第55話:休日、二人だけの時間
十一月の声を聞く頃、銀座の中央通りを彩る街路樹は鮮やかな黄金色へと衣替えを済ませていた。
新生『株式会社ナルカミ・グローバル』の発足から三週間。
かつて腐敗の象徴であった旧体制の不採算な利権は、真鍋苑子率いる法務チームの手によって完全に切除され、安西源三郎副社長が陣頭指揮を執る全国の営業網と港湾サプライチェーンは、驚異的な結束力をもって過去最高の稼働率を取り戻しつつあった。
千夏がチーフマネージャーとして切り盛りする新設のグループ統合秘書室も、現場のアシスタントたちの待遇改善と多面評価(VCI制度)の導入によって息を吹き返し、社内にはかつてない活気と笑顔が満ち溢れている。
だが――その奇跡のような新生の代償を、一身に背負い続けていた人物がいた。
金曜日の午後六時三十分。
銀座本社ビル最上階・三十四階の代表取締役COO執務室。
磨き抜かれたガラスデスクの上には、各事業部門から上がってきた週次報告書、全国の支社からの稟議書、そして来期予算編成のシミュレーションシートが、整然と、だが果てしなく積み上げられていた。
「……これで、神戸港の低温倉庫増設に関する承認起案は完了ね。次は、門司支社の新規通関システムの導入スケジュール……」
デスクに向かう槇野佳乃は、サファイアブルーの特注万年筆を指先で走らせながら、小さく息を吐き出した。
濃紺のテーラードスーツに身を包み、前下がりの黒髪ボブを耳にかけた横顔は、凛として美しい。
だが、その陶器のように白い肌には、わずかに隠しきれない疲労の色が滲み、切れ長の瞳の縁には、極度の緊張の連続による微かな陰りが差していた。
元・会長秘書室長代理から、一躍、数千人の社員を束ねるメガ商社の最高執行責任者(COO)へ。
その重責を誰よりも自覚しているからこそ、佳乃は就任以来、一日も休むことなく現場の声に耳を傾け、深夜まで書類と向き合い続けていたのだ。
「佳乃さん、まだ残っていらしたのですか?」
ノックとともに顔を覗かせたのは、統合秘書室チーフマネージャーの瀬尾千夏だった。
すっかり板についたスーツ姿の千夏は、佳乃のデスクに置かれた書類の山を見て、心配そうに眉を寄せる。
「安西副社長からも『COOを早く帰宅させるように』と厳命を受けております。今週はずっと残業続きではありませんか。残りの書類は、週明けに私が精査しておきますから……」
「ありがとう、千夏さん。でも、現場がこれだけ必死に走ってくれているのですもの。私のところで決裁を滞らせるわけにはいかないわ。……あと一時間ほどで片付けるから、千夏さんは先に上がって」
佳乃がふわりと微笑んで返した、その瞬間だった。
ピピッ。
執務デスクの内線インターホンが、低く澄んだ電子音を鳴らした。
千夏が受話器を取る。
「はい、代表執務室です。……えっ? い、今ですか……!? 分かりました、すぐにお通しします!」
慌てふためいた千夏が受話器を置くのと、廊下から重厚で迷いのない革靴の足音が響いてくるのは、ほぼ同時だった。
カツ、カツ、カツ。
ノックの音すら待たずに、執務室の重厚なマホガニーの扉が、静かに、だが圧倒的な存在感とともに開かれた。
「っ……!」
佳乃は思わず万年筆を止め、目を見張った。
入口に立っていたのは――仕立ての良い漆黒のスリーピースに、ダークグレーのカシミアチェスターコートを完璧に羽織った男。
タカツカサ・キャピタル代表取締役CEO、ならびにナルカミ・グローバル代表取締役会長――鷹司誠一郎だった。
