第53話:正当な労働の対価
午前九時零分。
東京都中央区銀座、新生『株式会社ナルカミ・グローバル』本社ビル八階。
かつて鳴神物産の時代、何百台もの事務机が無機質に並び、上司の怒号と理不尽な業務命令に怯える社員たちのキーボードの音だけが乾いて響いていた中央大執務フロアには、窓一面から差し込む柔らかな秋の陽光とともに、これまでこの場所には存在し得なかった、張り詰めた、だが瑞々しい期待の熱気が満ち溢れていた。
フロアの中央、四本の巨大な構造柱に囲まれたセンタースペースに、本社の内勤社員、総務、経理、法務、受発注管理、貿易管理、そして営業推進のバックオフィス部隊――総勢三百名を超える社員たちが、息を呑んで半円を描くように集結していた。
フロアの壁際に並ぶ大型モニターには、全国の主要支社や、ナルカミ・ロジスティクスの東京湾岸・横浜・神戸・門司の各物流センターの現場事務所がオンラインで接続され、作業服姿の倉庫管理者やドライバーたちの顔がリアルタイムで映し出されている。
ザッ、ザッ、ザッ。
通路の奥から、硬質なヒールの足音が、静まり返るフロアに凛と響き渡った。
社員たちが一斉に左右へと道を開ける。
歩み出てきたのは、ミッドナイトネイビーの仕立ての良いパンツスーツを隙なく着こなした、新代表取締役最高執行責任者(COO)――槇野佳乃だった。
首筋をすっきりと見せる前下がりの黒髪ボブ。野暮ったい銀縁眼鏡を外したその素顔には、数千億円の巨大組織を動かすトップとしての研ぎ澄まされた理知と、現場で生きる人々への深い慈愛が同居していた。
胸ポケットには、あのロイヤルサファイアブルーの特注万年筆が、スポットライトのような朝の光を浴びて神聖に瞬いている。
佳乃の半歩後ろには、新会社の取締役副社長兼営業総括補佐に就任した安西源三郎が、皺の刻まれた顔に歴戦の重厚な笑みを浮かべて従っていた。
そして、その傍らには、真新しいネイビーのスーツに身を包み、緊張した面持ちで辞令ファイルのホルダーを両手で抱える瀬尾千夏の姿があった。
佳乃はセンタースペースの中央、ホワイトボードの前に設えられたマイクスタンドの前に立った。
三百名の視線が、そして全国のモニターの向こうにいる何千人もの社員たちの視線が、一斉にこの若き女性リーダーへと注がれる。
佳乃は両手を身体の前で美しく重ねると、背筋を寸分の狂いもなく伸ばし、深々と、優美な一礼を捧げた。
「――社員の皆様、おはようございます。代表取締役最高執行責任者(COO)の槇野佳乃です」
鈴を転がすように清冽でありながら、フロアの隅々、そして全国のスピーカーの奥深くにまで寸分の狂いもなく染み渡っていく澄んだ声。
「先日の臨時株主総会、ならびに新体制発足から数日。……皆様には、前体制が遺した数々の混乱の収拾、契約の再確認、そして何より、傷つけられた組織の傷跡を癒やすために、昼夜を分かたぬ多大なご尽力をいただいておりますこと、心より深く感謝申し上げます」
佳乃は視線を上げ、フロアに集まった社員たち一人ひとりの顔を、慈しむように見つめ渡した。
目の下に濃い隈を作っている総務の女性社員。
受発注のトラブルで連日頭を下げ続けてきた営業事務の中堅社員。
かつて貴之が「お茶汲みと雑務しかできない歯車」「代わりなどいくらでもいる」と蔑み、その尊厳を踏みにじってきた、名もなき現場の守護者たち。
「私が本日、皆様にお集まりいただいたのは、形式的な訓示を述べるためではありません」
佳乃の声が、わずかに熱を帯びて引き締まる。
「私がCOOとして就任し、最初に着手した――そして、これからの新生ナルカミ・グローバルにおける最大の屋台骨となる【人事評価制度の全面大改革】について、経営陣の覚悟を直接お伝えするためでございます」
――人事評価制度の全面大改革。
その言葉に、フロアのあちこちから、微かなざわめきが走った。
