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第9話:3分間のプレゼンテーション

午前十時五分。

全面ガラス張りのメインボードルームに、張り詰めた沈黙が満ちていた。

大理石のテーブルの上に置かれたデジタルクロックの秒針が、青いセグメント表示で無機質に数字を刻んでいく。


――〇〇:〇一、〇〇:〇二、〇〇:〇三……。


三百ページを超える英文のM&A契約書、資産査定(デューデリジェンス)報告書、ならびにドイツ連邦共和国の公認会計士による財務監査調書。

厚さにして十センチ近くあるその書類の山を前にして、佳乃は一切の動揺を見せることなく、椅子の背もたれに寄りかかることもせず、凛とした姿勢を保っていた。


カサリ。


佳乃の細く白い指先が、最初の束の表紙を滑らかにめくった。

その瞬間から、室内の空気が異様なリズムを刻み始めた。

パラ……パラパラ……サッ、サッ、サッ。

乾いた紙の擦れ合う音だけが、等間隔で静謐な空間に響き渡る。


「……おいおい」

エスプレッソのカップを片手に持ったまま、COOの梶原が呆れたように眉を跳ね上げ、隣の苑子へ小声で囁いた。

「真鍋、本当に読めてると思うか、あれ? 一ページあたり一秒もかけてねえぞ。目次と数字の羅列を眺めてるだけだろ。ハッタリにも程があるぜ」

「静かにしなさい、梶原」

苑子は冷淡に返したが、そのプラチナフレームの眼鏡の奥の瞳は、鋭く佳乃の手元を凝視していた。

苑子の指摘通り、佳乃の視線の動きは常軌を逸していた。

通常の速読ではない。書類の全体を俯瞰し、条文番号と定義規定、キャッシュフローの注記、そして別紙(エグジビット)のインデックスのみを、猛烈な速度でスキャンしているのだ。まるで、広大な森の中から「異物」の匂いだけを嗅ぎ分ける猟犬のように。


「チッ……」

梶原がなおも何か言おうと唇を開きかけた、その刹那だった。


ギロリ。


テーブルの最上席に立つ誠一郎から放たれた、絶対零度の眼光が梶原の横顔を正確に射抜いた。

一切の言葉はなかった。だが、「それ以上その口を開けば、次の四半期の予算を削る」と言わんばかりの冷酷な圧迫感に、百戦錬磨の梶原ですら息を詰まらせ、慌てて口を噤んだ。


誠一郎の視線は、再び佳乃へと戻る。

その瞳の奥には、焦燥も不安も微塵もなかった。ただ、自らが選んだ唯一無二の右腕が、その卓越した知性を開帳する瞬間を待ち望む、深い静寂だけが湛えられていた。


――〇一:一五、〇一:一六……。


佳乃の意識は、ボードルームの人間たちの視線から完全に遮断されていた。

網膜に焼き付けられる膨大なアルファベットと数字。

その奔流の中で、佳乃の脳裏には、過去の記憶の引き出しが次々と高速で開かれていた。


(対象企業はドイツ・フランクフルトに本拠を置く総合物流企業『ライン・ロジスティクス』。総資産規模千二百億、従業員数四千五百名。買収スキームは株式譲渡による完全子会社化。表明保証条項、補償上限、ブレイクアップ・フィーの規定……どれもウォール街の標準的な書式に準拠している。財務諸表のEBITDA(利払い前・税引き前・償却前利益)の倍率も適正……)


表面上の数字には、何一つの破綻もない。

タカツカサの精鋭アナリストたちが「優良案件」と判断したのも頷ける。

だが、佳乃の直感が、書類の奥底に潜む微かな「歪み」を警告していた。


(相手方の経営陣が突如として態度を硬化させた……? 買収価格の吊り上げを狙っているのではない。もし価格交渉が目的なら、代替条件の提示があるはず。それがないということは、相手側は「これ以上踏み込まれたくない領域」にタカツカサの調査の手が伸びるのを恐れている……!)


佳乃の指先が、財務諸表の束を抜け、分厚いバインダーの最奥に綴じられた『労使協約および付属合意書』のセクションへと飛び込んだ。


――〇二:〇〇、〇二:〇一……。


佳乃の記憶の扉が、明確な一点へと接続される。

二年前の秋。

鳴神物産の先代会長・剛造が、欧州へのサプライチェーン拡張を企図し、ハンブルクの港湾運送会社の買収を検討した際のことだった。

剛造は、深夜の会長室で佳乃にこう命じたのだ。


『佳乃。ドイツの企業を買う時はな、財務諸表の数字なんぞ半分しか信じるな。あそこは「共同決定法(Mitbestimmung)」の国だ。労働組合の力が極めて強く、法律の改正一つで、昨日まで存在しなかった数千万ユーロの債務が突然地面から湧き出してくる。現地の労働協約法(Tarifvertragsgesetz)の判例と、労働裁判所の動向を徹底的に洗え』


