第56話:不器用な告白
リビングの重厚なペアガラスのスライドドアを押し開けると、高原特有の鋭利なまでに研ぎ澄まされた冷気が、火照った佳乃の頬を心地よく撫でた。
木製のウッドデッキに一歩踏み出した瞬間、シン、と静まり返った夜の帳が、外界のあらゆる雑音を完全に吸い取っていた。
暖炉の爆ぜる音も、室内の微かな足音すらも遠のき、耳朶に届くのは、原生林の梢をかすかに揺らす秋風の囁きと、どこか遠い小川のせせらぎの音だけだった。
「…………っ」
佳乃は思わず、ウッドテラスの端に据えられた木製の手すりに両手を添え、夜空を見上げたまま息を呑んだ。
都会の夜空とは、完全に別世界だった。
視界を遮る高層ビルも、ネオンサインの乱反射も、排気ガスの霞も存在しない、標高一千メートルの澄み切った大気。
漆黒のベルベットを広げたような天空には、まるで銀砂を撒き散らしたかのような幾千、幾万もの星々が、息を呑むほどの鮮烈さで瞬いていた。
視界の端から端までを斜めに横切る、淡く青白い光の帯――天の川が、まるで神話の川のようにくっきりとその姿を夜空に刻んでいる。
冷涼な空気を胸いっぱいに吸い込むと、肺の奥底まで澄み渡り、先ほどいただいた極上のポトフと赤ワインの温もりが、身体の内側からじわりと温かな熱となって広がっていくのを感じた。
――こんな星空を見るのは、一体何年ぶりだろう。
鳴神物産に身を置いていた七年間。
佳乃の視界にあったのは、常に深夜のオフィスを照らす蛍光灯の青白い光と、無数に並ぶパソコンのディスプレイ、そして膨大な契約書類の活字だけだった。
終電を逃し、タクシーの車窓から見上げる東京の空は、いつだって濁った鉛色に淀んでいた。
星を見上げる心の余裕など、一秒たりとも持ち合わせていなかった。
いつ電話が鳴るか、いつ取引先のトラブルが勃発するか、いつ社長室から理不尽な怒号が飛んでくるか――常に神経を限界まで研ぎ澄まし、他人の機嫌と組織の綻びだけに意識を縛り付けていたあの日々。
吐き出した息が、白く淡い霧となって夜の闇に溶けていく。
冷気がニットの袖口から忍び込み、佳乃の華奢な肩が、かすかに寒さで震えた――その刹那だった。
ふわり、と。
羽毛のように軽やかで、だが驚くほど濃厚な熱を孕んだ重みが、佳乃の肩の上へと優しく掛けられた。
「っ……」
驚いて振り返りかけた佳乃の視界を、深く上質なスコティッシュ・カシミアの極厚ブランケットが包み込んだ。
背中から首筋にかけて、一瞬にして寒気が遮断され、代わりに立ち上ってきたのは――あの日と同じ、高級な白檀と深煎り珈琲、そしてこの男自身の清潔で力強い体温の匂いだった。
「寒風に当たりすぎて、また熱でも出されたら困るからな」
低く、滑らかなバリトンボイス。
アイボリーのタートルネックニットを着た鷹司誠一郎が、いつの間にか佳乃のすぐ隣に並び立っていた。
誠一郎の両手には、湯気を立ち上らせる二つの厚手の陶器製マグカップが握られていた。
シナモンとグローブ、柑橘の皮の甘くスパイシーな香りが、澄んだ夜気に溶け合って漂ってくる。
「……鷹司様。温かいお飲み物まで……恐れ入ります」
「ホットワインだ。君のために少し蜂蜜を多めに入れて、アルコール分を飛ばしてある。……手を取れ。指先が冷えているぞ」
誠一郎から差し出されたマグカップを両手で受け取ると、陶器の温もりが冷え切っていた佳乃の指先にじんわりと染み渡った。
佳乃は両手でカップを包み込み、そっと口をつけた。
