第2話:代わりなどいくらでもいる
深夜零時。日付が変わったことを告げる庁内チャイムなど当然鳴るはずもなく、鳴神物産本社ビル最上階は、深海よりもなお冷え切った空気に満たされていた。
社長室の分厚いマホガニー扉を背にして締め切った瞬間、廊下の冷気が佳乃の頬を撫でた。先ほどまで充満していたあの下品な甘い香水の匂いが、肺の奥から抜けきらず、胃の腑にじわりとした不快感を残している。
佳乃は乱れた息を微塵も外に漏らさず、自身の職場である『会長秘書室』へと戻った。
蛍光灯の青白い光の下、端正に整頓されたデスクが彼女を無言で迎える。PCのディスプレイには、先ほどまで照合していた弔問客リストの表計算ソフトが開かれたままだ。カーソルが、まるで時を刻む心電図のように規則正しく点滅を繰り返している。
だが、その静けさは長くは続かなかった。
カツ、カツ、カツ。
フローリングに響く甲高いピンヒールの足音。それに続いて、乱暴に革靴を引きずるような重い足取り。
引き戸が勢いよく開け放たれ、入ってきたのは案の定、鳴神貴之と江藤瑠璃華だった。
貴之の手には、先ほどテーブルの上でブランデーを浴びてわずかにシミの浮いた『退職届』が握りしめられている。その後ろには、警備部の制服を着た大柄な警備員が二人、気まずそうに視線を泳がせながら直立していた。
「おい、佳乃。ぐずぐず荷造りしてんじゃねえぞ」
貴之はネクタイを完全に引き抜き、ワイシャツの第一ボタンを引きちぎるように外しながら、佳乃のデスクの前まで大股で詰め寄ってきた。
「言ったはずだ。『今すぐ出ていけ』とな。お前のような裏切り者を一分一秒たりともこの本社ビルの中に置いておく気はないんだよ」
佳乃は椅子から立ち上がると、書類を整理していた手を止め、姿勢を正して貴之の濁った瞳を真っ直ぐに見据えた。
感情を交えず、ただ法と事実だけを紡ぐための、氷のように研ぎ澄まされた声を開く。
「社長。法的な観点から、二点申し添えます。まず第一に、労働基準法第二十条に基づき、使用者が労働者を解雇しようとする場合においては、少なくとも三十日前の解雇予告、あるいは三十日分以上の平均賃金――解雇予告手当の即時支払いが義務付けられております。正当な予告手当の支給なき即日解雇は、明確な労働基準法違反です」
「ああん……?」
「第二に、私が先代・剛造会長と直接取り交わした雇用特約書第十二条におきまして、秘書室長代理職の解任には取締役会の承認決議を要すると明記されております。新体制における取締役会の招集・決議を経ない社長個人の独断による解雇は、社内規程上も著しい瑕疵を伴うものです」
淀みなく繰り出される条文と判例の根拠。
一分の隙もない正論を突きつけられた貴之の顔は、羞恥と怒りでみるみる赤黒く鬱血していった。
彼の浅薄な知識では、佳乃の反論に対して法的な反駁などできるはずもない。だからこそ、その幼稚な自尊心は暴力的な形で爆発した。
「うるさいんだよ、屁理屈をこねるなッ!」
バサァッ!
