第1話:冷えた通夜の片隅で
深夜十一時三十分。
都心の一等地に聳え立つ総合商社『鳴神物産』本社ビルの最上階は、深海のような静寂に沈んでいた。
中央空調の稼働が停止して数時間が経過し、広大な役員フロアの空気は底冷えのする冷気を帯びている。見渡す限りのデスクは闇に没し、規則正しく並んだパーティションの影が、巨大な墓碑のように夜の輪郭を切り取っていた。
そのフロアの最奥、厚手のすりガラスで仕切られた『会長秘書室』にだけ、煌々とした蛍光灯の明かりが落ちていた。
カタ、カタカタ、ッターン。
静寂を裂くのは、正確無比なキータッチの音と、乾いた紙をめくる衣擦れの音だけだ。
デスクに向かう槇野佳乃は、目元の銀縁眼鏡を人差し指でわずかに押し上げると、液晶画面に映し出された八百名を超える弔問客リストへ、吸い込まれそうなほど深い視線を落とした。
肩の凝りをほぐす余裕などない。
鳴神物産の中興の祖であり、日本財界の重鎮として五十年近く君臨し続けた先代会長・鳴神剛造が急性心不全で息を引き取ってから、丸三日。
密葬の手配から、政財界の要人への訃報の連絡、本葬に向けた実行委員会の組成、さらには明朝の一般五大紙の朝刊に掲載される一面訃報広告の文面チェックに至るまで――その一切の実務が、会長秘書室長代理である佳乃の細い肩にのしかかっていた。
(……大東京フィナンシャルグループの九条雅恵副頭取からの供花は、最前列の中央、経団連会長の右隣へ配置。神田の老舗和菓子舗『梅花堂』の店主からの弔電は、公私混同を避けるため一般枠に回されかけているけれど、先代の個人的な盟友だった方よ。特例として親族席のすぐ後ろへ回さなければ礼を失するわ)
佳乃の頭脳には、名簿の文字だけでは決して読み取れない『生きた情報』が、精密な設計図のように網の目のごとく張り巡らされていた。
政界の大物たちの派閥関係、官僚たちの微妙な序列、長年のビジネスで生じた義理と貸し借り。それらすべてをミリ単位で測り分け、誰のプライドも傷つけず、鳴神物産の威信を保つための差配。
黒子に徹すること。自らの存在を消し、組織の潤滑油として機能すること――それが、二十歳で先代会長に拾われて以来、佳乃が自らに課してきた絶対のプロフェッショナリズムだった。
三日間、一睡もしていなかった。
口にしたのは数杯のミネラルウォーターと、糖分補給のためのタブレット菓子数粒のみ。張り詰めた神経だけが、鉛のように重い身体を支えている。
ふと、視界の隅に置かれた手帳の余白に目が留まった。
先代が病室で意識を失う直前、佳乃の手を枯れ木のような指で固く握り締め、掠れた声で遺した最後の言葉が、今も耳の奥底に生々しくこびりついて離れない。
『佳乃……貴之を、頼む。あいつは頭の回転だけは早いが……人の痛みが分からん。私が死ねば、必ず道を踏み外す。お前だけが……あいつの手綱を握れる最後の防壁だ……頼む……』
貴之――鳴神物産の三代目社長に就任した、先代の一人息子。
そして、佳乃の『社内公認の婚約者』。
才気煥発に見えてその実、承認欲求とプライドの塊のような男だった。息子に経営者としての器量がないことを見抜いていた剛造は、優秀な佳乃を貴之の伴侶に据えることで、会社の屋台骨を裏から支えさせようとしたのだ。
佳乃自身、そこに燃え上がるような恋愛感情があったわけではない。けれど、路頭に迷いかけていた自分を育て上げ、ビジネスのイロハと矜持を叩き込んでくれた先代への大恩があった。その遺言を果たすためなら、自分の人生のすべてを捧げても構わない――そう信じて疑わなかった。
ジリリリリッ。
張り詰めた空気を切り裂いて、デスクの内線電話がけたたましく鳴り響いた。
受話器のディスプレイには『社長室』の文字。佳乃はわずかに息を整え、機械のように滑らかな声音で受話器を取った。
「お電話ありがとうございます。秘書室、槇野です」
『おい、佳乃。今すぐ社長室に来い』
スピーカー越しに聞こえてきたのは、酷く濁った貴之の声だった。通夜の席で遺族として神妙に頭を下げていたはずの男の声には、すでに隠しきれないアルコールの匂いと、ねじ曲がった高揚感が混ざり合っていた。
「かしこまりました。明朝の訃報広告の最終校正刷りをお持ちいたします」
『そんな紙切れはどうでもいい。いいから一人で来い。……大事な話がある』
一方的に切られたツーツーという電子音を聞きながら、佳乃は静かに受話器を置いた。
胸の奥で、冷たい予感の小石がことりと音を立てて落ちる。