あの時、佳乃は一ヶ月間にわたり、ドイツ連邦労働裁判所の過去十年分の判例集を取り寄せ、専門辞書を片手に独語と格闘し、ノート三冊に及ぶ『ドイツ労務リスク管理マニュアル』を自らの手で書き上げたのだ。

その知識のネットワークが、今、目の前の英文資料の注記と完全にスパークした。


――〇二:三五、〇二:三六……。


佳乃の指が、第十四条の小さな脚注の前で、ピタリと静止した。


息を呑む。

見つけた。

それは、三百ページの分厚い書類の海の底、意図的にフォントサイズを落とされた付属別紙(エグジビット)Bの、さらに脚注第七項に、何気ない事務的な補足として埋め込まれていた。


――〇二:四五。


佳乃は書類から顔を上げ、静かに背筋を伸ばした。

乱れていた前髪にそっと触れ、整える。

その動作には、一切の躊躇も迷いもなかった。

デジタルクロックの表示は、二分五十二秒。


「……お約束の三分が経過いたします」

佳乃の澄んだ声が、静まり返ったボードルームに響き渡った。

苑子が腕を組んだまま、眼鏡の奥の瞳を冷ややかに細める。


「ええ、結構よ。それで? 何か見つかりまして? 『ドイツ語の専門用語が多くて読めませんでした』という言い訳なら、聞くだけ時間の無駄ですけれど」

「真鍋先生」

佳乃は苑子の挑発を柳のように受け流し、両手で持ち上げた契約書の束を、テーブルの中央へと静かに押し出した。

そして、人差し指の先で、付属別紙Bの脚注第七項をトンと叩いた。


「この買収交渉が難航している原因は、買収価格の不一致でも、事業シナジーへの懸念でもありません。この対象企業――ライン・ロジスティクスと、現地の運輸労働組合(ver.di)との間に結ばれている労働協約の中に、極めて悪質な『旧協約の自動延長条項(Nachwirkung)』が残されたままになっています」


ピクリ、と苑子の眉が跳ね上がった。

だが、百戦錬磨の渉外弁護士である苑子は、すぐに鼻を鳴らして冷笑を返した。


「……旧協約の自動延長? それが何か? ドイツの労働法において、労働協約の失効後に新たな協約が締結されるまでの間、従来の労働条件が暫定的に継続適用されるのは一般的な慣行よ。現地の提携法律事務所の労務デューデリジェンス報告書にも、その旨は記載されていたわ。『通常の事業継続において特段の法的瑕疵なし』とね」


「通常の事業環境であれば、その通りです。……しかし、来月一日以降もそうでしょうか?」


佳乃の静かな問いかけに、苑子の表情がわずかに強張った。

「……どういう意味かしら」


「来月一日、欧州連合(EU)において、新しい『運輸部門労働指令(Mobility Package)』の全面施行が予定されております。真鍋先生、その改正内容をご存知ですね?」


佳乃は手元の資料を見ることすらなく、完璧な記憶から条文の骨子を淀みなく引き出した。


「新指令では、国際長距離トラックドライバーに対する国境越え勤務時の同一労働同一賃金原則の厳格化、ならびに過去に遡ってのタコグラフ(運行記録計)データに基づく休憩時間未取得分の割増賃金請求権が、最大三年間認められることになりました」

「っ……!?」

苑子の瞳が、わずかに揺らいだ。

佳乃は言葉を止めず、淡々と、だが逃げ場のない論理の鎖で相手を追い詰めていく。


「ライン・ロジスティクスが抱えるドライバー約三千名のうち、六割以上は東欧からの派遣および越境勤務者です。この付属合意書の脚注第七項にある旧協約には、なんと『EU新指令が発効した場合であっても、労使間の合意なき限り、過去の運行管理基準に基づく手当清算義務はすべて買収後の存続会社が包括承継する』という特約条項が、巧妙な文言で忍ばせてあります」


室内の温度が、急激に低下していく。

梶原が身を乗り出し、息を呑んで佳乃の言葉に聞き入っていた。


「ライン・ロジスティクスの現経営陣は、自らの杜撰な労務管理によって生じた、過去三年分の未払い時間外手当、および不適正な年金積立不足の存在を完全に把握しています。その総額は、控えめに見積もっても――約八千万ユーロ」


「は、八千万……!?」

梶原が絶句の声を漏らした。

「八千万ユーロって……日本円にして、百三十億円以上だぞ!?」


「はい。百三十億円の隠れ債務(オフバランス債務)です」

佳乃は真っ直ぐに苑子の目を見つめ、残酷なまでの真実を告げた。

「相手方の経営陣は、来月の法改正によってこの巨額負債が表面化し、自社が債務超過に転落することを恐れたのです。だからこそ、その事実を脚注の奥底に隠蔽し、タカツカサ・キャピタルに七百億円で会社を丸ごと買わせ、負債の支払義務をすべてタカツカサに押し付けて逃亡しようと企てた。……交渉が停滞しているのは、我が社のアナリストが何かを要求したからではありません。相手方が、これ以上詳細な運行記録の開示を求められるとペテンが露見するため、サインを焦らせようと意図的に頑なな態度を装っているだけです」


