第54話:落ちぶれた者たちの現在
晩秋の冷たい雨が、霞が関の官庁街を取り囲む銀杏の街路樹を濡らしていた。
濡れて黒ずんだアスファルトの上を、黄色い落ち葉が無残に踏みにじられていく。
東京都千代田区霞が関一丁目、東京地方裁判所中層棟。
裁判所の重厚なエレベーターを上がった先、一般の法廷のような傍聴席や法壇すら存在しない、四方を防音壁に囲まれた無機質な小部屋――『民事第二十部(破産再生・倒産専門部)審問室』には、息の詰まるような重苦しい沈黙が淀んでいた。
室内の窓からは光が遮られ、蛍光灯の青白い光が、スチール製の長机の上に並べられた分厚い記録ファイルを無機質に照らし出している。
机を挟んで対峙する三つの影。
「……債務者、鳴神貴之氏。あなたの破産申立書、ならびに破産管財人から提出された調査報告書を精査いたしましたが……裁判所としては、極めて重大な懸念を抱かざるを得ません」
上座に座る四十代半ばのベテラン裁判官が、手元の分厚いファイルを冷淡にめくりながら、眼鏡の奥の鋭い眼光を正面へと向けた。
その視線の先――パイプ椅子に背中を丸め、小さく縮こまっている男がいた。
「っ……ひ……」
鳴神貴之だった。
だが、その姿には、かつて銀座のクラブで取り巻きを引き連れて尊大に振る舞い、名門商社の三代目社長として傲慢の限りを尽くしていた伊達男の面影など、微塵も残っていなかった。
身に纏っているのは、量販店のワゴンセールで買った安物の黒いリクルートスーツ。手入れもされずシワだらけで、肩回りは急激な体重減少のせいで無残に浮いていた。
かつて艶やかに整えられていた髪はボサボサに伸び散らかり、頬は骸骨のように痩せこけ、青白い肌には無精髭が汚らしく生え揃っている。
膝の上に置かれた両手は、爪先まで薄汚れて小刻みに痙攣し、床の冷たいリノリウムを見つめたまま、一言も発することができずにいた。
裁判官の隣には、裁判所から選任された白髪の破産管財人弁護士。
そして――長机の反対側、債権者集団の筆頭代理人として、背筋を寸分の狂いもなく伸ばして座っていたのは、タカツカサ・キャピタルの法務・コンプライアンス統括副社長、真鍋苑子だった。
プラチナフレームの眼鏡を指先でスッと直す苑子の手元には、旧鳴神物産から押収された会計データと銀行口座の全送金ログが、青いファイルとなって整然と積まれていた。
「鳴神氏」
裁判官の声は、感情を一切交えない、絶対零度のトーンだった。
「あなたは申立書において、『事業の急激な悪化による不可抗力の債務超過』を理由として、破産法第二百四十八条に基づく免責許可(借金の帳消し)を求めておられます。……しかし、管財人ならびに債権者代理人である真鍋弁護士から提出された客観的証拠の数々は、あなたの主張と完全に矛盾しています」
裁判官は、机の上のファイルをトントンと指先で叩いた。
「第一に、破産法第二百五十二条第一項第四号――『浪費又は賭博その他の射幸行為をしたことによって著しく財産を減少させ、又は過大な債務を負担したこと』。……鳴神氏、あなたはこの半年間だけで、会社の経費予備口座から、愛人である江藤瑠璃華氏へ現金五千万円以上を私的に流用し、貴金属、高級外車のリース、六本木のペントハウスの賃料として、合計一億二千万円を超える過大な支出を個人的な遊興のために浪費していますね」
「あ……う……」
貴之の喉から、掠れた空気の漏れるような音が漏れた。
「さらに、同項第一号――『債権者を害する目的で、破産財団に属すべき財産を隠匿し、損壊し、又は債権者に不利益に処分したこと(詐害行為)』。……あなたは会社が債務不履行に陥る直前、個人名義の有価証券や高級時計コレクションを、親族名義のダミー口座や別宅へと不正に移転させ、差し押さえを免れようと画策しました。……これらは明白なる詐害行為、ならびに財産隠匿罪に該当します」
「ち、違うんです……!」
貴之はすがるように顔を跳ね上げた。充血した両目から、ポロポロと涙を溢れさせながら、掠れ声を絞り出す。
「裁判長! あれは……あれは全部、江藤瑠璃華に唆されたんです! 俺は騙されていたんです! 彼女が『節税のために資産を移しましょう』と言ったからで……俺には悪意なんてありませんでした! どうか……どうか借金をチャラにしてください! 免責を認めてください!! 三億五千万円なんて借金、俺一人じゃ一生かかっても返せません!!」
見苦しい懇願。
自己破産の手続きを使って、自らが散財した負債を踏み倒し、責任から逃げおおせようとする浅ましい悪あがき。