商社における人事評価制度といえば、これまでは「どれだけ大きな売上数字を作ったか」「どれだけ派手な案件を受注したか」という営業至上主義が絶対の掟だった。
売上高を稼ぎ出した一部の花形営業マンだけが巨額のインセンティブと昇進を手にし、その裏で契約書の不備を洗い、納期遅延を防ぎ、取引先の機微に気を配ってトラブルを未然に防ぎ続けてきたバックオフィスや現場のアシスタントたちは、「直接利益を生み出さないコストセンター」「誰にでも代替可能な事務職」として、最低ランクの評価と据え置きの低賃金に甘んじさせられてきたのだ。
佳乃はホワイトボードへと向直ると、手元のタッチペンで大型電子スクリーンを起動させた。
青い光とともに、新制度の全体フレームワークが鮮明に投影される。
最上段に刻まれていたのは、黄金の文字で記された新たな評価指標の名称だった。
『バリュー・コントリビューション評価(Value Contribution Index:VCI制度)』
「社員の皆様」
佳乃は再びフロアを向き直り、静かに、だが鋼のように揺るぎない声で宣言した。
「本日をもって、旧鳴神物産が七十年にわたり墨守してきた『売上高至上主義による偏重評価』を、完全に撤廃いたします」
「っ……!」
フロアのあちこちで、息を呑む音が聞こえた。
「従来の評価制度において、評価の対象とされていたのは、契約書に印字された売上金額や利益率といった【目に見える数字】だけでした。……しかし、その数字を成立させるために、どれほどの見えない実務が積み重ねられてきたか。経営陣はその本質から、長年目を背け続けてまいりました」
佳乃の切れ長の瞳に、自らが七年間、会長秘書室の暗がりの中で噛み締めてきた苦難の記憶が、静かに去来する。
「契約書に潜む微細なリスク条項を事前に発見し、将来の巨額の違約金を未然に防ぐこと。……取引先トップの持病やご家族の事情、慶弔の機微をミリ単位で把握し、致命的な関係破綻を水面下で回避すること。……他部署の業務停滞をいち早く察知し、自らの手柄にすることなく、円滑な社内調整(根回し)を行って組織の血流を保つこと。……そして、正確無比な議事録や顧客カルテを作成し、会社の無形資産として後進に引き継ぐこと」
佳乃は胸に手を当て、自らの魂の底からの言葉を紡ぎ出した。
「これらはすべて、何百億円もの売上を支えるための、極めて高度で専門的な【知性とリスク管理】でございます。決して『誰にでもできる雑用』などではありません。……にもかかわらず、これまでの企業社会は、そうした高度な感情労働、危機管理、社内調整を『やって当たり前の見えない雑務』として無償で搾取し、評価シートから完全に排除してまいりました」
フロアにいた女性社員たちの目から、ハラハラと涙が零れ落ち始めた。
そうだった。
定時後に残って取引先の贈答品の手配をし、営業マンが放り出した書類の誤字脱字を深夜まで修正し、他部署とのいがみ合いを笑顔で仲裁し、組織の防波堤として身を削り続けてきた。
それなのに、返ってきた言葉は「お前たちは売上を作っていない」「言われたことだけやっていればいい」という冷淡な侮蔑だけだったのだ。
「その歪んだ搾取の結果が、何をもたらしたのか」
佳乃はスクリーンを切り替えた。
画面には、新制度の具体的な四つの定性評価項目が大写しにされた。
【第1領域:プロアクティブ・リスクヘッジ(未然防止力)】
契約トラブル、納期遅延、労務違反の予兆を早期に察知し、未然に防いだ実績を数値化して加点。
【第2領域:オーガニゼーショナル・シナジー(連携支援力)】
他部署の困難を能動的にアシストし、組織全体の摩擦を低減させた貢献度を、支援を受けた側の定性評価によって加点。
【第3領域:インフォメーション・アセット・ビルディング(情報資産保全)】
顧客カルテ、業務マニュアル、正確な議事録の作成など、組織の持続可能性を高める知の蓄積を正当に評価。
【第4領域:サイコロジカル・セーフティ・サポート(環境改善力)】