彫刻のように研ぎ澄まされた端正な顔立ち。
その切れ長の双眸が、デスクに山積みになった書類と、佳乃の少しやつれた顔を一瞥のもとに捉えた。
誠一郎は何も言わず、大股で佳乃のデスクの前まで歩み寄ってきた。
「鷹司、様……? 本日の定例取締役会は昨日終了したはずですが、何か至急の案件でしょうか……?」
佳乃が立ち上がろうとした、その刹那。
スッ……。
誠一郎の手が伸び、佳乃のデスクの上に置かれていた社用スマートフォン、ならびに佳乃の私用端末を、いとも鮮やかな手付きで同時に引き寄せた。
そして、二台の端末の電源ボタンを迷いなく長押しし、画面をブラックアウトさせると、自らのコートの内ポケットへと滑り込ませたのだ。
「え……? 鷹司様……!?」
あっけにとられる佳乃を見下ろし、誠一郎は眉毛一つ動かさずに、低く滑らかなバリトンボイスを響かせた。
「撤収だ、佳乃」
「は……? 撤収、とは……」
「言葉通りの意味だ」
誠一郎は佳乃の手からモンブランの万年筆を優しく抜き取ると、サファイアブルーのキャップをカチリと閉め、専用のベルベットケースへと収めた。
そして、呆然と立ち尽くす千夏へと視線を向ける。
「瀬尾チーフ。これより来週月曜日の午前九時まで、COO宛てのすべての連絡、緊急案件のメールは、タカツカサの梶原COOと安西副社長へ自動転送するよう回線を切り替えろ」
「は、はいッ! 了解いたしました!!」
千夏は満面の笑みで直立不動の敬礼を返した。
「ま、待ってください千夏さん! 鷹司様、私はまだ決済しなければならない案件が山のように――」
抗議しようとする佳乃の肩を、誠一郎の大きな手が、上からそっと、だが逆らえない力で抱き寄せた。
「佳乃」
至近距離から降り注ぐ、熱く深い視線。
「君は先代の剛造氏のもとにいた七年間、一度たりとも有給休暇を取ったことがないそうだな」
「それは……黒子として、いつ何時でも動けるように待機するのが私の職務でしたから……」
「その悪しき慣習は、前体制とともに完全に破棄された」
誠一郎の口元に、有無を言わせさぬ絶対の覇者の笑みが浮かんだ。
「適切な休息を取り、心身のパフォーマンスを最高潮に維持することも、エグゼクティブの重大な義務だ。……これは会長命令だ、佳乃。今夜から、君の時間をすべて私が接収する」
「せ、接収……!?」
反論の隙など、一秒たりとも与えられなかった。
誠一郎は佳乃のネイビーのジャケットをハンガーから外すと、彼女の肩へと優しく掛け、その華奢な手首を自らの温かい手で包み込んだ。
そのまま、千夏たちの温かい見送りを受けながら、佳乃は役員専用エレベーターへと連れ出されたのだった。
◇
地下駐車場に待機していた漆黒のマイバッハに乗り込むと、車は夕闇に包まれ始めた都心を抜け、首都高速から関越自動車道、そして上信越自動車道へと滑らかに加速していった。
車内は、外界の喧騒が完全に遮断された静寂のプライベート空間。
心地よいエンジンの重低音と、柔らかな革張りのシートの温もり。
スマートフォンの通知音も、メールの受信ランプも点滅しない世界。
「……あの、鷹司様。行き先をお伺いしてもよろしいでしょうか」
佳乃が恐る恐る尋ねると、隣に深く腰掛けていた誠一郎は、保温ボトルから温かいカモミールティーを注ぎ、佳乃の手元へと握らせた。
「軽井沢だ」
誠一郎はフロントガラスの向こう、遠く群馬の山並みを見つめながら静かに言った。
「私のプライベートの別邸がある。……誰の目も届かない、電波すら届きにくい森の奥だ。君の張り詰めた神経を解きほぐすには、最適の場所だ」