だが――
その見苦しい叫びを、長机の向かいに座る真鍋苑子が、冷ややかに切り捨てた。
「お黙りなさい、鳴神前社長」
苑子の低く研ぎ澄まされた声が、審問室の空気をピシリと凍りつかせた。
苑子は鞄から、警視庁捜査二課が押収した江藤瑠璃華の供述調書、ならびに貴之が署名捺印した個人連帯保証書の原本の写しを取り出すと、机の上へと音を立てて置いた。
「あなたがベーカー&スターンズとの間で締結したメザニンローン契約。その付属書類として差し入れられた三億五千万円の個人連帯保証債務は、あなたが自らの虚栄心を満たし、取締役会の承認を回避するために、完全な自己責任において引き受けたものです。……愛人に唆されたなどという言い訳は、民事上も破産法上も、一ミリの抗弁にもなりません」
苑子のプラチナの眼鏡の奥から、冷徹な法理の光が貴之を射抜く。
「破産法は、誠実な債務者に経済的再生の機会を与えるための法制度よ。……自らの放漫経営で会社を破滅させ、現場の社員を脅迫し、愛人と豪遊して資産を隠匿したような破廉恥な背任者に、借金を帳消しにしてやる慈悲など、この国の法秩序には存在しないわ」
「ひっ……!」
貴之の肩が、激しく跳ね上がった。
裁判官は深く頷くと、ファイルを厳かに閉じた。
そして、貴之の顔を正面から見据え、裁判所の最終決定主文を宣告した。
「――主文。破産者・鳴神貴之に対する免責は、破産法第二百五十二条第一項各号の事由に該当するため、【不許可】とする」
カチリ。
冷たい法の鉄槌が、容赦なく下された。
免責不許可。
借金は、一円たりとも帳消しにはならなかった。
ベーカー&スターンズへの求償債務、大東京フィナンシャルグループをはじめとする銀行団からの個人保証請求、合計【三億五千万円】の債務が、非免責債権として、生涯にわたり貴之の背中に確定したのだ。
「あ……ああ……あぁぁぁ……っ!!」
貴之の口から、魂を抜き取られたような絶望の悲鳴が漏れた。
続いて、管財人弁護士が立ち上がり、無慈悲な執行通告を読み上げた。
「これより、破産財団による全換価手続きを執行します。……六本木のタワーマンションは本日正午をもって強制退去。室内にある家具、衣服、私物はすべて差し押さえ競売へ回します。あなたの保有していた外車ポルシェ、パテック・フィリップをはじめとする高級腕時計七点、銀行預金口座の全残高は、すべて没収の上、債権者への配当に充当されます」
管財人は、貴之の前に、薄っぺらな茶封筒を一つだけ差し出した。
「差し押さえが禁止されている生活必需品、ならびに当面の当座資金として認められた現金――金九千円です。……これを持って、直ちに退去してください」
「き、九千円……!? 俺の全財産が……九千円……!?」
貴之は震える手で茶封筒を掴み、その場に崩れ落ちた。
数億円の役員報酬を誇り、億ションに住み、高級外車を乗り回していた御曹司が、わずか一ヶ月で、着の身着のままと九千円の小銭だけを残して、社会の最底辺へと叩き落とされたのだ。
「……行きなさい、鳴神さん」
真鍋苑子は立ち上がり、冷淡に見下ろした。
「市場を舐め、他人の尊厳を蔑ろにした代償を……これからのあなたの人生のすべてを使って、せいぜい支払い続けることね」
雨の霞が関の街路へ、貴之は傘もなく放り出された。
かつて雨の夜に佳乃を追い出した男が、今、手元に九千円だけを握りしめ、泥水の中に立ち尽くしていた。
◇
一方――
貴之とともに甘い蜜を吸い、会社の心臓部をシュレッダーに放り込んだ愛人・江藤瑠璃華にも、寸分の狂いもない因果応報の結末が訪れていた。
東京地裁民事第二十六部。
新生ナルカミ・グローバルが提訴していた『業務上横領、ならびに共同不法行為に基づく損害賠償請求訴訟』の第一審判決公判。
結果は――原告側の【全面勝訴】だった。
法廷音声、千夏が保全したメールログ、経理伝票の不正改ざんデータにより、瑠璃華が貴之と共謀して会社の資金五千万円を不正に領得した事実が完全に認定され、裁判所は瑠璃華に対し、元利金および遅延損害金を含む【金五千二百四十万円】の全額即時支払いを命じる判決を言い渡したのだ。
その判決が確定した、数日後の夜。
港区六本木の高級タワーマンション、四十二階のペントハウス。
瑠璃華が逃げ込んでいた、新たなパトロンであるITベンチャー企業会長の部屋の前で、けたたましい怒声が響き渡っていた。
「出ていけッ!! この疫病神が!!」
ドサッ!!
