒のオックスフォードシューズだった。
濡れたアスファルトを踏みしめ、長身の男がゆっくりと車外へと降り立つ。
佳乃の息が、喉の奥で止まった。
仕立ての良いスリーピースのスーツの上に、最高級のカシミアで織られたチャコールグレーのチェスターコートを羽織った男。
濡れた夜風に微かに揺れる、黒曜石のように深い黒髪。
彫刻のように鋭く整った骨相。氷河を思わせる冷徹な光を湛えた切れ長の瞳と、感情を極限まで削ぎ落とした薄い唇。
年齢は三十代前半。しかし、その全身から放たれる圧倒的な覇気と知性は、居並ぶ政財界の古強者たちすら容易にひれ伏せさせるだけの魔力を帯びていた。
見間違うはずがなかった。
日本の資本市場において「氷のハゲタカ」「冷徹無比の死神」と恐れられ、鳴神物産が過去数年間、大型のM&Aや海外インフラ事業のコンペにおいて幾度となく苦杯を舐めさせられてきた最大の宿敵。
独立系巨大投資ファンド『タカツカサ・キャピタル』の若き総帥――鷹司誠一郎その人だった。
(な、ぜ……鷹司、代表が……?)
混乱で思考が停止する。
なぜ、敵対する巨大ファンドのトップが、深夜の鳴神物産の本社車寄せにいるのか。
剛造の密葬が終わったばかりのこの夜に、何の用があって現れたのか。
ドライバーが差し掛ける大きな黒傘を、誠一郎はわずかに片手で制した。
そして、降りしきる冷たい雨にコートを打たれることも厭わず、長大な脚で、真っ直ぐに佳乃の元へと歩み寄ってきたのだ。
ザッ、ザッ、ザッ。
雨音を切り裂いて近づいてくる、規則正しく重い足音。
佳乃はダンボールを抱えたまま、金縛りに遭ったように動くことができない。
誠一郎の冷徹な眼光が、佳乃の蒼白な顔、濡れた眼鏡、そして胸元に抱えられた粗末なダンボール箱へと、寸分の揺らぎもなく注がれていた。
(あ……)
数々の修羅場を潜り抜けてきた佳乃ですら、その視線の鋭さに息を呑む。
敵対企業の落ちぶれた元秘書を嘲笑いに来たのだろうか。
それとも、剛造を失って脆くなった鳴神物産の情報を聞き出すために、弱みに付け込みに来たのだろうか。
防衛本能から身を強張らせ、一歩後ずさろうとした――その瞬間だった。
誠一郎は佳乃の目前、触れ合えるほどの至近距離で足を止めると、一言も発さなかった。
ただ無言のまま、自らの広い肩から、羽織っていたカシミアのチェスターコートを滑らかに脱ぎ去ったのだ。
「え……?」
佳乃が呆気にとられた刹那。
バサリ、と重厚で柔らかな布地が、佳乃の華奢な肩へと被せられた。
「あ――」
息が漏れた。
重い。そして、驚くほどに温かい。
最高峰のカシミアが持つ、吸い付くような極上の肌触り。
そして何より、先ほどまで誠一郎自身の身を包んでいたであろう、男の圧倒的な体温が、コートの裏地を通じて佳乃の凍え切った皮膚へとダイレクトに染み渡ってきた。
鼻腔をくすぐったのは、微かな最高級の白檀の香気と、丁寧にハンドドリップされた深煎り珈琲の香り。
泥水と排気ガス、そして瑠璃華の安っぽい香水に汚染されていた佳乃の呼吸が、その清冽で気品ある温もりに包まれた瞬間、強烈な安堵感となって肺の奥を満たした。
「た、鷹司……代表……?」
震える唇から、掠れた声がこぼれ落ちる。
見上げれば、誠一郎の切れ長の瞳が、至近距離から佳乃の顔を射抜いていた。
その瞳の奥には、市場で恐れられる「氷の死神」の冷徹さとは異なる――底知れない憤怒と、それを押し隠すような深い静謐が渦巻いていた。
「……傘も持たさず、手当も払わず、深夜の路上に放り出すとはな」
誠一郎の口から紡ぎ出されたのは、夜の底を震わせるような、低く美しいバリトンボイスだった。
雨音にかき消されることのない、明確な輪郭を持った声。
彼は佳乃の肩に掛けたコートの襟元を、手袋越しにそっと整え、雨が入り込まないように引き寄せた。その指先の動きは、信じられないほどに繊細で、丁寧だった。
「ずいぶんと安っぽい扱いを受けたものだな、槇野佳乃」
「な……ぜ、私の名前を……それに、なぜ、ここに……」
混乱と困惑で、佳乃の声が震える。
なぜ、敵対する巨大ファンドの総帥が、一介の商社秘書の名を正確に知っているのか。
なぜ、自分が今夜解雇され、この車寄せに放り出されたことを知っているのか。
問いかける佳乃に対し、誠一郎はわずかに薄い唇の端を押し上げ、冷たく、だが確かな熱を宿した笑みを浮かべた。
「愚問だな。君がこのビルを出る瞬間を、待っていたからだ」
「……え?」
「立てるか」
誠一郎は答えず、佳乃の濡れたダンボール箱の底へ、自らの逞しい手を添えた。
「濡れる。車内へ入れ。話はそれからだ」
有無を言わせぬ絶対の威厳。
だが、その手から伝わってくるのは、凍え切った佳乃をこれ以上一秒たりとも冷雨に晒すまいとする、過保護なまでの確固たる意志だった。
雨煙の立ち込める深夜零時三十五分。
すべてを失い、泥の底へと突き落とされたはずの万能秘書の運命は、宿敵の手によって、劇的な反転の歯車を回し始めていた。