「軽井沢……」
手元のカップから立ち上るハーブの香りを吸い込みながら、佳乃の胸の奥がトクンと小さく跳ねた。
二人きりで、週末を過ごす。
株主総会の前夜、赤坂のルーフテラスで誠一郎が告げた言葉――『すべてに決着がついた後、君に伝えたい大切な言葉がある』『君の人生のすべてを、私に預けてもらう』という、あの甘やかで切実な予告が、脳裏を熱くかすめる。
耳朶がカッと熱くなり、佳乃は慌ててティーカップに唇を押し当てた。
東京を出発して約二時間半。
碓氷軽井沢インターチェンジを降り、車は旧軽井沢のさらに奥、深いカラマツとモミの原生林に抱かれた細い私道へと入っていった。
舗装された小道の両脇には、落葉した紅葉と黄金色の針葉樹の絨毯が広がり、ヘッドライトの光を幻想的に反射している。
やがて、木々の合間から、暖かなオレンジ色の明かりを灯した瀟洒な邸宅が姿を現した。
「到着したぞ」
車を降りた瞬間、佳乃の頬を撫でたのは、思わず息を呑むほど清冽で冷たい、秋の夜気だった。
見上げる空には、都会では決して見ることのできない、息を呑むような満天の星屑が零れ落ちそうに瞬いている。
目の前に佇んでいたのは、コンクリートと地元の浅間石、そして上質な信州唐松の無垢材を大胆に組み合わせた、モダンで洗練されたデザイナーズ建築だった。
華美な装飾を排し、自然の静けさに溶け込むように設計されたその佇まいは、まさに鷹司誠一郎という男の美学を具現化したかのような静謐さを湛えていた。
「さあ、中に入れ。身体が冷える」
誠一郎に促され、重厚な木製ドアを潜る。
玄関ホールに足を踏み入れた瞬間、床暖房の柔らかな温もりと、薪の燃える香ばしい匂いが佳乃を包み込んだ。
天井高五メートルを超える広大なリビングダイニング。
正面のパノラマウィンドウの向こうには、ライトアップされた夜の白樺の森が広がり、壁面の一角には、本物の浅間石で組まれた巨大な暖炉が赤々とオレンジ色の炎を爆ぜさせていた。
「……素晴らしい別邸ですね」
佳乃が感嘆の声を漏らすと、誠一郎はコートを脱ぎながら、ふっと柔らかく目を細めた。
「仕事関係の人間は、梶原すら一度も入れたことがない。……君が、最初の客だ」
「え……?」
最初のお客様。その言葉の重みに、佳乃の心臓がまたしても小さく跳ねる。
「まずは、その鎧を脱ぐといい。二階のゲストルームに、着替えを用意してある」
促されるまま二階のベッドルームへ上がると、ベッドの上には、カシミアのように滑らかなアイボリーのローゲージニットと、柔らかなウールのワイドパンツが整然と用意されていた。
佳乃は窮屈なスーツを脱ぎ捨て、その温かなニットに身を包んだ。
肌に触れる極上の繊維の優しさに、七年間、常に「鳴神の秘書」として張り詰めていた身体の強張りが、ふわりとほどけていくのを感じる。
髪を軽くブラシで整え、一階のリビングへと戻った佳乃は――
キッチンの前に佇む誠一郎の姿を目にした瞬間、思わず息を呑んで立ち止まってしまった。
「…………っ」
そこにいたのは、佳乃が見たことのない「鷹司誠一郎」だった。
トレードマークだったあの威圧的な漆黒のスリーピースも、完璧に結ばれたネクタイもない。
身に纏っているのは、首元をゆったりと包む、柔らかなアイボリーのタートルネックニット。
肩幅の広さと逞しい胸板の厚みを際立たせながらも、普段の絶対零度の覇者特有の冷徹さは完全に消え去り、驚くほど若々しく、優しげな大人の男の色香を漂わせていた。