若手や後輩のメンタルヘルスを支え、ハラスメントのない健全な職場環境を維持した貢献度を評価。
「新設される『バリュー・コントリビューション評価』におきましては、これら四つの領域における【見えないファインプレー】を、定性評価として正式に人事考課の五十%に組み込みます」
佳乃の涼やかな声が、奇跡のような改革を告げていく。
「評価の手法としては、上司による一方的な査定ではなく、共に働く同僚、後輩、そして支援を受けた他部署のメンバーによる【多面観察(三六〇度フィードバック)】を導入いたします。……数字を作っただけで周囲を踏みにじる人間は厳しく減点され、泥臭い調整と献身で組織を支えた人間が、最も高く評価されるシステムです」
さらに、佳乃はスライドを進めた。
そこに投影されたのは、全社員の生活に直接関わる、圧倒的な処遇改善の数字だった。
【全社員一律の基本給ベースアップ】:【5・5%】(※来月度給与より即時適用)
【バックオフィス・現場アシスタント職の基本給体系の刷新】:
営業職との賃金格差を是正し、平均【18・2%】のベース昇給を断行。
【不当時間外手当の完全遡及支給】:
前体制下においてサービス残業を強いられていた過去二年分の未払い賃金を、法定利息を付加して全額一括支給。
「おおおおおおっ……!?」
「ベースアップ五・五%……!? バックオフィスは十八%昇給!?」
「過去のサービス残業代が、全額戻ってくるのか……!?」
フロアが、文字通り地鳴りのような驚愕と歓喜で揺れ上がった。
オンラインで繋がっていた全国の物流センターのモニターからも、作業着姿のドライバーたちが帽子を脱ぎ、抱き合って快哉を叫ぶ姿が映し出されている。
その熱狂の中、壇上のマイクスタンドへと、副社長の安西源三郎が重厚な足取りで歩み寄った。
安西はマイクを握ると、フロアの社員たち、特に営業部門の社員たちへ向けて、肚の底からの野太い声を響かせた。
「営業の諸君! そして現場の諸君!」
安西の眼光が、厳父のようにフロアを包み込む。
「これまで営業部門の人間は、自分たちの力だけで会社を回していると傲慢に思い上がっていた! だが……先日の破滅の危機を思い出してみろ! 槇野君が残してくれた引き継ぎ手帳が消えた途端、我々営業はどうなった!? 港湾倉庫は止まり、外為法に引っかかり、取引先からは怒号を浴びせられ、何一つ動けなくなったではないか!!」
安西は自らの胸板をドカンと叩いた。
「俺たち営業が、大空を飛ぶ鳥のように自由に外で戦えるのは……その後ろで、巣を守り、羽を整え、泥水のような事務処理と根回しを一手に引き受けてくれるバックオフィスの仲間たちがいてくれるからだ! 後ろを守ってくれる人間をリスペクトできない営業マンなど、プロのビジネスマンではない! ただの野蛮人だ!!」
叩き上げの営業トップ自らが放った、魂の演説。
営業フロアの男性社員たちが、神妙に背筋を伸ばし、深く、深く頷きを返していた。
互いを搾取し合う冷酷な組織は、今、完全に互いを敬い、支え合う真のチームへと生まれ変わったのだ。
「……自分たちのやってきたことは、無駄じゃなかったんだ……」
「この会社で……この会社で、ずっと働きたい……!」
フロアのあちこちで、社員たちが涙を拭い合い、手を取り合っていた。
これまでの苦節と理不尽が、最高峰の経営陣の手によって、完璧に、正当に報われた瞬間だった。
歓声と拍手が静まるのを見届け、佳乃は再びマイクの前に進み出た。
その表情は、先ほどまでの冷徹な経営者の顔から、一人の敬愛する後輩を見つめる、限りなく優しく誇らしげな先輩の顔へと変わっていた。
「……さて。本日、人事評価制度の改革とあわせまして、一人の極めて卓越した功績を挙げられた社員に対し、特別な人事発令を行います」
佳乃は視線を横へと向けた。
「――瀬尾千夏さん。前へ」
「っ……!」
辞令ホルダーを抱えて控えていた瀬尾千夏が、息を呑んで顔を跳ね上げた。
千夏は震える足取りで、佳乃の前、マイクスタンドの正面へと進み出た。