重厚な玄関ドアから、瑠璃華の身体が無様に廊下のカーペットへと突き飛ばされた。
続いて、彼女の私物であるルイ・ヴィトンのバッグや化粧ポーチが、ゴミのように放り出される。
「きゃっ……! い、痛い! ちょっと、何するのよ翔太さん!!」
瑠璃華は擦りむいた肘を押さえ、廊下で叫んだ。
だが、部屋の主である若いIT社長は、青ざめた顔でスマートフォンを握りしめ、瑠璃華を汚物のように睨みつけていた。
「何するのよ、じゃないだろ!! さっきウチの会社の顧問弁護士から電話があったんだぞ! お前に対する五千万円の判決確定に基づいて、タカツカサの真鍋苑子弁護団が、お前の居場所を突き止めて『動産執行(家宅捜索と差し押さえ)』の申し立てをしてきたんだ!!」
「え……!? さ、差し押さえ……!?」
「当たり前だろ!! お前をこの部屋に匿っていたせいで、ウチの会社まで共犯扱いされて上場審査がパーになるところだったんだぞ!! 前科者になりそうな横領女なんて、一秒でも置いておけるか!!」
「ま、待ってよ翔太さん! 手切れ金は!? せめて今月の生活費くらいちょうだいよ! 私、口座も全部凍結されちゃって、一円も持ってないのよ!?」
瑠璃華が必死でドアにすがりつこうとした。
だが、IT社長は冷酷に言い放った。
「手切れ金? ふざけるな! お前に奢った飯代とタワマンの家賃を返してほしいくらいだ!! 二度と俺の前にツラを見せるな!!」
バタンッッ!!
重厚な防音ドアが乱暴に閉ざされ、オートロックの施錠音が無慈悲に響いた。
静まり返る高級タワマンの内廊下。
瑠璃華は床に座り込み、ガタガタと震え出した。
手元のスマートフォンを開いても、口座の残高はすべて裁判所の仮差押えによってゼロ。
かつて貴之に買わせたシャネルのバッグやハリー・ウィンストンのジュエリーは、警察の捜査で証拠品としてすべて没収済み。
美容整形と高級エステで維持していた美貌も、連日の取り調べと怯えのせいで肌は荒れ果て、目の下には消えない隈が刻まれていた。
友達も、パトロンも、モデル仲間のフォロワーも、彼女が「五千万円の横領犯」として報道された瞬間、全員が音信不通となり、SNSのアカウントは誹謗中傷で炎上して閉鎖に追い込まれていた。
数ヶ月後――
瑠璃華の姿は、華やかな港区の夜の社交界から、完全に消え去っていた。
埼玉県内の国道沿い、古びた雑居ビルの地下にある場末のスナック。
紫色の安っぽい照明の下、煙草の煙が立ち込めるカウンターの奥で、濃すぎるファンデーションで荒れた肌を隠した瑠璃華が、ビールジョッキを抱えて油染みたカウンターを拭いていた。
時折、酔っ払った下品な客から卑猥な言葉を投げかけられ、無理やり作られた引き攣った笑顔でお酌をする。
時給千二百円。
日銭を稼いでも、その大半は給与差し押さえの法的手続きによって天引きされ、手元に残るのは日々のカップ麺をすするだけの小銭。
店の裏口のドアがガタッと鳴るたびに、瑠璃華は「借金取りが来たんじゃないか」「警察が来たんじゃないか」と怯え、青ざめて身体を縮こまらせる。
かつて鳴神物産の社長秘書室で、佳乃が残した手帳を「昭和の紙ゴミ」と嘲笑い、シュレッダーのスイッチを押して誇らしげに笑っていた女の末路は、一生消えない借金と前科の影に怯え続ける、出口のない泥沼の転落だった。
◇
そして――
午前二時十五分。
神奈川県川崎市、東京湾臨海部の埋立地に広がる、巨大な工業地帯。
海からの湿った潮風が冷たい夜気となって吹き抜ける中、巨大なコンクリートの要塞のような大型物流拠点が沈黙していた。
その地下に位置する――【マイナス二十五度】の超低温・大型冷凍倉庫。
ブォォォォォォン……ッ!