さらに――その腰には、チャコールグレーのリネン製のエプロンが、きっちりと巻かれている。
市場から「氷のハゲタカ」と恐れられる若き総帥が、エプロンを着けてキッチンに立っている。
その信じがたいギャップに、佳乃の胸が激しくざわめいた。
「……どうした、佳乃。サイズは合っていたか?」
振り返った誠一郎が、微かに小首を傾げる。前髪がわずかに額に乱れ落ち、その柔らかな表情に、佳乃の頬が一瞬にして林檎のように赤く染まった。
「は、はい……! とても温かくて、ぴったりです……! ですが、鷹司様……そのお姿は、一体……」
「これか?」
誠一郎は自らのエプロンを見下ろし、悪戯っぽく口元を綻ばせた。
「言ったはずだ。今夜は君の時間を接収したとな。……今夜は、私が腕を振るう」
「ええっ……!? だ、代表自らお料理をなさるのですか!?」
佳乃は血相を変えてキッチンへと駆け寄った。
「滅相もありません! 代表にお料理をさせるなど、秘書として……いいえ、部下として到底許されることではありません! エプロンをお貸しください、私が作ります!」
佳乃がエプロンの紐を解こうと手を伸ばした、その時だった。
ギュッ……。
誠一郎の大きな、骨太な手が、佳乃の伸ばした両手を、上から優しく包み込んだ。
ひんやりとした佳乃の指先に、誠一郎の圧倒的な体温が直接伝わってくる。
「佳乃」
耳元に落ちてくる、低く甘やかな声。
誠一郎は佳乃の瞳を、至近距離から真っ直ぐに見つめつづけた。
「君はいつも、他人の世話ばかりを焼き、他人の体調を気遣い、自分をすり減らして誰かに尽くしてきた。……鳴神剛造の影に隠れ、あの愚息の尻拭いをし、そして新会社が立ち上がってからも、現場の社員たちのために自らを削り続けている」
誠一郎の指先が、佳乃の手の甲を、慈しむようにそっと撫でた。
「今夜だけは、誰かのために動くのをやめろ。……君は私のゲストだ。今夜は、私に君へ仕えさせてくれ」
「鷹司……様……」
私に、仕えさせてくれ。
世界を買い叩く冷徹な帝王が、一人の女性のために頭を下げ、料理を振る舞おうとしている。
かつて第10話で、役員たちの前で試された佳乃のために、自らの手で丁寧に珈琲をハンドドリップしてくれた、あの日の記憶が鮮烈に蘇る。
この男は、いつだって言葉ではなく、その行動のすべてをもって、佳乃という人間の尊厳を救い出し、最高峰の愛で包み込んでくれるのだ。
佳乃の手から、力が抜けた。
「……はい。では、お言葉に甘えさせていただきます」
「あぁ。カウンターの椅子に座って、見ていてくれ」
誠一郎は満足げに微笑むと、手際よくキッチンでの作業を再開した。
アイランドキッチンの大理石の天板の上には、採れたての新鮮な信州の高原野菜――鮮やかな紅芯大根、甘みの凝縮された白カブ、黄金色のインカのめざめ、深緑の縮みキャベツが、みずみずしく並んでいた。
誠一郎は迷いのない手付きで包丁を握り、トントン、トントンと、リズミカルで心地よい音を響かせて野菜を切り分けていく。
ル・クルーゼの重厚な鋳物鍋に、丸鶏から取った澄んだ黄金色のブイヨンを注ぎ、大ぶりに切った野菜と信州産ハーブ豚の自家製ベーコンを敷き詰めて、コトコトと弱火にかける。
続いて、冷蔵庫から取り出されたのは、美しいサシの入った極上の信州プレミアム牛のフィレ肉の塊だった。
常温に戻された肉に、粗挽きの岩塩と黒胡椒を手際よく擦り込み、熱した厚手の鉄フライパンへと静かに滑り込ませる。
ジューーーッッ……!!