佳乃は乱れた前髪を整え、黒のタイトスカートの皺を手で払うと、立ち上がって社長室へと向かった。
◇
旧会長室――今日から『新社長室』となった重厚なマホガニーの扉の前に立つ。
ノックを三度。中から「入れ」という短く横柄な返事があった。
扉を押し開けた瞬間、佳乃の鼻腔を突いたのは、かすかに残る線香の香りを暴力的なまでに塗りつぶす、濃厚で甘ったるいバニラとフローラルの香水の匂いだった。
佳乃は無意識のうちに眉根を寄せそうになるのを、超人的な自制心で押し留めた。
部屋の照明は薄暗く落とされ、ダウンライトの光が中央の応接スペースを怪しく照らし出していた。
先代が愛用していた無骨な黒革のソファに、喪服の上着を脱ぎ捨て、ワイシャツのボタンを胸元まで寛いだ貴之が深く腰掛けている。その手には、琥珀色の最高級ブランデーが注がれたバカラのロックグラスが握られていた。
そして、そのすぐ隣。
「ふふっ、社長ぉ、あんまり飲むと明日の役員会で起きられなくなっちゃいますよぉ?」
「構うもんか。今日からこの会社のトップは俺なんだ。口うるさい親父はもう、灰になって煙突から消えちまったんだからな」
貴之の腕に胸を押し当てるようにして密着していたのは、江藤瑠璃華だった。
先代の存命中、貴之が「これからの商社には華やかな発信力が必要だ」と強引に中途採用させた、元読者モデルの女性。
彼女の身に纏っているのは、喪の意を示す黒などでは断じてなかった。パステルピンクの華美なツイードのセットアップに、素足に履いた十センチのピンヒール。手元には鮮やかに彩られたネイルアートが妖しく光っている。
通夜が終わってわずか数時間。先代の遺骨すらまだ温かいであろうこの場所で、あまりにも不敬で、醜悪な光景だった。
「……失礼いたします。社長、お呼びでしょうか」
佳乃は視線を氷のように水平に保ち、完璧な角度の会釈を捧げた。
貴之はグラスの氷をカランと鳴らし、佳乃を値踏みするように上から下へと眺め回した。その瞳には、かつて見せていた父親への怯えは微塵もなく、肥大化した万能感だけが澱のように溜まっている。
「遅いぞ、佳乃。……まあいい。そこに座れ」
「いえ、立ち話で結構です。明朝の業務開始までに、各界への挨拶状の発送順序を確定させねばなりませんので」
「フン、相変わらず融通の利かない女だな」
貴之は鼻を鳴らし、グラスをローテーブルの上に乱暴に置いた。
そして、内ポケットから折りたたまれた一通の書類を取り出すと、テーブルのガラス天板の上へ、まるでゴミでも捨てるかのように放り投げた。
「お疲れ、佳乃。親父の葬式も無事に終わったことだしな。お前との関係も、今日この瞬間をもって終わりにしようと思ってな」
書類の表題が、佳乃の目に飛び込んできた。
白地に太い明朝体で印刷された、五文字。
『退 職 届』
その提出者欄には、すでに佳乃の所属と氏名が、本人の筆跡を真似た歪な文字で勝手に印字されていた。
「……これは、どういう意味でしょうか」
佳乃の声は、自分でも驚くほど静かだった。震えも、動揺も表には出ない。だが、皮膚の下を流れる血が一気に冷え切っていくような感覚があった。
「文字通りだ。解雇だよ、解雇」
貴之は喉の奥を鳴らして笑った。
隣に座る瑠璃華が、待ってましたとばかりにクスクスと下品な笑い声を漏らす。
「親父が死の床でお前と俺を無理やり婚約させたのは知ってるだろ? 『佳乃を妻にして、二人三脚で会社を守れ』だとさ。ヘドが出るぜ。俺はガキの頃から親父の言いなりだったが、死んでまであいつの敷いたレールの上を走る気はねえんだよ。というわけで、あの口約束の婚約は本日付で完全破棄だ」
「……婚約の件は、承知いたしました。元より先代の遺志による配慮でしたので、社長が望まれないのであれば私に異存はありません」
「物分かりが良くて助かるぜ。で、もう一つの本題だ」
貴之は身を乗り出し、退職届をトントンと指先で叩いた。
「明日付でお前を解雇する。会長秘書室は今夜をもって解散。明日からの社長室長には、そこにいる瑠璃華が就任する」
瑠璃華が勝ち誇った顔で胸を張り、小首を傾げて佳乃を見下ろす。
「そういうことですからぁ、佳乃さん。社長のお隣には、もっと若くて華のある女性が相応しいと思いません? こんな暗くて地味なおばさんが役員フロアの真ん中に居座ってたら、新体制のイメージが悪すぎますし〜」
佳乃は瑠璃華の言葉を一瞥もせず、ただ貴之の瞳だけを真っ直ぐに見据えた。