佳乃は一礼し、言葉を結んだ。


「このM&Aは、最初からタカツカサ・キャピタルを標的にした、悪意ある『負債押し付けトラップ』です。もし代表がサインをしていれば、我が社は買収完了の翌月、百三十億円の偶発債務を突如として背負わされ、ファンドの運用利回りは壊滅的な打撃を受けておりました」


シーン……と、完璧な静寂がメインボードルームを支配した。

誰も口を開かない。開けないのだ。

窓の外から差し込む朝の陽光が、大理石テーブルの上の書類を白々と照らし出している。


「…………」

苑子の顔から、完全に血の気が引いていた。

先ほどまでの冷徹な威厳は消え失せ、震える指先で手元の大型タブレットを引き寄せると、猛烈な勢いでフランクフルトの法務データベースへとアクセスを始めた。

画面をスクロールする指が、かすかに震えている。


「……EU指令二〇二〇/一〇五七……運輸労働規制……ドイツ労働協約法第四条第三項……自動延長効の特約……」

画面を見つめる苑子の瞳が、見開かれた。

タブレットの光に照らされた彼女の唇が、小さく戦慄に震える。


「……嘘、でしょ……。本当だわ……。現地のトップ法律事務所が作成したリーガルオピニオン(法的意見書)にも、この脚注のリスクは一切記載されていなかった……! 巧妙に別紙の付帯条項として偽装されていたのよ……!」

苑子は顔を上げ、信じられないものを見るように佳乃を凝視した。

額に、微かな冷汗が滲んでいる。


「あなた……なぜ、現地の労働弁護士すら見落としていたEU指令の施行時期と、ドイツのローカルな労働協約の盲点を、たった三分で……!?」


苑子の震える問いに、佳乃は誇ることもなく、ただ静かに、丁寧に頭を下げた。


「鳴神物産におりました二年前、先代会長の特命により、欧州の港湾物流網と現地労働裁判所の判例を数ヶ月にわたり調査した経験がございました。商社の現場では、契約書の美しい英文よりも、現地のトラックドライバー一人ひとりの権利意識と労使関係の軋轢こそが、数十億の利益を一瞬で吹き飛ばす致命傷になり得ます。……黒子として会社を守るためには、避けて通れない実務の知識でございます」


黒子としての実務。

その言葉の重みに、苑子は言葉を失い、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

MBAも、弁護士資格も持たない。

だが、この女性の頭脳にあるのは、机の上の理論を遥かに凌駕する、泥臭いビジネスの修羅場で研ぎ澄まされた「本物の危機管理能力」だった。


パチ、パチ、パチ……。


静寂を破ったのは、乾いた拍手の音だった。

見れば、COOの梶原が椅子から立ち上がり、心底から感服したように満面の笑みを浮かべて両手を叩いていた。


「すげえな……おい、真鍋。俺たちの負けだ。完敗だよ」

梶原は大股で佳乃の前まで歩み寄ると、右手を豪快に差し出した。

「疑って悪かったよ、槇野さん。あんた、ただの秘書なんかじゃねえ。百三十億円の地雷を三分で踏み潰してみせた、本物のバケモノだ。タカツカサのCOOとして、あんたを心から歓迎するぜ」


差し出された逞しい手。

佳乃は一瞬驚きに目を瞬かせたが、すぐに柔らかく、だが力強くその手を握り返した。


「ありがとうございます、梶原COO」


そして、苑子もまた、ゆっくりと椅子から立ち上がった。

プラチナの眼鏡を外し、目元をそっと押さえると、佳乃に向かって深々と、腰を折って一礼した。


「……私の不明を、心よりお詫び申し上げます、槇野さん。あなたは、シニア・エグゼクティブ・オフィサーとして、この席に座るに十二分に相応しい方です。我が社のコンプライアンス統括として、あなたの着任を正式に承認いたします」


敵意と侮蔑に満ちていた空間が、わずか三分間のプレゼンテーションによって、完全なる敬意と承認の場へと反転した。

七年間、誰にも見向きもされず「お茶汲みの雑用」と切り捨てられてきた自分の知性が、日本最高峰のプロフェッショナルたちを完全に屈服させたのだ。


佳乃の胸の奥底に、熱い誇りが込み上げてくる。

ふと視線を上げると、最上席の誠一郎と目が合った。


誠一郎は腕を組んだまま、静かに佇んでいた。

その切れ長の瞳には、「当然の結果だ」と言わんばかりの誇らしげな光と、彼らには見せることのない、深く温かな熱が湛えられていた。

誠一郎の薄い唇が、佳乃だけに分かるように、微かに弧を描く。


(……見事だ、佳乃)


音のない男の賞賛が、胸の奥深くまで染み渡り、佳乃の頬を微かに熱く染めた。

タカツカサの洗礼を完璧に乗り越えた万能秘書は、名実ともに、この冷徹な投資帝国の「真の頭脳」として君臨したのだった。

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