貴之の手から放たれた『退職届』が、佳乃の胸元へと叩きつけられた。
紙の端が佳乃の鎖骨のあたりを掠め、床へと虚しく滑り落ちていく。佳乃は瞬き一つせず、微動だにしなかった。
「法律? 就業規則? 知るかそんなもん! ここは鳴神物産だ! 創業家であり筆頭株主である俺が法律なんだよ! 親父が死んだ今、この会社の生殺与奪の権を握ってんのは俺なんだよ!」
貴之は唾を撒き散らしながら、佳乃の顔のすぐ傍まで身を乗り出した。アルコールと脂汗の臭いが佳乃の肌を撫でる。
「いいか佳乃、大人しくその退職届に自己都合でサインしろ。もし『不当解雇だ』なんだと騒ぎ立てるなら……こっちにも考えがあるぞ。お前が秘書室の立場を利用して『社内機密を外部へ持ち出そうとした』とでっち上げ、懲戒解雇処分にして業界中に触れ回ってやる。そうなれば、お前は二度とこの界隈で事務員としてすら雇われなくなるぞ。泥沼の裁判で人生棒に振りたいか? あぁ!?」
脅迫だった。
しかも、あまりにも杜撰で、下劣な権力濫用。
だが、佳乃は怒鳴り返すことも、涙を浮かべることもしなかった。
彼女の左手は、スーツのポケットの中で、愛用のシステム手帳の細いボールペンを静かに握り締めていた。
デスクの上のデジタル時計は午前零時七分。
貴之の口から放たれた言葉、日時の記録、そして「自己都合退職の強要」という違法行為の数々を、佳乃は自らの記憶の引き出しへ、極めて明晰に、一言一句違わずに刻み込んでいた。
「……社長。私がこれまで担ってまいりました業務は、単なる書面の作成や受付業務に留まりません」
佳乃はなおも、鳴神物産という組織を案じる者としての義務を果たすべく、平然と口を開いた。これが、先代から受けた恩に対する最後の誠意だった。
「来週には、経済産業省とのエネルギー備蓄に関する非公式協議が控えております。また、大東京フィナンシャルグループをはじめとする主力金融機関との間で結ばれている包括融資枠三百億円の更新手続きは、今月がデッドラインです。あちらの融資課および九条副頭取に対する事前の根回し、特約条項の遵守確認を怠れば、信用不安を招きかねません」
「ギャハハハハハッ!」
佳乃の警告を遮ったのは、貴之の耳障りな嘲笑だった。
彼はデスクに片手をつき、おかしそうに肩を揺らしている。
「根回しぃ? 金融機関へのご機嫌取りぃ? お前、まだそんな寝言言ってんのかよ! 要するに、手土産持ってペコペコ頭下げて、高級料亭の予約を取ってただけだろ! そんなもん、派遣の若い女の子にマニュアル渡してやらせりゃ誰だってできるんだよ!」
「ほんとですよぉ〜」
後ろで腕を組んで成り行きを眺めていた瑠璃華が、嘲るような笑みを浮かべて前に出てきた。
彼女は佳乃のデスクの上に置かれていた、皮表紙の分厚いバインダー――佳乃が七年かけて作り上げた、政財界要人二百名の嗜好、持病、アレルギー、親族関係を網羅した『門外不出の顧客カルテ』を、汚いものをつまむように指先で持ち上げた。
「スケジュール調整なんて、最新のAIアプリをスマホに入れれば一秒で終わりますぅ。お店の予約だって、ネットの一休とか食べログの評価高い順に上から取ればいいだけでしょ? お姉さん、自分がやってきた雑用にたいそうな名前つけて、自分を特別な存在に見せかけようとしてるだけじゃないですかぁ?」
瑠璃華はバインダーをペラペラとめくり、退屈そうに息を吐き出すと、そのままドサリとデスクへ投げ捨てた。
「明日からは私が貴之さんの秘書として、もっとスマートに、もっと華やかにやってあげますから。お姉さんはご心配なくぅ、田舎にでも帰って、婚活アプリでも登録したらどうですかぁ? もっとも、その地味な顔とお堅い性格じゃ、誰も貰い手なんていないでしょうけどねぇ!」
瑠璃華の甲高い嘲笑に、貴之が満足げに頷く。
「聞いたか佳乃。これが『新しい時代』の感覚なんだよ。お前がやってきた仕事なんてな、誰にでも代わりが務まる歯車以下の雑務なんだよ。『お前程度の代わりなど、この世にいくらでもいる』んだよ!」
――代わりなど、いくらでもいる。
その言葉が、夜の執務室の空気を震わせた。
七年間。
二十歳でこの会社に入社し、先代会長の鋭い眼光の下で、一日の睡眠時間を削り、友人との約束をすべて断り、自らのプライベートのすべてを犠牲にして捧げてきた歳月。
剛造が心臓発作で倒れかけた時、誰よりも早く異変に気づいてニトログリセリンを口に含ませた夜。
海外企業との大型ディールが決裂しかけた時、現地の宗教的禁忌に抵触していた条項を徹夜で見つけ出し、相手方のCEOの信頼を勝ち取ったあの日。
すべては「会社の心臓」を守るためだった。
黒子として、決して自らの手柄を誇らず、すべての栄光を役員たちに譲り渡してきた。