「社長。個人の感情による婚約破棄と、組織の人事は別問題です。現在、私が掌握している案件は、政財界のトップ五十名を超える極秘のスケジュール管理、係争中の案件に関する法務リスクの調整、そして主力銀行との包括融資契約に関する特約条項の遵守確認など、多岐にわたります。後任への正式な引き継ぎ期間も設けず、即日解雇を行うことは、会社経営において致命的なリスクを招きます」
「ハッ! リスクだと?」
貴之は腹を抱えて大笑いした。アルコールの混じった息を吐き散らしながら、ソファーの背もたれを拳で殴りつける。
「おいおい、買い被るなよ地味女。お前がこれまでやってきたことなんてな、要するにお茶汲みとカレンダーへの予定の書き込み、あとは適当な手土産をデパ地下で買ってくるだけの『誰にでもできる雑用』だろうが!」
「……雑用、ですか」
「そうだ! 雑務だ! これからの時代はDXとAIなんだよ! スケジュール管理なんてクラウドのAIツールに打ち込めば一瞬で終わるし、書類の作成だって自動化できる。お前のような昭和の遺物が分厚い紙ファイル抱えてバタバタ走り回る時代は終わったんだ! 俺が目指すのは、無駄な人間を極限まで削ぎ落としたスマート経営なんだよ!」
貴之の口から次々と飛び出す、薄っぺらなビジネスのバズワード。
彼は本気で信じているのだ。
先代がなぜ、あれほど複雑な政財界の荒波を乗り越えられたのか。
契約書の一行に潜む罠を誰が事前に見つけ出し、激怒しかけた大株主の元へ誰が先回りして根回しをし、役員たちの持病や家庭の事情まで考慮して誰が完璧な動線を敷いていたのか。
それらすべてを「システムが勝手に回していたもの」と錯覚し、自分の前に差し出されていた平穏が、一人の人間の血のにじむような観察眼と気配りによって作られていたことに、想像すら及んでいない。
「社長。システムを動かしているのは、規約でもプログラムでもありません。感情を持った、生身の人間です。先代が築き上げた信用のネットワークは、そうした泥臭い配慮の上に成り立っています。それを無視して表面的な効率化だけを推し進めれば、必ず組織は崩壊します」
「黙れッ!!」
痛いところを突かれた貴之の顔が、怒気で真っ赤に染まった。
ドン、とローテーブルが激しく揺れ、ブランデーのグラスが倒れて琥珀色の液体が書類を濡らす。
「親父の威光を傘に着て、俺に説教する気か!? 俺は鳴神物産の代表取締役社長だぞ! 親父はお前を買い被りすぎてたんだよ! お前がやってた程度の仕事の代わりなんてな、派遣の若い女の子を雇えば明日からでもいくらでも代わりがいるんだよ!」
「そうですよぉ〜」
瑠璃華が立ち上がり、高いピンヒールの音を響かせながら佳乃に近づく。
そして、佳乃の耳元にねっとりとした息を吹きかけた。
「秘書なんてぇ、可愛い笑顔でお茶を出して、社長の機嫌を取るのが一番のお仕事なんです。お姉さんみたいに化粧っ気もなくて、四角四面で可愛げのない女なんて、隣に置くだけで息が詰まっちゃいます。ねー、貴之さん?」
「ああ、その通りだ。華のない女は視界に入るだけで目障りなんだよ」
二人の嘲笑が、深夜の社長室に響き渡る。
先代が命を削って守り抜いた城の玉座で、愚かな息子と愛人が、泥靴のまま踊っている。
佳乃の胸を去来したのは、怒りではなかった。
途方もない、底なしの失望だった。
(ああ……先代。申し訳ありません。私には……この男を救うことはできません)
剛造の遺言が、胸の中でパラパラと音を立てて崩れ去っていく。
佳乃の中で、張り詰めていた一本の強靭な糸が、音を立てて断ち切られた瞬間だった。
「……社長のお考えは、よく理解いたしました」
佳乃は深く、静かに息を吸い込んだ。
銀縁眼鏡の奥の切れ長の瞳が、一切の感情を削ぎ落とした絶対零度の光を宿す。
「明朝の引き継ぎ資料は、私のデスクの上にまとめて置いておきます。それでは、失礼いたします」
「おい、待て!」
背を向けようとした佳乃に、貴之が勝ち誇ったような鋭い声を浴びせかけた。
「明朝じゃない。『今すぐ』だ。お前には今夜中に私物をまとめて、このビルから出ていってもらう。会社の機密を持ち出されたら困るからな。……おい警備室! 秘書室の槇野のID権限を今すぐ無効化しろ!」
受話器を叩きつける貴之の怒号を背に受けながら、佳乃は一歩も立ち止まることなく、静かに社長室の扉を閉めた。
パタン、と重厚なラッチが噛み合う乾いた音が、七年間の献身の幕引きを告げる弔鐘のように、冷たい廊下に長く反響していた。