巨大な冷凍コンプレッサーの重低音が、絶え間なく耳鳴りのように頭蓋骨を揺らしていた。
天井からは冷気が白い霧となって吹き出し、壁や鉄骨の柱には、びっしりと鋭い氷の霜が張り付いている。
吐き出す息は一瞬で白く凍りつき、睫毛や眉毛の先が白く霜で覆われる、極寒の閉鎖空間。
防寒着を着込んでいても、わずか数分で手足の感覚が麻痺し、骨の芯まで凍りつくような過酷極まりない現場。
その冷凍庫の最奥で、荒い息を吐きながら、必死に身体を動かしている男がいた。
「ぜぇ……っ、はぁ……っ、う……っ!」
鳴神貴之だった。
自己破産で免責を不許可にされ、住む家を失った貴之が、日雇いの派遣会社を通じてようやくありついた、深夜の冷凍倉庫のピッキング作業。
薄汚れた支給品の青い防寒ツナギを着ているが、寒さを防ぐにはあまりにも頼りない。
手袋をしているはずの両手の指先は、氷のように冷え切り、感覚を失って赤黒く腫れ上がっていた。ひび割れた皮膚から血が滲み出し、布地に凍りついている。
ドサッ!
貴之の前に置かれていたのは、一箱二十五キログラムを超える、海外から輸入された冷凍魚介類がぎっしりと詰まった巨大なダンボール箱の山だった。
カチカチに凍りついたダンボールの表面は冷たく、滑り、持ち上げるだけで指の骨が軋む。
「ぐ……ぬううっ……!」
貴之は腰を落とし、両腕でダンボールを抱え上げようとした。
だが、かつて社長室の革張りソファでふんぞり返り、重い書類すら千夏たちに運ばせていた男の衰弱した肉体に、二十五キロの塊を持ち上げる筋力など残っていなかった。
ピキッ――!
「ぎゃっ……!?」
腰の奥で、鋭い激痛が走った。
ぎっくり腰。
激痛に耐えかね、貴之は抱え上げたダンボールを取り落とした。
ドガァァァンッ!!
重いダンボールが床に激突し、中の冷凍カツオの塊が、白い霜を撒き散らしながらコンクリートの床へと散乱した。
貴之は腰を押さえ、冷たい床の上へと無様に崩れ落ちた。
マイナス二十五度のコンクリートの冷気が、ツナギ越しに直接骨へと沁み込んでくる。
痛い。寒い。苦しい。
指先がちぎれそうだ。腰が砕けそうだ。
「う……うぅ……誰か……助けてくれ……誰か……」
貴之が床に突っ伏し、涙を流して呻いた、その時だった。
キュルルルルッ!