フロア中の三百名の視線が、一斉にこの若い女性社員へと注がれる。
佳乃はホルダーから、真新しい金箔押しの辞令書を取り出した。
そして、千夏の潤んだ瞳を真っ直ぐに見据え、フロア全体に通る澄んだ声で読み上げた。
「――辞令。瀬尾千夏。
本日付をもって、株式会社ナルカミ・グローバル【グループ統合秘書室 チーフマネージャー(室長代理)】を命ずる。
あわせて、役職手当の付与、ならびに前職の二・五倍に相当するエグゼクティブ報酬テーブルを適用する」
「チ……チーフマネージャー……!?」
千夏の喉から、かすれた悲鳴のような声が漏れた。
入社三年目、わずか二十三歳のアシスタントが、全社組織の中枢である「統合秘書室」のトップに抜擢されたのだ。
佳乃は辞令書を両手で丁寧に差し出しながら、千夏にしか聞こえない、温かく、だが揺るぎない声で語りかけた。
「千夏さん。……あなたが鳴神物産のあの泥沼の中で、連日の違法残業と怒号に耐えながら、命懸けで保全してくれた社内ログ、メールのタイムスタンプ、そして録音データ……。あれらがなければ、昨日の株主総会における完全な勝利も、神崎氏の排除も、成し遂げることはできませんでした」
佳乃の切れ長の瞳が、慈愛に満ちて細められる。
「恐怖に怯えながらも、正義を信じ、真実を守り抜いたあなたの誠実さと勇気こそが……この会社を救い出したのです。……あなたは、誰の代わりでもありません。新生ナルカミ・グローバルにとって、かけがえのない宝物です」
佳乃は千夏の手を取り、辞令書をその掌へとしっかりと握らせた。
「これからは……あなたが、新しい秘書室のリーダーとして、現場で働くすべてのアシスタントたちの手本となり、彼女たちを温かく導いてあげてください。……あなたになら、それができます」
「佳乃……さん……っ!」
千夏の大きな瞳から、大粒の涙が、堰を切ったようにボロボロと溢れ落ちた。
深夜のオフィスで過呼吸を起こし、床に倒れ込んで「息ができません」とスマホに縋り付いていたあの日。
貴之から「お前みたいな使えない無能はクビだ」「土下座してこい」と灰皿を投げつけられ、尊厳をズタズタに引き裂かれていたあの日。
そのすべての地獄を乗り越え、今、自分は憧れてやまない先輩の手から、最高峰の栄誉と信頼を託されている。
「はい……っ! はい……っっ!!」
千夏は辞令書を両手で抱きしめ、子供のようにしゃくりあげながら、深々と、直角に腰を折って叫んだ。
「佳乃さんの背中を追いかけてきて……本当によかったです……!! 私、一生……一生、佳乃さんと、この会社のために、命を懸けて働きます……!!」
千夏の魂の叫び。
その瞬間、大執務フロア全体から、割れんばかりの万雷の拍手と歓声が爆発した。
「千夏ちゃん、おめでとう!!」
「よく頑張った! あんたが一番偉いよ!!」
「統合秘書室長、頼むぞおおっ!!」
同僚の女性社員たちが涙を拭いながら拍手を送り、全国のモニターの向こうからも、作業服の男たちが画面に向かって親指を突き立てている。
理不尽に搾取され、踏みにじられていた誠実な者が、自らの知性と勇気によって最高の栄冠を掴み取る。
働くすべての人間が心から渇望していた「正義のカタルシス」が、今、この銀座の空の下で、完璧に完結した瞬間だった。
鳴り止まない拍手の中、佳乃は千夏の肩をそっと優しく抱き寄せた。
窓の外を見上げれば、秋の青空がどこまでも高く、澄み渡っている。
現場の傷は塞がれ、誇りは取り戻され、新しい城の歯車は、力強い生命の音を立てて回り始めていた。
だが――
光が強くなればなるほど、その足元に穿たれた闇は、より一層深く、無慈悲に口を開ける。
現場の人間たちが正当な報いと栄光を手にしたその裏で――
かつて彼らを虫けらのように踏みにじり、自らの虚栄心のために城を売り渡そうとした者たちには、冷徹無比なる法の鉄槌が、今まさに容赦なく振り下ろされようとしていた。