芳醇な赤ワインの渋みに、スパイスの爽快感と蜂蜜の優しい甘みが溶け合い、一口飲んだだけで喉から胃の腑へと温かな熱が広がっていく。
「……とても、温まります」
「そうか」
誠一郎も自らのカップを口に運び、一口含むと、手すりに肘をついて夜空へと視線を投げた。
二人の距離は、わずか数十センチメートル。
肩が触れ合いそうなほど近くに立ちながら、二人はしばらくの間、言葉を交わすことなく、満天の星々を見上げていた。
沈黙が、重苦しくない。
むしろ、言葉を必要としないほどの絶対的な安らぎが、二人の間を穏やかに満たしていた。
暖炉の火の温もりが残るテラスで、星々の瞬きを見つめながら、誠一郎がポツリと口を開いた。
その声音は、普段の市場を震撼させる冷徹な覇者のものとはまるで異なる、どこか遠い過去を悼むような、不器用で静かな響きを湛えていた。
「……私は、子どもの頃から……人間というものが、心底から怖かった」
「え……?」
佳乃は驚いて横顔を見上げた。
夜空の星屑の青白い光を浴びる、彫刻のように端正な誠一郎の横顔。
切れ長の瞳は、天の川の彼方を見つめ、伏せられた長い睫毛が、微かに影を落としていた。
「鷹司の家に生まれた瞬間から、私の周囲にいた人間は、誰も私自身を見てはいなかった」
誠一郎の指先が、マグカップの縁をゆっくりとなぞる。
「物心ついた時から、親戚も、教師も、寄ってくる友人たちも……全員が私の背後にある『鷹司グループの巨額の資産』と『名門の看板』しか見ていなかった。私に取り入って甘い汁を吸おうとする者か、あるいは私が失脚するのを虎視眈々と狙って足を引っ張ろうとする敵か……そのどちらかしか存在しなかったのだ」
誠一郎の唇に、自嘲めいた微かな笑みが刻まれる。
「父は厳格な事業家だったが、私に教えたのは唯一つ――『誰も信じるな。数字と契約書だけを信じろ。弱みを見せた瞬間、ハイエナどもにお前の骨まで食い尽くされるぞ』ということだけだった。……十代で英国のボーディングスクールへ送られ、ウォール街とシティの修羅場に身を投じてからも、私の周囲は敵と裏切り者ばかりだった」
誠一郎の胸の内から、初めて吐露される深い孤独の傷痕。
市場から「氷のハゲタカ」「冷徹無比の死神」と恐れられ、何千億円もの資本取引を眉一つ動かさずに冷酷に裁いてきた男。
だが、その氷の仮面の下にあったのは、誰よりも人間を愛することを渇望しながら、同時に誰よりも人間を信用することに怯え、自らを分厚い理性の鎧で閉ざすしかなかった、孤独な魂の叫びだったのだ。
「父が急逝し、私がタカツカサの全責任を背負わされた二十六歳の時……世界は文字通りの地獄だった。古参の役員たちは若造の私を引きずり下ろそうと結託し、取引先の銀行は容赦なく貸し剥がしを仕掛けてきた。毎夜、胃酸が喉を焼き、ベッドに入っても一秒たりとも眠れなかった」
誠一郎の視線が、ゆっくりと佳乃へと向けられた。
琥珀色に揺らめくその瞳の奥に、かつてないほど熱く、切実な光が灯っていた。
「そんな時だった。……五年前の、あの帝国ホテルでの大型財界レセプションの夜だ」
「五年前の……」
佳乃の記憶が、鮮やかに蘇る。第20話で誠一郎が語ってくれた、運命の原点の夜。
「あの日、私は胃潰瘍の激痛とプレッシャーで、壇上のスピーチを終えた直後、舞台裏の非常階段で卒倒しかけていた。視界が真っ暗になり、脂汗が止まらず、指先一つ動かせなかった。……もしあの場で私が倒れていれば、翌朝の経済紙には『タカツカサの若き総帥、重病で経営不能か』と大々的に書かれ、我が社の株価は暴落し、ファンドは解体の危機に瀕していただろう」