荒々しいタイヤのスキール音とともに、荷役用の電動フォークリフトが、貴之の目の前で急停止した。
運転席から飛び降りてきたのは、ヘルメットをかぶった現場の若い作業主任だった。
歳は二十代半ば。かつて貴之であれば「底辺の労働者」と見下して鼻先で笑っていたであろう、現場叩き上げの屈強な青年。
主任は床に散らばった魚介類と、倒れ込む貴之を一瞥するなり、怒りの形相で安全靴の爪先をコンクリートに叩きつけた。
「――おいッ!! 鳴神ッッ!!」
冷凍庫の轟音を切り裂くような、凄まじい怒声が頭上から降ってきた。
「何サボってんだ、テメエッ!! 商品を床にぶちまけてんじゃねえぞ!! 今夜の出荷枠が何時だか分かってんのか!!」
「ひっ……! し、主任……すいません……腰が……腰が痛くて、動けなくて……」
貴之は這いつくばったまま、涙声で慈悲を乞うた。
だが――
若い主任の目には、同情の色など微塵も浮かんでいなかった。
主任は手元のバインダーで貴之のヘルメットを小突き、氷のように冷徹な声で、吐き捨てるように怒鳴りつけたのだ。
「腰が痛ぇ!? 知るかよ、そんなこと!! 現場の連中はみんな、腰にコルセット巻いて歯ァ食いしばって荷物運んでんだよ!! 手を止めるな!! 今すぐ拾ってパレットに積み直せ!!」
そして――
主任の口から、無慈悲な最後の一言が叩きつけられた。
「おい鳴神! 勘違いすんなよ!! お前みたいな使えない無能のおっさん……【代わりなど、いくらでもいるんだぞ】ッッ!!!!」
ドクンッッ!!!!
貴之の心臓が、激しく跳ね上がった。
全身の血が、一瞬にして逆流したかのような衝撃。
(代わりなど……いくらでもいる……?)
頭蓋骨の内側で、鐘の音が狂ったように乱打されていた。
あの日。
先代が亡くなった雨の夜、会長秘書室で、七年間尽くしてくれた佳乃に向かって、自分が勝ち誇った笑みを浮かべて放った、あの言葉。
『お前程度の代わりなど、いくらでもいるんだよ』。
そして、株主総会の壇上。
至高の光を纏った佳乃が、見下ろしながら自分に返した、あの宣告。
『どうぞ、ご自身の代わりを、どこかでお探しください』。
言葉の呪い。
自分が他人を傷つけ、他人の尊厳をゴミのように踏みにじるために吐き出した、あの傲慢極まりない刃。
それが今――マイナス二十五度の極寒の底辺倉庫で、自分自身が浴びせられる言葉となって、寸分違わぬ形で心臓を貫いていたのだ。
「あ……あぁ……」
代わりなど、いくらでもいる。
そうだ。
名門商社の看板を失い、親の遺産を失い、愛人を失い、三億五千万円の借金を背負った自分には、何の価値もなかった。
自分こそが――誰にでも代替可能な、いや、現場の誰よりも役に立たない、ただの無価値な歯車、ただの廃棄物だったのだ。
「おい、聞いてんのか鳴神!! 早く動け!!」
主任の怒声が遠くに聞こえる。
「う……うわあああああああっっっっ!!!!」
貴之は冷たいコンクリートの床に額を擦り付け、凍りついた氷の上に顔を突っ伏して慟哭した。
大粒の涙が溢れ出た瞬間、極寒の冷気によって頬の上でカチカチに凍りついていく。
腰の激痛に耐えながら、凍える手で散らばった冷凍魚を一つずつ拾い集める。
冷たい。痛い。惨めだ。
だが、どれほど泣いても、どれほど叫んでも、助けてくれる父親はもういない。かつてのように黙って背後から支えてくれる万能秘書も、もう二度と戻ってこない。
一生涯、この極寒の暗闇の中で、自らが犯した罪の重さに潰されながら、誰からも顧みられることなく生きていく。
完全なる因果応報の地獄。
すべてを失った男の慟哭だけが、冷凍倉庫の轟音の中へと、虚しく吸い込まれて消えていった。
◇
同じ夜。
東京の空には、冬の訪れを告げる澄み切った満天の星空が広がっていた。
地上二百メートル、赤坂のタカツカサ・キャピタル本社タワー、そして銀座の新生ナルカミ・グローバル本社ビルには、希望に満ちた温かな明かりが灯り続けている。
悪辣なる者たちは、自らの業によって完全に自滅した。
現場の誠実な人間たちは、正当な対価と誇りを取り戻した。
戦いは、すべて終わったのだ。