それを、この男は。
先代が遺した城の玉座に座っただけのこの男は――「代わりなどいくらでもいる雑務」と切り捨てたのだ。
(……そうですか)
佳乃の心の中で、何かが完全に冷え切った。
もはや失望すら湧かない。ただ、絶対零度の静寂が、彼女の精神を研ぎ澄ましていく。
「承知いたしました」
佳乃は静かに一礼した。
「ですが鳴神社長。システムを動かしているのは規約ではなく、感情を持った生身の人間です。その意味を、どうか忘れませんよう」
「ケッ、負け犬が偉そうに! おい、警備!」
貴之が苛立たしげに手を叩く。後ろに控えていた二人の警備員が、いたたまれない表情で歩み寄ってきた。
「その女の首から社員証を取り上げろ! 総務からダンボールを一箱持ってこさせろ! 私物だけまとめさせて、五分以内に叩き出せ!」
警備員の一人が、恐縮しながら佳乃の前に手を伸ばす。
「……槇野室長、申し訳ありません。指示ですので……社員証を」
「分かっています。ご迷惑をおかけして申し訳ありません」
佳乃は自ら首から下げていたカードホルダーを外した。
だが、その瞬間――
「おい、チンタラやってんじゃねえよ!」
焦れた貴之が横から手を伸ばし、佳乃の手から社員証を強引に引ったくった。
プチリ、と細いストラップが千切れる音が部屋に響く。
「これでお前はただの部外者だ。パソコンには指一本触れるなよ。会社のデータを盗み出したら横領で警察に突き出すからな!」
貴之は警備員が持ってきた無地のダンボール箱を、佳乃の足元へ放り投げた。
底が固い音を立てて跳ねる。
「時間は三分だ。私物だけ詰めて消えろ!」
佳乃はそれ以上、貴之の顔を見ようともしなかった。
淡々と膝を折り、ダンボールの蓋を開ける。
持っていくものなど、ほとんどなかった。
七年間、彼女の人生は会社そのものだったからだ。
私物のペンケース。愛用していた革の手帳。目薬。家族の写真が収められた小さな写真立て。
それらを丁寧にダンボールの底へ収めていく。
デスクの上に整然と並べられた業務ファイル――先代から引き継いだ門外不出の顧客カルテ、各省庁の担当者リスト、進行中案件の注意事項をまとめたインデックス付きのバインダー群。
それらには、一切手を触れなかった。
それらは会社の資産であり、後任が困らないようにと、佳乃が寸暇を惜しんで完璧に整理しておいた『引き継ぎ資料』だったからだ。
「……私の荷物は以上です」
ダンボールを抱え、佳乃は立ち上がった。
重さは、両腕の中に収まる程度のものでしかなかった。七年間の献身の対価が、このわずか数キロの紙とプラスチックの塊だと思うと、乾いた笑いすら湧いてこない。
「よし、行け! 二度と鳴神物産の敷地に足を踏み入れるな!」
貴之が顎でドアを指す。
瑠璃華はわざとらしく鼻を鳴らし、スマホをいじりながら見向きもしない。
二人の警備員に前と後ろを挟まれ、佳乃は秘書室の一歩外へと踏み出した。
薄暗い役員フロアの長い廊下を、規則正しい足音を立てて進む。
エレベーターホールに到着し、下りボタンが押される。
ポーン、と澄んだ電子音が鳴り、ステンレスの扉が重々しく左右に開いた。
乗り込み、振り返る。
フロアの奥、秘書室の明かりの漏れる扉の前で、貴之と瑠璃華が肩を並べてこちらを見ていた。
貴之が瑠璃華の腰を引き寄せ、二人がパチンと音を立ててハイタッチを交わす姿が、閉まりゆくエレベーターの扉の隙間から見えた。
「あははっ、スッキリしたぁ! 貴之さん、シャンパン開けましょ!」
「ああ、親父の呪縛も、あの鬱陶しい地味女も消えた! 今夜は朝まで祝杯だ!」
下品な笑い声が、扉が完全に閉ざされる直前まで耳に届いていた。
ガタン、と微かな振動とともに、箱が急速に下降を始める。
インジケーターの数字が、最上階の三十五から、三十四、三十三と、一段ずつ減っていく。
密閉された四角い空間の中、佳乃は一人、ダンボールを胸に抱いたまま立ち尽くしていた。
鏡張りの壁に映る自分の姿。
三日間の不眠で青白く透き通った肌。野暮ったい銀縁眼鏡。黒髪をきっちりと後頭部でまとめた地味なお団子ヘア。地味な黒のタイトスーツ。
――お茶汲みしかできない地味女。
――代わりなど、いくらでもいる。
貴之の罵声が、頭の中で何度も何度もリフレインする。
奥歯を噛み締めた。
唇から血が滲みそうなほど強く、強く。
込み上げてくるのは涙ではない。
胸の底から湧き上がる、冷たく研ぎ澄まされた、絶対の決意だった。
(……見ていなさい、鳴神貴之)
チン、と一階へ到着したベルが鳴る。
正面のエントランスホールの向こう、ガラス扉の向こう側は――深夜の冷たい豪雨が、叩きつけるようにアスファルトを打ち据えていた。