誠一郎は手すりから身体を起こし、佳乃の前へと半歩踏み出した。
「だが……その時、誰も私の異変に気づかない中、たった一人だけ、暗闇の非常階段の扉を開けて駆け込んできた女性がいた。……先代・鳴神剛造の傍らに、目立たぬよう地味なスーツを着て控えていた、君だ、佳乃」
誠一郎の声が、熱を帯びて震えた。
「君は、私の顔色を一目見ただけで、何が起きているかを瞬時に察知した。大騒ぎすることもなく、警備員を呼ぶこともなく……自らのバッグから手早く薬湯と胃薬を取り出し、私の唇へと運んでくれた。そして、私の専属ドライバーを裏口の通用門へと極秘に誘導し、ホテルのスタッフの動線を完璧にコントロールして、誰一人として私の衰弱に気づかせないまま、私を車へと脱出させてくれたのだ」
佳乃は胸元に手を当て、息を呑んだ。
当時の自分にとっては、先代の随行秘書として、会場全体のVIPの体調や動線に気を配る日常の実務の一つに過ぎなかった。
だが――
「君は、私に見返りを求めなかった」
誠一郎の大きな手が、佳乃の肩に掛けられたブランケットの上から、そっと置かれた。
骨太な指先が、布越しに佳乃の肩を包み込む。
「名刺を渡して恩を売ることもなく、後日、タカツカサに融資や便宜を求めてくることもなかった。ただ、一人の人間が苦しんでいるのを見過ごせず、自らの知性と配慮のすべてを使って、無償で私を救い出し、何事もなかったかのように鳴神剛造の影へと戻っていった」
誠一郎の切れ長の瞳が、潤んだ光を湛えて佳乃を射抜く。
「あの日から……私の凍りついていた心の中に、君という消えない光が灯ったのだ。……誰もが利権と欲望のために群がり、騙し合うこの薄汚れたビジネスの世界で……誰の見返りも求めず、ただ誠実に、他人の痛みに寄り添い、組織と人を支え続ける誇り高き女性がいる。……その姿を見るたびに、私の魂がどれほど救われ、どれほど君という存在に焦がれ続けてきたか」
「鷹司……様……」
佳乃の胸の奥底で、熱いものが激しく込み上げていた。
鳴神物産にいた七年間、貴之からも、周囲の役員たちからも、自分の気配りや根回しは「やって当たり前のお茶汲み」「誰にでも代わりが利く雑務」として使い捨てられてきた。
どれほど身を削ろうとも、どれほど心を砕こうとも、そこに感謝や敬意が返ってくることなど一度たりともなかった。
だが、この男はずっと見ていたのだ。
誰も見向きもしなかった舞台裏の片隅で、自分が注ぎ続けていた誠実さのすべてを、自らの命を救った唯一無二の光として、五年間ずっと、魂の奥底に大切に抱き締め続けてくれていたのだ。
「……佳乃」
誠一郎は手にしたマグカップを手すりの上に置くと、両手を伸ばし、佳乃の華奢な両肩を、壊れ物を扱うかのような繊細さで、だが絶対に離すまいとする力強い熱量をもって、しっかりと包み込んだ。
至近距離で見つめ合う二人。
満天の星空の下、二人の吐息が白く淡く重なり合い、冷たい夜風の中で混ざり合っていく。
「私は最初……君を鳴神物産の泥舟から引き抜いた時、自らに言い聞かせていた」
誠一郎の声は、低く、掠れ、剥き出しの真実を語っていた。
「君の類まれな知性と実務能力を、タカツカサの武器にするのだと。君の防波堤としての手腕があれば、我が社はどんな大型買収も無敗で制圧できる……そう、合理的なビジネスの計算として自分を納得させようとしていた」
誠一郎の親指が、ブランケットの襟元から滑り落ち、佳乃の白い首筋、そして柔らかな頬へと、そっと触れた。