香ばしい肉の焼ける匂いと、ハーブの清冽なアロマが一瞬にしてキッチンを満たした。
表面を均一に焼き固め、旨味の肉汁を閉じ込めた後、あらかじめ温められていたオーブンへと手早く投入する。
一切の無駄がない、完璧なプログレッシブ・ワーク。
金融市場のアルゴリズムを組み立てる時のように精密でありながら、そこには食べる相手への限りない温もりが満ち満ちていた。
「……見事な手並みですね」
カウンターに頬杖をつき、見惚れるように見つめていた佳乃が、思わず呟いた。
「代表が、これほどお料理がお得意だったとは存じ上げませんでした」
「昔、ロンドンの投資銀行にいた頃、激務で胃を壊してな」
誠一郎はポトフのアクを丁寧にすくい取りながら、苦笑を漏らした。
「外食の油と濃い味付けに耐えられなくなり、自分で素材を選んで料理するようになった。……だが、人に振る舞うのは、これが生まれて初めてだ。口に合えばいいのだが」
「鷹司様が作ってくださるものなら、美味しくないはずがありません」
佳乃が即座に答えると、誠一郎は少し照れたように視線を逸らし、咳払いを一つ落とした。
その人間らしい隙のある仕草が、佳乃の胸をたまらなく愛おしさで満たしていく。
四十分後。
暖炉の火がパチパチと心地よい爆ぜる音を立てるリビングの無垢材テーブルに、湯気を立てる極上の料理が並べられた。
大皿に美しく盛り付けられた、信州高原野菜と自家製ベーコンのポトフ。
琥珀色に澄んだスープには、野菜の甘みと豚肉の旨味が溶け出し、立ち上る湯気だけで胃袋が温まるような優しさを放っている。
そして、カッティングボードの上でロゼ色に輝く、信州牛フィレ肉の極上ロースト。
赤ワインと地元産バルサミコを煮詰めた艶やかなソースが添えられ、信州産本わさびのすりおろしが香りを添えていた。
誠一郎は佳乃のグラスに、美しく熟成したピノ・ノワールの赤ワインを注ぎ、自らのグラスにも注ぐと、暖炉の火を背にして静かにグラスを掲げた。
「新生ナルカミ・グローバルの船出に。……そして、私の最高のパートナーへ」
「……ありがとうございます、誠一郎様」
カラン、と澄んだクリスタルの音が、静かなリビングに響き渡った。
佳乃はスプーンを取り、ポトフの澄んだスープをそっと一口すすった。
「…………っ!」
口の中に広がったのは、人工的な調味料の味など微塵もない、野菜本来の滋味あふれる甘みと、奥深いブイヨンのコクだった。
柔らかく煮込まれた白カブが舌の上でとろけ、温かな熱が、喉を通って胃の腑へと、じわりと染み渡っていく。
続いて口に運んだフィレ肉のローストは、驚くほど柔らかく、噛み締めるたびに上質な赤身の肉汁が溢れ出し、赤ワインの芳醇な渋みと完璧に溶け合った。
「……美味しい」
佳乃の瞳から、ポロリと一筋の涙がこぼれ落ちそうになった。
「本当に……身体の芯まで温まります。こんなに美味しいお料理をいただいたのは……生まれて初めてかもしれません」
「そうか。……よかった」
誠一郎の口元が、心底からの安堵に満ちた笑みに綻んだ。
暖炉の薪が、パチッと小さく爆ぜる。
戦場のようなビジネスの世界から、何百キロも離れた森の奥。
誰の視線も気にすることなく、誰の思惑に怯えることもなく、ただ愛する人と向かい合い、美味しい料理とワインを味わう時間。
佳乃はグラスを傾けながら、七年間ずっと背負い続けていた重い甲冑が、自らの身体から完全に剥がれ落ちていくのを感じていた。
肩の力が抜け、頬がワインの熱でほんのりと桜色に染まっていく。
「……佳乃」
食事を終え、グラスを置いた誠一郎が、暖炉の火を見つめながら静かに口を開いた。
「随分と、顔色が良くなったな」
「はい……。自分でも驚くほど、身体が軽くなりました。……私、こんなに穏やかな夜を過ごしたのは、いつ以来か思い出せません」
「これからは、それが君の日常になる」
誠一郎は立ち上がると、佳乃の元へと歩み寄り、その柔らかなニットに包まれた肩へと、そっと手を置いた。
その眼差しには、先ほどまでの料理人の顔から、一人の男としての、深く、抗いがたい熱が宿っていた。
「外に出てみないか。……今夜は、星が信じられないほど綺麗だ」
誠一郎の手が、佳乃の手を優しく引き寄せた。
暖炉の温もりを背に受けながら、二人は夜のテラスへと向かって、静かに歩み出したのだった。