触れ合った皮膚から、火傷しそうなほどの熱が佳乃の全身へと駆け巡る。
「だが……違ったのだ。そんなものは、ただの口実に過ぎなかった」
誠一郎の瞳に、激しく、切ない情炎が揺らめいた。
「君がエントランスで元婚約者にすがりつかれた時……私は、理性を失いそうになった。君が過労で倒れた時、私の心臓は止まりそうになった。君が他人のために身を削る姿を見るたびに、胸が張り裂けそうになる。……君が傷つくのが耐えられない。君が誰かの影に隠れて泣く姿を、もう一秒たりとも見たくないんだ」
誠一郎は佳乃の顔を覗き込み、一言、一言を、自らの命を削り出すかのような重みをもって紡ぎ出した。
「私はもう……君を『有能な秘書』として手元に置きたいのではない。ファンドの武器として、数字を稼ぐ道具として君を縛りたいのでは断じてない」
星々の光を背に受けて。
若き投資帝国の覇者が、自らのプライドも、仮面も、計算もすべてかなぐり捨てて、ただ一人の男として、魂の底からの愛を告白した。
「私は……君自身が、心から笑っていてくれることだけを願っている。美味しいものを食べ、温かいベッドで眠り、誰にも搾取されることなく、誇り高く、幸せに生きていてほしい」
誠一郎の大きな手が、佳乃の頬を包み込み、引き寄せる。
「ビジネスの契約などという矮小な枠組みではない。……年俸五千万円の特命秘書としてではなく、私の人生の隣にいてほしい。槇野佳乃という一人の女性を……私の人生のすべてを懸けて、愛している」
「…………っ!!」
佳乃の瞳から、大粒の熱い涙が、ポロリとこぼれ落ちた。
頬を伝うその涙を、誠一郎の親指が、限りない慈愛を込めてそっと拭い去る。
ビジネスの契約ではなく、人生の隣に。
七年間、誰からも愛されず、誰の所有物としても顧みられず、「お前の代わりなどいくらでもいる」と切り捨てられてきた自分が。
今、世界で最も誇り高く、最も冷徹な男から、世界でたった一つの、代わりの利かない唯一無二の存在として、人生のすべてを懸けて請われている。
胸の奥深く、ずっと凍りついていた氷の棺が、完全に、跡形もなく溶け去っていくのが分かった。
自分はもう、孤独な黒子ではない。
この男の隣に立ち、この男の愛を受け止め、そしてこの男と共に、未来の荒波をどこまでも越えていくパートナーなのだ。
「鷹司……様……」
佳乃の唇から漏れたのは、震える吐息だった。
「いいや……誠一郎、と呼んでくれ」
誠一郎の口元が、わずかに苦笑するように、だが狂おしいほどの愛しさを込めて綻んだ。
「代表でも、会長でもない。……君の前では、私はただの、君に恋焦がれる一人の男でいたい」
「……誠一郎、さん」
佳乃がその名を口にした瞬間、誠一郎の瞳が歓喜に濡れ、息を呑んだ。
佳乃は両手をそっと持ち上げると、誠一郎のアイボリーのタートルネックニット、その胸元へと手のひらを添えた。
手のひら越しに伝わってくる、男の激しく、力強い心音。
ドクン、ドクン、ドクン、と、世界を動かす覇者の胸の奥で、自分だけのために脈打つ命の熱。
満天の星々が、二人を祝福するように青白く瞬いていた。
冷たい夜風すら、二人の間に流れる甘美な熱を冷ますことはできなかった。
ビジネスパートナーとして始まった二人の関係が、今、魂と魂が完全に溶け合う、至高の愛へと昇華した瞬間だった。
そして――
誠一郎の大きな手が、ゆっくりと自らのニットのポケットへと滑り込んでいった。
愛の告白を受け入れた至高の夜に、男が用意していた、生涯にわたる誓約の証が、今まさに、星空の下へと差し出されようとしていた。




